[#表紙(表紙.jpg)] 日本史の叛逆者 私説・壬申の乱 井沢元彦 目 次  第一章  血風の峰  第二章  蜜と長槍  第三章  暗 闘  第四章  粛 清  第五章  改新の詔  第六章  新政の嵐  第七章  吉凶転々  第八章  棄都捨帝  第九章  重 祚  第十章  新羅の男  第十一章 決 断  第十二章 挫折の春  第十三章 決 戦  第十四章 夢魔のとき  第十五章 近江新京  第十六章 逆潮の日々  第十七章 回 天 [#改ページ]   第一章 血風の峰      一  真紅に染まった太陽が、山の陰から昇り始めた。  山に囲まれた不破《ふわ》の関、後世、関ケ原と呼ばれた一帯を見おろす峰の上で、大海人《おおあま》は夜明けの空気を胸一杯に力強く吸い込んだ。  壬申《じんしん》の年(六七二)七月二十三日のことである。 (ついに、わしは帝《みかど》に勝った)  大海人は満足げにあたりを見回した。  このあたりに既に敵影はない。  先帝|天智《てんじ》天皇の子、大友《おおとも》の帝(弘文《こうぶん》天皇)は、いますべての兵を失い、大津京に追い詰められている。おそらくきょう一日の間に、捕えて首をはねることができるだろう。 (帝よ)  と、大海人は心の中で呼びかけた。  大友にではない、先帝天智に対してである。 (あなたは、わしを踏み台にして、大津の京《みやこ》を築き上げられた。汚れた仕事はいつもわしに押しつけ、帝の位に即《つ》かれた。そして、あまつさえこの国を滅亡に導こうとされた)  大海人は今こそ、はばかりなく大声で叫びたかった。  正義はわれにあり、この国を救うために大海人は立ち上がり、帝を倒したのだ。 「——皇子《みこ》様」  ささやくような声がした。背後からである。  振り向くまでもなかった、声の主はわかっている。 「虫麻呂か、いかがした?」 「小子部連《ちいさこべのむらじ》|※[#「金+且」、unicode924f]鉤《さいち》どのが、昨夜、自害なされました」 「※[#「金+且」、unicode924f]鉤が? まことか」  大海人は珍しく虫麻呂の方を振り返った。大地に溶け込んでしまいそうな、くすんだ色の衣をまとって、小さな体を縮めるように、虫麻呂は片膝をついていた。 「この目で見届けて参りました」  虫麻呂は抑揚のない声で答えた。 「愚か者めが」  なぜ、※[#「金+且」、unicode924f]鉤が死んだのか。大海人にはすぐに見当がついた。  殉死である。  いや、大友の帝はまだ生きている。あるいは黄泉路《よみじ》への先導をするつもりなのかもしれない。  今度の勝利は※[#「金+且」、unicode924f]鉤の功によるところが大である。尾張国司である※[#「金+且」、unicode924f]鉤が二万の兵を召集し、それを帝ではなく大海人に提供してくれなかったら、おそらく大海人の勝利はなかったはずだ。  ※[#「金+且」、unicode924f]鉤こそ勲功第一、戦い終われば大海人は、※[#「金+且」、unicode924f]鉤を大臣か兵政官の長に任じようとすら思っていたのである。 「なぜ生きぬ、裏切り者の名がそんなに恐ろしいか——」  大海人は怒り、そして悲しんだ。  裏切りというならば、帝に叛逆した大海人こそ最大の裏切り者である。※[#「金+且」、unicode924f]鉤がそのことを気にする必要などなかったのだ。  虫麻呂は、どんな重大事を報告する時も無表情で、口を挟むこともない。  この時もそうだった。  大海人は感情を押さえると、虫麻呂に命じた。 「大津へ行け、今度は帝の死を見届けて参れ」 「かしこまりました」  すぐに立ち上がろうとする虫麻呂に、大海人はさらに命じた。 「よいか、必ず帝の首を取れ」  この時ばかりは虫麻呂の顔色が少し変った。もっとも傍目《はため》でみる限り、それとは知れなかったろう。  長年の主従であるからこそ、大海人にはわかった。 「前とは違う」  大海人は説明を加えた。  虫麻呂は黙って大海人を見上げている。 「前は、帝を殺したことさえ秘匿《ひとく》せねばならなかった。だが、今は違う。世が変ったことを、民に知らしめなければならぬのだ。だから首がいる。わかるな」 「はっ」 「帝の側近は、首を渡すまいとするであろう。だが、許してはならぬ。よいな、しかと申しつけたぞ」 「かしこまりました」  虫麻呂は中腰となって、つつっと後ろへ下がって一礼した。  きびすを返して去ろうとする虫麻呂は、再び大海人に呼び止められた。 「そちは、わしに仕えて何年になる?」  唐突な質問だった。しかし、虫麻呂は淀みなく答えた。 「三十年になりまする」 「そうか」  大海人はうなずいた。 「他に御用は?」 「——ない、行くがよい」  虫麻呂はあっという間に走り去った。  三十年間、まるで変らぬ素早い身のこなしである。 (三十年、わしも老いるはずだ)  いつの間にか、五十の坂を大海人は越えていた。      二 「皇子様、村国男依《むらくにのおより》どのより、吉報でござりまする」  舎人《とねり》の報告に、大海人は玉座でうつらうつらとしていた。  男依は、大海人方で最も戦功をあげている将軍の一人である。 「帝を捕えたか」  目をさました大海人は勢い込んで聞いた。 「いえ、それはまだでございますが、敵方の将軍|犬養連五十君《いぬかいのむらじいそぎみ》、谷直塩手《たにのあたいしおて》の両名を捕えましてございまする」 「犬養と谷とな、上出来じゃ。男依に手柄であったと伝えよ。それから、両名はただちに市《いち》にて首をはねよ、とな」 「かしこまりました」  舎人は退出した。 「父上、これでもはや帝も逃れようがございませぬな」  高市《たけち》皇子が言った。  高市は大海人の最も年長の子である。  今度の戦いでは、大将軍として見事な指揮を見せている。 「うむ、これで帝の将軍はことごとく滅ぼしたことになる。おそらく帝の本軍も、散り散りになっておるであろう」  大海人は満足げにうなずいた。 「先に敵将|智尊《ちそん》を討ち取り、今度は犬養・谷の両将を生け捕るとは、男依の功は抜群でございまする」 「そなたも、戦場に出て、手柄をたてたいのであろう」 「お許し下さいますか」  高市の目が輝いた。 「ならぬ」  大海人は首を振った。 「何故《なにゆえ》でございます。わたくしが信ずるに足らぬと仰せられますのか」  高市は色をなして言った。  そうではない。  大海人は改めて長男を見た。  若い頃、身分の低い女に生ませた子である。だが、それゆえに、筋骨たくましく雑草のような強さを持っている。戦いの初期、大海人が高市を先鋒軍の将として起用したのも、その力量を買ってのことだ。実際、何人もいる男子のうち、最も頼りになるのは、この高市なのである。 「やめておけ、いまさら手を汚すことはない」 「手を汚す?」  高市はけげんな顔をした。 「そうだ、仮にも相手は帝だぞ。殺せば、大逆の罪を犯すことになる」 「では、命を助けるのですか、ここまで来て——」 「馬鹿な。たわけたことを申すでない。首はもらう、百年の後を思うならば、そうせねばなるまい」 「ならば、わたくしが——」 「それが、たわけたことだと申すのだ」  大海人は叱りつけた。 「よいか、わしはな、先帝に何度も汚れ役をやらされた。息子のそなたにも話せぬことをな。もう、よい、放っておけばよい。男依もおる、吹負《ふけい》もおる。まもなく吉報が届くであろう。吉報がな」  高市は不服そうに口をつぐんだ。  その将軍村国男依は、琵琶湖のほとり、大津京近くの粟津《あわづ》にいた。  ここは定期的に市が開かれ、多くの民が集まってくる。水陸の交通の便もよく、大津京に最も近い大市であった。  その大市の真ん中の広場に、荒縄で固く縛《いまし》められた二人の偉丈夫が引き出された。  あたりは甲冑に身を固めた兵士によって、警戒線が張られている。  二人の男、帝方の将軍犬養連五十君と谷直塩手は、髪をふり乱し、その顔も血と泥で汚れている。  しかし、目だけは生気をみなぎらせ、警戒の兵士や、集まってきた群衆に噛みつかんばかりの勢いだった。  男依は群衆が充分に集まったところを見計らって、二人の前に出た。 「犬養の五十君、谷の塩手、叛逆の罪により斬《ざん》に処す」  男依は口頭で言い渡した。 「叛逆だと、笑わせるな」  後ろ手に縛られたまま、五十君は叫んだ。 「——わしが誰に叛逆したというのだ? 男依、言ってみろ」 「知れたこと、大海人皇子様だ。自分の罪を忘れるとは、五十君、それほど恐ろしいか」  男依は冷やかな声で言い返した。  兵士がどっと笑った。  五十君は顔を真っ赤にして、 「黙れ、黙れ。汝《なんじ》こそ、大逆無道の罪を犯しておる。わしと塩手は、畏《おそ》れ多くも帝の命《めい》によって戦に臨んだのだ」 「そちこそ黙れ、帝などはこの世におわさぬ。先帝が崩じられて後、帝は、いまだこの世におわさぬ」  男依はことさらに大声で叫んだ。  男依はもともと武人ではない。大海人の舎人《とねり》である。だからこそ、このことがいかに重要かを十二分に心得ていた。  帝はいない。大海人が討つのは、あくまで大友皇子であって、大友の帝ではない。だから、これは大逆ではない——。 「斬れ」  男依は五十君に反論の機会を与えなかった。  首斬り役の剣が一閃し、五十君の首はころりと地に落ちた。  塩手は絶叫した。 「おのれ、大逆無道の大海人め、いずれ天罰が下ろうぞ」 「ええい、斬れ、斬ってしまえ」  塩手の首も地に転がった。  男依はあたりを見回して、声を張り上げると、 「よいか、このまつろわぬ[#「まつろわぬ」に傍点]者共を滅ぼして後、大海人皇子様が天津日継《あまつひつぎ》になられるのだ」  男依の大音声に向かって、異議を唱える声は寂《せき》として無かった。      三  大津京から北へ一里、かつて王宮の人々が山菜摘みに訪れたところである。  その王宮も今はない。  兵火にかかり、すべて焼失した。  その裏山というべき御井《みい》の地に、若き帝は追い詰められていた。  従う者、わずか三人、物部連麻呂《もののべのむらじまろ》ら側近中の側近のみである。  あとはすべて討たれ、逃れ、一国の王者たる大友に従う者は、これがすべてであった。 「麻呂よ、もう、よい」  帝は森の中で、腰が砕けて座り込んだ。馬もない。  瀬田川の守りを破られ、粟津も敵に奪われた。そして大津京の宮殿まで焼かれた今、もう逃れるところはどこにもない。  一山越えた山背《やましろ》国中央に位置する盆地が、平安京《きようのみやこ》となるのは、この時より百二十年も後のことだ。  東国への道は大海人の本軍によって閉ざされている。西への道もない。  帝の軍団はすべて壊滅していた。 「これまでじゃ。父上のもとへ参る」  帝はあえぎながら言った。 「何を気の弱いことを仰せられまする」  麻呂は叱咤した。 「もう逃げ場はない。まもなく追手がかかろう。捕虜としての辱しめを受けるなら、死ぬ方がましというもの」 「それはまだ早うございます」 「早くはないぞ、われらには馬はない。敵は馬に乗っておる」  帝の顔は青白く生気がなかった。 (無理もない)  と、麻呂は思った。  この一月《ひとつき》の間に、この若い帝の周辺に起こったことは、あまりにひど過ぎた。  大海人の挙兵はあくまで叛乱である。  この国を治める正当なる主権者、この若い帝への大逆の罪である。  今まで、こんなことが一度でもあっただろうか。いや、あったかもしれぬ。しかし、たとえそんなことがあったとしても、帝の軍勢が負けるはずはない。帝の位は天の神が守護するものであるはずだ。  だが、負けた。  それも、初めは圧倒的に有利で、叛乱軍とは比較にならない兵力で臨んだはずなのに、あっという間に負けた。  帝が衝撃を受けたのは、信頼していた部下に次々と裏切られたからだ。  特に尾張国司小子部連※[#「金+且」、unicode924f]鉤の裏切りは痛かった。これにより二万の軍勢が味方から敵へと鞍替えしたことになる。しかも、東国との連絡がこれにより断たれた。  仮に東国の豪族が帝に味方したいと考えても、尾張から不破の関にかけて、一帯を封鎖されてしまったら、どうしようもないのだ。おそらく東国では、この乱が起こったことさえ知らない者が多いのではないか。 「あの枝がよい」  と、帝は近くのブナの木を指さした。  縊死《いし》のためである。  貴人は首をつって自殺するのが習わしであった。  麻呂は諫止したが、帝は言い張ってきかない。  そのうち下の方から兵馬の叫びが聞こえてきたので、麻呂は仕方なく舎人に命じて、枝から帯を垂らした。 「これでよろしゅうございますか」  帝はうなずいて、まるでこれから遠乗りに出かけるような風情で立ち上がった。  そして冠を脱ぐと、麻呂に渡した。 「苦労であった。朕が最後の願いじゃ、肩を貸せ」 「はい、それは——」  麻呂がためらっていると、帝は怒って、 「早くせい」 「はい」  麻呂は大地に跪《ひざまず》いた。  帝はまるで階段を上がるように麻呂の肩に登り、枝から垂れた帯の輪の中に、首を通した。 「世話になったな、朕はこれからゆく。皆は勝手にするがよい。——ああ、麻呂、もう一つ頼みがある」 「何なりと仰せられませ」 「わが首を敵に渡すな」 「——かしこまりました」  声がつまって、麻呂は嗚咽した。  舎人たちは感極まって号泣した。 「泣くな。人はいつか死ぬものではないか」  帝はいったん目を閉じた。  しかし、思い直したように目を開くと、 「わが后《きさき》は、われを裏切ったのであろうか?」  麻呂も、舎人たちも、帝の疑問に答えることはできなかった。  答えがわからなかったのではない、誰もがわかっていた、唯一人若き帝を除いて——。  突然、麻呂の肩に衝撃がきた。  はっとして麻呂がうつむいていた顔を上げると、帝の体は既に宙に浮いていた。 「痛い」  押し殺したような声が頭上からした。 「痛い、痛い」  麻呂は立ち上がって帝の体を支えたい衝動にかられた。 (だが、助けて、どうなるものでもない)  麻呂は、同じく助けようとした舎人たちを止める側に回った。  もはや帝には二つの道しか残されていない。  密《ひそ》やかな死か、屈辱の生か。生を採ったところで、生きられる時間は極くわずかだ。  ならば死ぬ方がいい。  長い時間だったのか短い時間だったのか、気が付くと帝は声も立てず、ただぶらさがる物体になっていた。  麻呂は太刀で帯を斬り、その玉体を受けとめた。  少年の面影がまだ残っている顔が、うっ血のため赤黒くふくれあがっているのを見て、麻呂は初めて大声で泣いた。  その玉体を、麻呂は舎人たちに命じて森の中に埋めた。  埋めるといっても、鍬《くわ》も鋤《すき》もない。埋めるというより土をかぶせることしかできなかった。  麻呂は、そこで二人の舎人を解き放った。  これ以上、この場にいる必要はない。  仕えるべき主人は既になく、この場を去らねば遺骸を敵に発見される。  三方に別れて散ることになった。  麻呂は北を目指した。  山並みに沿って目立たぬように北へ向かい、湖に出て越前へ抜けようと思ったのである。  麻呂の不幸は、ほんの一里も行かぬうちに、大海人の命を受けてこの地に現われたばかりの虫麻呂に見付かったことだった。 「物部麻呂よ、どこへ行く」  頭上から突然声がしたので、麻呂は太刀の柄に手をかけた。 「何者だ」 「わしだ、お見忘れかな」  木の上から虫麻呂が飛び降りた。 「おのれは虫麻呂」  麻呂は憎悪の目で虫麻呂を見た。 「お久しぶりでござる。御無事で何より、お喜び申し上げる」 「なんだと、ぬけぬけと」  麻呂は太刀を抜き払った。 「お教え下され、帝はいまどこにおわす」 「知らぬな」  太刀をふりかぶって、麻呂はじりじりと間合いを詰めた。 「帝の舎人|頭《がしら》たる貴殿が知らぬはずはございますまい。それとも、森の中で道に迷われたとでも申されますのか」  虫麻呂は、ふと麻呂の両手に注目した。  ただ森の中を歩いてきたというだけにしては、手が泥で汚れ過ぎている。 (さては——)  虫麻呂が直感すると同時に、麻呂は気合いを込めて太刀を打ち込んできた。  だが、虫麻呂にとって、日頃剣をろくに扱ったことのない麻呂をあしらうのは、赤子の手をひねるようなものだった。  一合《ひとあわせ》もかわすことなく、虫麻呂は腰に帯びた小刀を抜くことすらなく、麻呂の剣をはたき落とした。  そして次の瞬間には、肩をねじり上げていた。  麻呂はその苦痛にうめいた。  信じられぬほどの激しい痛みである。 「帝は自害されたとみえますな。御遺骸はいずこでござるか?」 「知らん」 「では、この体に聞きますかな」  虫麻呂は無表情で、力だけを足した。  麻呂は激痛で目がくらんだ。 「よく考えなされ。あなた様はいま大罪人、このままでは妻子ばかりでなく両親《ふたおや》も親類もことごとく殺されることになりまするぞ」 「——」 「ここは利口に立ち回ることだ。帝の、いや先の帝の御遺骸を差し出すだけでよいのでござる。これで麻呂どのの命は助かり、妻子は幸せになる。これほどよいことはござらぬではないか」 「何を言う、この大罪人め」 「それは昨日までのこと。大友の帝亡き今、もはや天津日継は大海人皇子様のもの。先帝に義理立てしても始まりませぬ」 「——」 「いかが」 「うわーっ」  虫麻呂は一層の力を込めた。 「あと少しで骨が折れまする。次は左手、そのあとは足へと参りましょうかな」 「やめろ、やめてくれ」 「では申されるな。なんなら、わたくしめが皇子様へ口をきいてもようございます。このたびの勲功、麻呂どのにまさるものはないと」 「——確かに言うか」 「いつわりは申しませぬ」 「わしから、御尊骸の有処《ありか》を聞き出しておいて、すぐに斬り殺そうというのではあるまいな」 「それは致しませぬ」 「なぜそう言い切れる。そなたは手柄を一人占めできるではないか」 「この虫麻呂、手柄を求めたことなど一度もございませぬ。それは、あなた様もよく御存じではございませぬか」 「——」 「そうではございませぬか」 「わかった、わかったから、放せ」  虫麻呂は言われた通りにした。  解放された肩を、麻呂はしきりにもんでいた。  痛みはまだ治まっていない。  だが、虫麻呂の言葉は信じた。  確かに、麻呂が虫麻呂の存在を知って以来十数年になるが、功名や手柄を求めたことは一度もない。少なくともその例を知らない。 「では、御案内下されませ」  麻呂は、まだ痛む肩をさすりながら、今来た道を戻り始めた。  虫麻呂は黙って後を尾《つ》いてくる。  その場へ来ると、麻呂は黙って指さした。  木の枝で隠されてはいたが、地面を掘り返したあとはまぎれもない。  虫麻呂は素早く枝を取りのけ、地面の土を掘り返した。  ほどなく帝の死顔が中から現われた。  麻呂は思わず目をそむけた。  虫麻呂は何の感傷もなく、腰の小刀を抜くと、その首根に当てた。 「何をする?」 「御《み》首級《しるし》を頂戴致します」 「何のために?」 「皇子様のお言いつけでございます」  やめろ、と口まで出かかった。麻呂は一歩前に出ようとした。その瞬間をまるで予期していたかのように、虫麻呂は冷やかに浴びせた。 「あなた様は、もはや皇子様の臣でございますぞ」  振り向いて一言《ひとこと》言うと、虫麻呂はもうさっさと首を斬り離す作業に入っていた。  麻呂は動けなかった。  まるで稲を刈るかのように、やすやすと首を斬り離した虫麻呂は、もとどりをつかんでぐいと麻呂の眼前につきつけた。 「これを、わが軍に差し出されい」 「いやだ」  麻呂は、まだ血のしたたっている首から、目をそむけた。 「虫麻呂、おまえが持っていけ」 「いや、これはあなた様が持っていかれる方がよい」 「——?」 「この首一つで、栄達が望めまする。妻子も両親も安泰でござる」 「わしに、真の裏切り者になれと言うのか」 「それもありまする」 「それもある?」 「このままどこへ逃げようと、あなた様は必ずつかまりまする。その時は、あなた様がこのようになる」  虫麻呂の言葉に、麻呂は絶句した。  確かにその通りだ。 「かような目に遭わぬためには、この首を差し出すしかありませぬ」 「そなたはよいのか?」  虫麻呂はうなずいて、 「先程、申し上げた通り、手柄は、はなから求めておりませぬ」 「——皇子様は、よい御家来をお持ちだ」  麻呂は半ば本気で言った。  大海人は、確かにこういう家来を多く持っている。  それが、最後の勝敗を分けた決定的な要因かもしれないのだ。  さあ、とばかりに虫麻呂は一歩踏み出した。  麻呂はおずおずと手を伸ばし、その首の髪を手にからませた。ずっしりとした重味が右手に感じられた。  それは麻呂がこれから背負う罪の重さを示していたのかもしれない。 「行きなされ、あの丘の向うまで、男依将軍が軍を進めているはずでございます」  虫麻呂の指さした南の丘に向かって、麻呂はのろのろと前進した。旧主の首をぶらさげて、歩み始めたのだった。      四  大海人方の将軍村国男依は大津京を完全に制圧した。  粟津で、大友方の将軍犬養連五十君と谷直塩手を処刑した後、余勢をかって男依の軍団は大津京へ入ったのである。  既に大友方の軍団はすべて壊滅していた。  大友の側近である左大臣|蘇我赤兄《そがのあかえ》、右大臣|中臣金《なかとみのかね》ら、重臣はことごとく捕われた。  男依は信頼できる部下を数人引き連れ、兵火にかかった大津京跡を検分した。  ただ一つ気になっていたことが、無事片付いたのである。それは大津京を滅ぼしたことではない。 「男依——」  名を呼ばれて、男依は急いで剣をはずすと、大地に額づいた。  そこに現われたのは、数人の侍女に囲まれた白衣の若い女性である。  大友の帝の后で、そして大海人皇子の娘の十市《とおちの》皇女《ひめみこ》である。 「皇女様、よくぞ御無事で」  男依が最も気にかかっていたのは、このことである。  大海人に無事助け出すよう厳命されていた。  だが、それだけではない。 「男依、戦いは勝ったのですね」  十市は、まるで石のように生気のない白い顔で、聞き取れないほどの低い声で言った。 「はい」  男依はおそるおそる十市の顔を見た。 (ああ、おやつれになった)  男依は痛ましさに言葉を失った。  父と夫が生死をかけて争ったのである。  その争いに際し、皇女は、最後は父に味方した。 「わが君はいかがなされたであろう」 「——」  男依は、ますます返す言葉がない。  その「わが君」、大友の帝を討たねばならないのだ。 「そなたが、帝のお命を奪おうとしていることは、わかっています」  十市は、まるで他人事のような口調で、 「でも、何とか異国《とつくに》へでもお逃がせすることはできぬのであろうか」  男依も覚悟を決める他はなかった。 「なりませぬ」 「——」 「帝が、百済《くだら》へでも渡られることになれば、それこそ一大事でございます。この国が二つに割れてしまいます」  十市は目をかっと見開いて、男依をにらんだ。 「——だから、お命を奪う、と申すのか」 「はい。これは、お父上の御命令でございます」 「それにしても——」  と、十市が何か言いかけた時、興奮した伝令が男依のもとへ駆け込んできた。  そして、そのまま男依の許可も得ずに、叫んだ。 「帝の御首級、ただいま物部麻呂殿が持参なされました」 「たわけ者!」  男依は厳しく叱責した。 「控えるがよい、皇女様の御前であるぞ」  そう言われた伝令は、初めて十市の存在に気付き、あわてて平伏した。  だが、もう手遅れだった。  十市は、みるみる血の気を失い、その場に崩れ落ちた。 「皇女様」  侍女があわてて支えるところへ、男依も立ち上がって、 「急いで、お移し申せ。あちらに焼け落ちておらぬ建物がある」  男依は部下に命じて案内させた。  そして十市が支えられて、その場を去ると、地面に這いつくばっている伝令に声をかけた。 「帝の御首級はいずこじゃ?」 「はっ、あちらに、御案内致します」  伝令は先に立って歩き始めた。  かつての大極殿の裏方に、麻呂は悄然と立っていた。  男依が来ると、あわてて平伏した。 「帝の舎人頭ともあろう御方が、そのようになさることはあるまい」  男依は吐き捨てるように言った。  麻呂は肩をぴくりと震わせたが、何も言い返さず、ただうつむいている。  首は、地面の土を少し盛り上げたところに、無造作に置かれていた。 (おいたわしや)  男依は涙を禁じ得なかった。  その顔は苦しみの表情に満ちている。  恨みよりも、痛みが激しかったのだろうか。 「麻呂殿、まさか、そなたが帝を討ったのではあるまいな」 「滅相もない」  麻呂は顔を上げて、泣きそうな表情で、 「帝は、御井の裏山で自ら縊《くび》られたのだ。わしは、その首を運んだまでのこと」 「主の首を斬り取るとは、いかなる心地がするものか」 「将軍!」  麻呂は、今度はにらみつけるように、 「わしとて、かようなことはしたくはなかった。だが、そうすれば、妻も一族も助けると、口車に乗せられてな」  男依はその話に興味を持った。 「誰かな、その口車の主は?」 「それは——」 「将軍、それは、このわしのことだ」  背後から押し殺したような声がした。  男依はびくっとして振り返った。  いつの間にか虫麻呂がそこにいた。 「おぬしか」  男依はあまりいい気持ちがしなかった。  この虫麻呂という男、何かというと人の背後に回る癖がある。 (いやな男だ)  大海人皇子の忠実な犬であることは、よくわかっている。男依自身も皇子には忠誠を誓っている。しかし、どうもこの男を仲間と考えたくはない。  だが、虫麻呂はそんな男依の胸中を知ってか知らずか、 「将軍、皇子《みこ》様の御下知を伝える」  虫麻呂は立ち上がった。  逆に男依の方がその場に跪《ひざまず》き、配下の兵士もこれにならった。  それを見て麻呂も、のろのろとした動作で同じように跪いた。 「大友の、——皇子の首を取り、本陣まで持参せよ、とのお言いつけだ」  虫麻呂は、もう大友のことを帝とは呼ばなかった。 「なんと」  男依は驚いて顔をあげた。 「首を取れとは、皇子様の御指示か」  虫麻呂はうなずいて、 「このたびは首が要《い》る。世の変ったことを民に知らしめねばならぬ、そのように仰せられたのだ」 「——」 「これは皇子様の御指示ではないが、この際、首を先頭に高々とかかげ、不破の関まで戻られるのがよかろう。それが皇子様の御心にかなうというもの。また、この麻呂殿の手柄はただちに御報告せねばなるまいな」 「おぬしの指図は受けぬ。わが君は皇子様ただ一人——」  男依は憤然として立ち上がった。  虫麻呂は別に怒りもせず、 「では、確かに伝えましたぞ」  と、それだけ言うと、その場から走り去った。 (犬か、犬の足は早い)  男依は視線を大友の首に戻した。 (そこまでせねばならぬか)  この首を、軍の先頭にかかげ、美濃国まで凱旋《がいせん》せねばならぬのか。 (やむを得ぬ)  人の道に反することかもしれぬ。  しかし、大海人が多分そこまで望んでいるだろうことは、男依にもよくわかっていた。 (許されい、大友の帝、もとはと言えば、御父君《おんちちぎみ》が、お悪いのです)  男依は兵士に命じて、大友の首を白絹に包ませた。      五  大友の首級を布で包み、それを矛《ほこ》の先に結びつけ、軍で最も体の大きい兵士がそれを旗のように捧げ持った。  その兵士を先頭に、男依の軍は粛々と道を東へと進んだ。  沿道には、大勢の民衆が集まり、息を呑んでその首を見つめている。民衆の誰もが、その首は誰の胴についていたのか知っていた。  前代未聞のことである。  憎しみの目をもって、男依の軍団を見る者もいた。  しかし、大半は、むしろ悲しみの目でそれを見た。  男依軍の兵士も、これほどの勝ち戦《いくさ》でありながら、喜びの声は寂《せき》として無かった。  まるで葬送の列のようである。  その列へ、突然斬り込んだ者がいた。 「何者だ!」  警護の兵士は叫んだ。 「佐沼の馬彦《うまひこ》、大逆の徒男依を討つ」  背の高い若い兵士は、長剣を抜き放つと、たった一人で馬上の男依にせまった。  男依は黙って若者を見ていた。  恐怖はない。  たった一人で数千の軍勢の中に斬り込んで、その大将を討てるものではない。  かといって、嘲笑もしない。  むしろ、男依は若者の出現を喜んでいた。  このままでは、あまりにも帝が惨め過ぎる。 「殺すな、手捕りにせよ」  男依は大声で命じた。  若者は手捕りにするには強過ぎた。  一人で数人を斬り倒し、なおも余力を残している。 「将軍、これでは——」  副将の狭衣《さぬい》が言った。  男依は断を下した。  若者を射殺すように命じたのである。 (やむを得ぬ、帝の黄泉路《よみじ》のお供をせよ)  若者は、全身に矢を浴びて動かなくなった。  不破の本営に着いたのは、夜になってからである。  大海人は、仮屋の前の空地に赤々と篝火《かがりび》をたかせ、男依の到着を今や遅しと待っていた。  男依は、部下に盆の上に載せた首を運ばせ、実検に備えた。  大海人はゆっくりと首の前に進むと、じっくりと首を観察した。 「でかしたぞ、男依」 「はっ」  男依は平蜘蛛《ひらぐも》のように大地に身を伏せた。  大海人の背後から、高市《たけち》皇子が進み出て、大友の首をのぞき込んだ。  そして、すぐに目をそらした。 「これで、すべては終わった。きょうは戦勝の祝宴と致そう。男依、皆を労《いたわ》って取らせ」  大海人は命じた。 「ありがたきお言葉でございます」 「下がってよい」  その言葉に、男依は再び額を地にこすりつけ、立ち上がろうとして、ふと気が付いたように、 「この御首級、いかが致しましょうか?」 「そうだな」  と、大海人はその青白い首を見て、 「このあたりの山にでも埋めてやれ。場所はそちに任す」 「かしこまりました」  今度は本当に立ち上がって、男依は部下に首を持たせた。  そして退出しようとするところを、高市が呼び止めた。 「后はいかがなされておる」  十市皇女のことである。  昔、この高市と異母姉の十市皇女との間に、艶めいた話があったのを、男依は耳に挟んでいた。 「お気を落され、ただいま大津宮にてふせっておられます」 「そうか、わしが折を見て見舞いに行こう。お気を強く持たれよ、と伝えてくれぬか」 「お伝え致します」  男依は退出した。  大海人は高市を振り返ると、 「そなた、よからぬことを考えておるのではあるまいな」  高市は虚を衝かれたように、 「よからぬことと申しますと?」 「知れたこと、十市に懸想《けそう》しておるのではあるまいな」  大海人は眉根にしわを寄せていた。  高市は怒った。 「懸想などと滅相もない。父上、何を言われるのです」  その怒った顔を見て、大海人はふと、それが先《さき》の天智の帝に似ていると思った。 「——そなた、いくつになった?」  突然、大海人が別のことを聞いたので、高市はとまどった。 「いくつになったか、と聞いておる?」 「十九でございます」  肩をそびやかすように、高市は答えた。  十市皇女は、大海人が本邦第一の美人とも言われた額田王《ぬかたのおおきみ》に生ませた子である。  その女の生んだ子に、自分の息子が懸想する年になった。 (そうだ、初めて先帝と言い争いをしたのも確か、先帝が十九か二十の頃であったな)  大海人は二十数年前の昔を、鮮やかに思い出していた。 [#改ページ]   第二章 蜜と長槍      一  飛鳥の原に春が来ていた。  中大兄《なかのおおえ》皇子は、わずかな供を連れて、倭《やまと》京の近郊にある三輪山の麓《ふもと》の余豊璋《よほうしよう》の邸《やしき》を訪ねていた。  豊璋は百済《くだら》の王族だが、日本と百済の友好のきずなをより固いものにするために、子供の頃から家臣と共に来日している。  中大兄と豊璋は親しい友でもあった。ともに王族同士ということで、分け隔てなく付き合えた。  日本人同士ではこうはいかない。 「王子《おうじ》、また来ましたぞ」  馬から降りると、中大兄は、迎えに出た豊璋に声をかけた。 「これは皇子《みこ》、よういらせられた」 「そなたの顔が見とうなっての」 「お目当ては、また蜂の蜜でございましょう」  豊璋は笑った。  つられて中大兄も笑みを浮かべ、 「図星だな」  と、手綱を豊璋の家の者に渡した。  邸は、あちこちを赤く塗った唐風の建物である。  大広間に入って、中大兄は食卓の前の椅子に座った。  豊璋も向い合わせに座った。 「蜜を持って参れ」  召使が一礼して取りに行った。  ここは日本で唯一、養蜂の技術を伝えているところである。邸の裏に一面の花畑があり、蜂の巣箱が置かれている。  蜂を飼い、蜜を集める、そのことは百済人だけが出来る特技であった。だから、この国で、蜂蜜を食することのできるのは、この余豊璋の館だけであり、それは途方もない贅沢でもあった。  中大兄はここが唯一、心の休まる場所だった。  何でも話せる友は、豊璋しかいないのである。  多くの友を求めるには、中大兄の身分は高過ぎた。彼の屋敷には大勢の人がいるが、それは全部家臣に過ぎない。  では、身分を同じくする他の皇子と友人になれるかといえば、そんなことは有り得ない。  母を同じくする兄弟ですら、皇位継承という将来の前に立てば、すべて敵である。  ましてや、母の違う兄弟など、いつ寝首を掻かれるかわからぬほどのものだった。  豊璋は隣国百済の王子である。  身分は同格だが、日本の皇位継承には何の権利もない。  だからこそ気楽な話ができるのだ。  大きな玻璃の碗に山盛りの蜜が運ばれてきた。  中大兄は歓声を上げて、次から次へと喉に流し込んだ。 「あとで少しお届けいたしましょう」 「少しと言わず、もっとくれ。これを食べていると世の憂さを忘れる」  中大兄は珍しく本音を吐いた。  平素、愚痴らしいことは一切口にせぬ男である。 「確かに、蜜は疲れによく、若返りの妙薬とも言われますが、食べ過ぎては何事もよろしくございません。過ぎたるは猶及《なおおよ》ばざるがごとし、と、論語にも申します」  滞日十数年ともなれば、日本語にも慣れる。豊璋の言葉は淀みなかった。  これに対して、中大兄は中国語で同じ論語の一節を諳《そらん》じてみせた。 「なかなか上達されましたな」  豊璋は感心した。  日本人の皇族で、朝鮮語はともかく中国語まで習っている者はいない。  通訳を使えば充分だし、大陸との交流もそれほどないからだ。  しかし、ひとり中大兄だけは、常に海の向うの情勢に気を配っていた。 「王子、人払いをしてくれぬか」 「はい」  豊璋は理由は聞かずに言われた通りにした。 「——お悩みごとがありますね」 「わかるか」  中大兄は笑いもせずに、うなずいて、 「人生の岐路に立ち、悩んでいる。どうすべきか、左へ行くか、右へ行くか。わしには相談する者が、そなたしかいない」 「光栄です。おうかがいしましょう」  豊璋は言った。  中大兄は別人のように厳しい目で、注意深くあたりを見回した。  そして言った。 「入鹿《いるか》めを、どう思うか」  豊璋はすぐには答えず、あたりを見回して、 「どう、と仰せられるのは?」 「わかっているはずだ」  中大兄はいらいらして言った。  豊璋はうなずいて、 「捨ててはおけませぬな」 「そうであろう」 「蘇我《そが》一族の専横、目に余るものがあります」 「このままでは、わが大王家《おおきみのいえ》の存亡にもかかわると見たが、そなたの考えはいかがかな」 「同じでございます」 「ならば、蘇我討つべし、ということになるが——」  と、中大兄はあらためて豊璋の顔を見た。  豊璋は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。  蘇我入鹿、いまや大王家をしのぐこの国の権力者である。  女帝である皇極《こうぎよく》帝の寵愛をいいことに、自らの邸を「宮門《みかど》」と、勝手に人民を使役して作らせた大墓を「陵《みささぎ》」と呼ばせていた。  これは大王家しか許されないことのはずだ。  放っておけば、大王家に代って、この国の王者になるかもしれなかった。  中大兄は、母である皇極帝に何度も諫言《かんげん》したが、そのたびにしりぞけられた。  母の目は曇っている。  なぜ曇ったのか、その理由もはっきりしている。  だが、そのことだけは友の前でも口にする気にはなれなかった。  とにかく蘇我一族は帝の絶対の信任を得ている。しかし、だからこそ危険なのだ。いまのところ、蘇我を討とうと考えている者はいない。  だが、中大兄だけはそう考えていた。豊璋はその決意を打ち明けられて当惑していた。  もし、このことが事前に知れたら、豊璋もただでは済むまい。百済の王族で、日本との友好を求めるために在住している。だから殺されることはあるまいが、国へ送り返されることはあるかもしれない。  豊璋は正直なところ、そんなことは夢にも考えたことはなかった。  故郷百済のことは、子供の頃の記憶しかない。それよりはこの国こそ故郷であり、この三輪山の麓で、日本人たちに尊敬されて日を送るのが一番いい。その暮らしを続けるためには、日本の王家の争いに口をはさむべきではなかった。  局外中立こそ、生きのびる道なのである。  しかし、豊璋は、敢えて言った。 「何か、力を貸せることが、このわたくしにもあるでしょうか?」 「いや、そのお言葉だけで充分だ」  中大兄は感激して、豊璋の手を握った。 「そなたは百済国の者、この国の争いに係わってはならぬ」 「——」 「わかっておろう。そのことは」 「わかっています。ただ、何とか力をお貸ししたいと思ったのです」 「わかっている」  中大兄は豊璋の手を握りしめたまま、 「きょうここへ参ったのは、そのことを、そのことだけを確かめたかったのだ。入鹿を討つか、討たぬか」 「そうでしたか」 「そなたのおかげで決心がついた」  中大兄は笑った。  その笑顔を見て、豊璋は逆に心配になってきた。  皇子だからといって、もしも蘇我一族を討とうと心に期していることが露見したら、一体どういうことになるだろう。  無事に済まないどころか、一族皆殺しの目にあうことすら考えられるのである。  あの聖徳太子の子、山背大兄王《やましろのおおえのおう》一族の滅亡もまさにそれではなかったのか。 「かの一族を討つのはよろしかろう。されど、もし万一討ち損じられるようなことあらば——」 「それもわかっている」  中大兄は大きくうなずいて、 「手立ては決める。力を貸してくれる者もいる。あとは、やるかどうかなのだよ、王子」 「ならば、もう何も申し上げることはございません」  豊璋は言った。  この自分より二つほど年上の、若い皇子の行動力には、豊璋もつねづね敬意を払ってきた。  また卓上の蜜を口にして、中大兄は、 「誰が手を貸すか、知りたいであろうな」 「それは——」  知りたい、と言いかけて、豊璋はあわてて口をつぐんだ。 「そうだ、知らぬ方がよい。知れば迷惑がかかるかもしれぬ」  中大兄はそう答えた。  豊璋を信じないわけではない。  しかし、この件はそう言っておいた方がいいのである。  万一の場合、中大兄は二度とこの蜜を味わうことはできなくなる。  ここで、一味の名を漏らせば、それは結果において豊璋に迷惑をかけることになるかもしれないのだ。 「もういい、話は終った」  中大兄は声を大きくすると、 「もはや、人払いは無用だ」 「そういえば、きょうは漢殿《あやどの》の姿が見えませぬな」  ふと気が付いて豊璋は言った。  とたんに、中大兄の顔がみるみる不機嫌になった。 「いかがされた、弟君の身の上に何か?」 「あやつを弟と呼ぶな」  中大兄は叫んだ。  豊璋は驚いて言葉を呑み込んだ。  中大兄は、すぐに表情を穏やかなものに変え、 「すまぬ。つい怒鳴ってしまった、許されよ」 「いえ、許すも許さぬもありませぬが」 「申しておこう。あやつは弟と呼ばれておるが、弟ではない。あやつの方が年が上なのだ」 「上?」 「そうだ。そなただから言ってしまう。あれは、母が若き頃、つまらぬ男と通じて生んだ不義の子なのだ」  中大兄は自嘲気味に、 「わが母は、よき母だが、たった一つ、悪《あ》しき所がある。——多情でな」  豊璋は何と言って応じたものか、迷っていた。  まさか、なるほどとも言えない。しかし、そうではございませぬでしょう、とは白々しくて言えない。  蘇我一族の当主で、男盛りの入鹿と皇極帝の間があやしいということは、豊璋の耳にも入っているのだ。  いつの頃からか、漢殿と呼ばれる男が、中大兄の弟として一緒に暮らすようになっていた。  弟にしては、「皇子《みこ》」の名で呼ばれぬので、豊璋も不思議だとは思っていた。  そういう事情があったのか。  しかし、同時に豊璋はもう一つ疑問が湧いてきた。仮に年上だとしても、同じ母から生まれたのなら、やはり兄弟だろう。母親は、ときの帝なのである。  それなのに、どうして、漢殿は皇子と呼ばれないのか。  中大兄も、豊璋の胸の内に浮かんだ疑問を容易に察した。 「——かの者の父、その名ばかりは語るわけにはいかぬ」 「——」 「だが、これだけは覚えておいてもらいたい。あの男には、この国の大王となる血はない。それだけは、たとえ天と地がくつがえろうと有り得ぬことなのだ」 「——では、このたびのことには、あの方の力は借りぬと……」 「そうだ、これは大王家のことだからな」 「それはいかがなものでございましょう」  豊璋は首を傾《かし》げて、 「武芸に秀でた者を使わぬという手はありませぬ」 「それが汚れた者であってもか」 「汚れた者には、汚れた仕事をさせればよろしいのでは」  豊璋の言葉は、中大兄に衝撃を与えた。  そういう考え方もあるのだ。  中大兄の脳裏に、漢殿の顔が浮かんだ。 (いっそのこと、汚れ仕事は、すべてあやつにやらせてみるか)      二  余豊璋の館から中大兄は帰る道すがら、馬上で今後のことを考えていた。 (矢は放たれたのだ)  中大兄は思う。  もう、あと戻りはきかない。  だが、あの強大な蘇我一族を倒せるものかどうか。  一門の棟梁である入鹿《いるか》と、その父の蝦夷《えみし》、この二人を倒せばいいというものではない。  蘇我一族は私軍ともいうべき兵を多数擁している。  理想としては、この軍隊と堂々と対決して、打ち破るのがいい。そうすれば、蘇我の勢力を、この国から完全に一掃出来る。  しかし、それは難しい。  中大兄は朝廷の官ではない。ただ、現天皇の息子であるという立場だ。朝廷軍を動かす権限はないのである。  朝廷軍を動かすには、軍の有力者を味方につけなければならない。 (だが、もし、その男が裏切ったら)  中大兄はただちに殺されるだろう。  母が天皇であることも、何の助けにもならない。  中大兄は一族皆殺しにあい、入鹿はけろりとしてそのことを天皇に報告するに違いない。  背筋に冷たいものが走った。  そうならない、とは断言出来ないのである。  蘇我一族の専横は憎い、許せない。  だが、そのことを単に憎んでいた時と、それを倒すと誓った時とでは、こうも違うものか。  今、中大兄の胸中にあるのは、大いなる恐れである。  本当は、戻れるものなら戻りたい、とすら思い始めている。  しかし、もう豊璋王子にしゃべってしまったのだ。もちろん王子は信用出来る。だが、一度口にしたことは天知る地知る、仮に実行しなくてもいつかは知られる。 (やはり、やるしかない)  中大兄は蒼白になっていた。  従者の豊人《とよひと》が、それを見咎めた。 「皇子様、御気分でも悪いので——」  馬の口取をしながら、豊人は振り返り、馬上の中大兄を仰いだ。 「いや——」  中大兄は首を振ると、気を取り直してあたりの風景を見た。  飛鳥の野には色とりどりの花が咲いている。  あちこちで鳥の声も聞こえる。 「菜摘《なつ》みの季節だな」  中大兄は血腥《ちなまぐさ》いことから離れたかった。 「まことに」  豊人はゆっくりと進んで行く。  春の野に出て、菜を摘むことは、この季節の大きな楽しみなのである。  別れ道にさしかかった。  左へ行けば飛鳥宮である。 「右だ」  中大兄は指示した。 「どちらへ?」 「いいから行け」  豊人は、きょうの皇子のようすは、いつになくおかしいと思った。  中大兄は人当りがいい。従者や下人に対しても、頭ごなしに物を言うことは少ない。その中大兄がそう言ったので、豊人は不思議に思ったのである。  実のところ、中大兄はどこへ行くべきか、まだ決めていなかった。  こちらへ行けば、協力を求めねばならない人物の館はいくつかある。  しかし、もし、そういうところへ行くならば、今はまずいという気もする。  途中で、どんな人物に会うかわからない。その中には、蘇我の息のかかった者もいるかもしれない。 (こちらへ行けば、中臣鎌子《なかとみのかまこ》の館もあるな)  中大兄はふとそれに気が付いた。  余計にまずい。  鎌子との結び付きは、まだ隠しておきたい。  それが、中大兄の「革命」を成功させる道でもある。  しかし、このままこの道を進めば、人は中大兄が鎌子の館をたずねたと噂するかもしれない。 (もし、それが入鹿の耳に入れば)  中大兄は行き交う人が、すべて入鹿の息のかかった密偵のように思えてきた。  市《いち》へ向かう物売りも、あたりの農民も、このわずかな供を連れた平服の貴人が、まさか中大兄だとは思わないだろう。  しかし、顔を知っている者がいないとは限らないのである。  向うから、従者一人を連れた役人が歩いてきた。  中大兄をみとめると、びっくりして道の隅へ寄り、額を地にこすりつけて拝礼した。 「——しのびだ。略礼でよい、と申してやれ」  中大兄は騎馬で付き従っている家来に言った。家来は馬を寄せてその旨を伝えた。  役人は立ち上がって、顔をやや伏せた。  貴人と視線を合わさないのが礼儀なのである。  中大兄は舌打ちした。  せっかく目立たぬよう、三騎と従者一人を連れて出てきたのに、あんな拝礼をされたら身分がわかってしまう。  現に、道のあちこちで、ささやき声が聞こえた。 「あれは誰」「中大兄皇子だ」とでも言っているのであろう。 「皇子様、いかが致しましょう」  豊人が聞いた。 「うむ」  やはり軽率にこんなところまで来るべきではなかった。今は目立たぬよう目立たぬよう、行動すべき時なのだ。 「——あの、皇子様」  豊人が遠慮がちに言った。 「何だ」 「漢殿様のお館をたずねられてはいかがでしょうか」 「あやつの?」  中大兄は不快な顔をした。中大兄は漢殿を兄とも弟とも認めていない。 「なぜ、そんなことを言う?」  中大兄は不思議に思って聞いた。 「漢殿様のお館をたずねられるのなら、誰も不審に思いますまい」  豊人は答えた。  そうか、それも一案だな、と中大兄は思い直した。  顔も見たくない男だが、その血のつながりは周知の事実である。  ここで、あの男をたずねれば、他の場所に行ったのでないと証明できる。 「よし、参ろう」  中大兄は決断した。      三 「これはよくいらせられました」  思いもかけない「兄」の訪問に、漢殿は全身に喜びをあらわして歓迎した。 「近くまで来たのでな」  あくまで、ついでに立ち寄ったのだ、という形をとりたかった。 「はい、わかっております。さあさあ、どうぞお入り下さいませ」  漢殿は先に立って中に入った。  中大兄はしぶしぶ後に続いた。  漢殿は中大兄より少し背が高く、筋骨も隆々としている。顔はさすがに母を同じくするだけに、よく似ているが、漢殿の方が少し眉が太く、目鼻立ちもくっきりとしている。  中大兄の方がすっきりとした貴人の顔立ちである。  中大兄が、この世で一番嫌なこと、それはこの漢殿と似ている、と言われることだ。  中大兄は、自分の顔を極端に下品にしたのが、漢殿の顔であるような気がして、どうしても好きになれない。  いや、母の不倫の証拠に手足がついて堂々と歩いているような気すらする。  ある時、側近が、二人がよく似ていると言った。  言った方にすれば、お世辞のつもりだったかもしれない。だが、中大兄は激怒した。  そこには漢殿もいたのだが。中大兄は一切かまわずに怒鳴りつけ、二度と言うなと念を押した。  だから、今は誰も言わない。  その漢殿の館に、中大兄はやって来た。  もちろん初めての訪問である。 「何もございませんが」  と、漢殿が差し出したのは、見たこともない菓子と赤紫色の液体だった。 「これは?」 「葡萄《ぶどう》の酒にございます」  中大兄は驚いた。  葡萄とは唐の国ですら、まだ滅多に手に入らない果物だ。その果物から作った酒とは。  白瑠璃《はくるり》の杯に注がれた葡萄の酒を、中大兄は一口、舌の上で転がしてみた。 (うまい)  今まで一度も味わったことのない芳醇な香りがした。 「いかがでございましょう。お口に合いますでしょうか」  漢殿は丁重に言った。 「——まあ、まずくはないな」  あまり感心していると思われるのもしゃくだった。 「それはよろしゅうございました」  漢殿は伏し目がちに言った。  初めて母の手で引き合わされて以来、この男は兄、いや本当は弟である中大兄に対して、一度も馴れ馴れしい態度に出たことがない。  それは当然だ、と中大兄は思う。  この男は異国の血を引いているのだ。そんな男に、兄弟のようにふるまわれたら腹が立つ。  しかし、このように、あまりに丁重なのも腹立たしいものだった。  たまには、ぶつかってこい、とすら思う。  だが、もし本当にぶつかってきたら、おそらく中大兄は激怒するだろう。「身分をわきまえろ」と言うだろう。  それがわかっていて、中大兄はやはり他人行儀だとも思うのである。 「これは何だ?」  本当はもっと飲みたかったが、中大兄は杯を卓上に置いて、皿の上の菓子を見た。 「砂糖菓子でございます」 「砂糖?」  これも貴重品だ。  葡萄ほどでないにせよ、この国で手に入れるのは至難の品である。 (やはり新羅《しらぎ》か——)  漢殿は新羅人とつながっている。  いや、それどころか、その新羅人こそ——。  中大兄は、その黒っぽい固まりを取り上げて口に入れた。  甘い。蜜ほどではないが、何か柔らかな甘さがある。 「いろいろと珍しいものが出てくるのう」 「恐れ入ります」  中大兄はふと、壁に立てかけてある大きな槍に目をとめた。  槍というのは珍しい。  朝廷の兵でも使うのは刀か、せいぜい矛《ほこ》である。  矛は先端が剣のように上下にふくらんでおり、突くだけでなく斬ることも出来る。  しかし、槍の穂先は細く刃も小さく、ただ突き通すだけの武器だ。  槍より矛の方が有利とされている。  だが、ここにあるのは槍だった。  穂先は七、八寸、柄は四、五尺もあるだろうか。  穂先はともかく、柄は長い。  その柄には、すべらないための用心か、紐が二重に巻きつけてある。かなり手垢に汚れていた。 「あの槍はおまえのものか」  中大兄は聞いた。 「はい」 「どのくらい、使える」 「は、それは——」  漢殿は口ごもった。  槍には自信がある。ただ、中大兄の前でそれを自慢気に言うのは、ためらわれた。 「使ってみろ。見たい」  中大兄は言った。  豊璋の言った「汚れた仕事」に使えるかどうか、確かめてみたいと思ったのである。 「わかりました」  漢殿は立ち上がって槍を取ると、庭に出た。燦々《さんさん》と陽光がふり注ぐ広い庭であった。  池があり、花壇がある。  その中に、漢殿は立った。 「あまり、お近付きになりませぬように」  漢殿は一言注意すると、槍を持って、二度ほどそれをしごいた。  そして呼吸を整えると、まず水車のごとく振り回した。  中大兄は舌を巻いた。  槍は本当に水車のように、いや風車のように回転するのである。  重い槍がまるで生き物のように動く。 「たあーっ」  漢殿がすさまじい気合いを込めて叫んだ。  中大兄は一瞬あとずさりしたくなった。  それほどの気合いである。  漢殿は動いた。  広い庭を左右に、時には姿勢を低くし、あるいは高くして、まるで十数人の目に見えない敵と対決しているかのようである。  目に見えない敵をすべて倒し終って、漢殿は直立し、槍を構えなおして一礼した。 「あの花のあたりを御覧下さい」  呼吸は乱れておらず、言葉にも淀みがなかった。  ただ、うっすらと額に汗をかいているに過ぎない。  中大兄はそちらの方を見た。  春の花に蜂が慕い寄っている。  漢殿は、そろりそろりと近寄った。  そして、無言の気合いで飛んでいる蜂を突いた。 「——!」  信じられないことだった。  槍は、その小さな蜜蜂の体をつらぬいた。  それが、はっきりと見てとれたのである。  漢殿は、またそろりそろりと戻り、一礼して槍の先をよく見えるようにして差し出した。  まぎれもなかった。  蜂の体は、ほんのわずかばかり槍に喰い込まれ、羽はまだばたばたと動いていた。 「見事」  うめくように中大兄は言った。  たとえ相手が誰であろうと、これだけの妙技を見せられては、褒めないわけにはいかなかった。 「恐れ入ります」  漢殿は頭を下げた。 「中に入ろう、そなたに、あらためて話がある」  中大兄は興奮を押さえて言った。      四  中大兄は蘇我一族打倒の計画を、この「弟」に打ち明けた。  人払いして、低い声で話す中大兄の言葉を、漢殿は一言も口をはさまずに聞き終えたあと、 「兄君、このことをなぜ、わたくしにお打ち明けになるのですか」  とたずねた。  兄君——と呼ばれるのは、中大兄にはいささか抵抗があった。  しかし、この際、そのことに文句をつけるのはやめにした。 (まず、こやつを味方につけることだ)  中大兄は笑みを浮かべて、 「そなたを男と見込んでのことだ」 「では、わたくしも仲間に加えて頂けるのですね」  漢殿は信じられないような顔をして言った。 「そうだ」  中大兄はうなずいて、 「ぜひ加わってもらいたい。きょうはな、わざわざそのためにここまで来たのだ」 「そうでしたか」  漢殿は感激して、目をうるませ、 「お許し下さい。わたくしは兄君が、わたくしのことを嫌っておいでになる、とばかり思っておりました」 「何を嫌うものか」  中大兄は首を振って、 「やはり頼りになるのは、同じ腹から生まれた者よ。そなたのような者を弟としていることを、わしは天に感謝している」 「ありがとうございます。そのお言葉だけで、わたくしは生きていた甲斐がございました」  漢殿の目から涙がこぼれ落ちた。 (御《ぎよ》しやすいやつだ)  中大兄は本心をおくびにも出さない。  この男を、入鹿打倒の駒として使う。  それも捨て駒だ。  用が済んだら、さっさと捨てればいいのである。 (万一、事破れても、この男にすべての責《せめ》を負わせればよい)  中大兄はそこまで考えていた。 「兄君、何なりとおっしゃって下さい。わたくしは兄君のためなら、どんなことでも致します」  漢殿はもちろん「兄」の胸中など知るよしもない。 「——どんなことでもするか、それは嬉しい。だが、本心か?」  中大兄は冷静に念を押した。 「無論のこと」 「場合によっては、命も危ういことになるかもしれぬ」 「覚悟致しております」  きっぱりと漢殿は言った。 「ならば言おう、入鹿をな——」  殺してくれ、と言いかけた途端、二人が向い合っている卓の下から、低いがよく通る声が聞こえた。 「お待ち下され」  中大兄は仰天した。  それは床の下から聞こえてきたのである。 「虫麻呂か、何事だ」  対照的に漢殿は落ち着きはらっていた。  立ち上がろうとする中大兄を制して、そう言った。 「——間者が潜んでおります」  床下の声は言った。 「何だと」 「逃げようとしておりますが、いかが致しましょう」 「殺せ」 「かしこまりました」  それで気配は消えた。 「蘇我の間者でございましょうかな」  漢殿はまるで他人事のように言った。  中大兄の口は、からからに乾いていた。  もしそうなら、自分は殺される。  いや、それどころか一族皆殺しになるかもしれない。  入鹿の強大な力に対して、中大兄は今のところ対抗できる力はない。 「早く、早く、捕まえねば」 「御心配なく、虫麻呂が片付けます」  漢殿は動こうとさえしなかった。  どれぐらい時が過ぎたろう、それは決して長い時間ではなかった。 「お待たせ致しました」  また、床下から声がした。 「仕留めたか」 「はい、御覧になりますか」 「兄君、いかがなされます」  漢殿は中大兄に聞いた。 「見よう」  中大兄はうなずいた。 「そういうことだ。どこにある」 「道へ出るところの、柳の下でございます」 「わかった」  漢殿は中大兄を見ると、 「この少し先でございます。御案内致しましょう」  と、立ち上がって先に立った。  中大兄もあとに続いた。  家来たちが出てくると、中大兄は、 「よい、豊人だけついて参れ」  と、従者を従えて馬に乗った。  馬で行けば、ほんのわずかの距離だった。  市へ続く大道へ向かう細い道、その脇に立つ柳の木の下に、くすんだ色の衣をまとった男が跪《ひざまず》いていた。  気が付くと、その柳のかたわらに朱《あけ》に染まった男が倒れている。 「——これは乙丸ではないか」  中大兄は叫んだ。 「御存じで」 「入鹿の使者の一人だ。いつも近くにいるのでな——」 「なるほど、では、入鹿の�シノビ�でございましょう」 「シノビ? シノビとは何だ?」  聞きなれぬ言葉に、中大兄は言った。 「唐《から》の国で申す、間者のことにございますが、その間者を勤めるために、体を鍛え術を学んだ者のことを指すのでございます」 「それは、こなたの国の言葉か?」  中大兄は漢殿に、あえて言った。 「いえ、この国の�忍ぶ�という言葉から出ております」  漢殿は表情を変えずに言った。 「この者は——」  と、中大兄は無気味そうに、虫麻呂を見て、 「そなたの�忍び�か」 「はい、わたくしの影とでも思って頂ければ」 「だが、わしは人払いを命じたはずだ」 「うかがいました」 「なぜ、この男を去らせなんだ」 「これは、わたくしの影。影は払えませぬ」 「——」 「それに、兄君。もしこの男がいなければ、いまごろこの者は大臣家《おおおみのいえ》へ駆け込んでいることでございましょう」  中大兄は言葉を返せなかった。  その通りだ。  もし、この者が駆け込んでいたら——。  中大兄は再びぞっとした。 「名は何と申したか?」  気を取り直して、中大兄は言った。 「虫麻呂でございます」 「そうか虫か、人ではなく虫なら、よい。これからも頼むぞ」 「ははっ」  虫麻呂はその場に平伏した。 「虫麻呂、この骸《むくろ》は、どこか目立ぬところへ埋めるのだ。大臣家の犬に嗅ぎつけられてはならぬぞ」  漢殿は落ち着いた声で指示を与えた。      五 「乙丸が戻りませぬ」  入鹿にそう報告したのは、忍びの棟梁|猿手《さるて》だった。  入鹿は、長身で髭《ひげ》の剃りあとが青々とした、男盛りである。  男臭さがぷんぷんと匂うような入鹿が、大きな目で猿手を見た。 「なぜ、戻らぬ」  物憂げな、押し殺したような声だった。  この声を聞いただけで震え上がる者も、この国には大勢いる。 「わかりませぬ」 「わからぬことがあるか」  入鹿は目をつり上げた。  猿手は恐怖のあまり身を硬くした。 「も、申しわけもございませぬ」 「すぐに調べよ。探せ。乙丸は何をしておった」 「は、大臣《おおおみ》様の目と耳になるべく、あたりを見回っておりました」 「そこで何かを見た。そして始末されたのであろうな」  猿手はおそるおそる顔を上げて、 「まさか。この国に、大臣様の家来と知って、そのような暴挙に出るものがおりましょうか」 「では、そちは乙丸がたわむれに水泳《みずおよぎ》でもして、溺れたとでも申すか。そちの配下はそんな間抜け揃いか」 「いえ、滅相もございませぬ」  猿手はあわてて言った。 「ならば、行け。疾《と》く、探れ。わしは、のろまは好まん」 「ははっ」  猿手は血相を変えて去った。  入鹿は、最近|甘橿丘《あまかしのおか》に造営した館の庭にいた。池の中央に橋がかかっている。  ここは見晴らしもよく、曲者が隠れる場所もない。  忍びたちと密議をこらすには格好の場所である。  だが、入鹿はそういう時でなくとも、従者も連れずにたった一人でここへ来ることがよくあった。  考えごとにも、ここはいい。 (さて、誰が乙丸を始末したか)  入鹿はあらためて考えてみた。  始末するとなると、よほどまずいことを探り取られたからだろう。  大臣家の従者と知ってか知らずか、いずれにせよ何かよほどのたくらみがあるのだ。 (わしを殺そうとでもいうのか)  考えられないことではなかった。  入鹿はこの国の王になるつもりである。  とりあえずは、先帝と父蝦夷の妹|法提郎媛《ほてのいらつめ》との間に生まれた古人大兄《ふるひとのおおえ》皇子を天皇の位に即《つ》ける。  そして、蘇我一族の言うことなら、何でも聞かなければいけない古人大兄が帝である間に、この国のすべてを蘇我一族で握ってしまう。  そのうえで、古人大兄を除いて自分が皇位に即くのである。  そこまで気が付いている者がいるかどうか。  おそらくはいまい。  ただ、蘇我一族を、天皇家をないがしろにするものとして、除こうとする輩《やから》はいないとも限らない。 (待てよ、あるいは山背大兄《やましろのおおえ》の残党か)  それなら恨みである。  入鹿は、聖徳太子の息子山背大兄王を攻め、一族を皆殺しにしたことがある。  もちろん古人大兄を位に即ける邪魔になるからだ。その残党が、入鹿に憎悪を抱いていることはまちがいない。  恨みか、それとも天皇家の反撃か。  もしそうだとすれば、その首領は誰か。 (そんな覇気のあるやつがいたか)  入鹿の脳裏にふと中大兄の顔が浮かんだ。 [#改ページ]   第三章 暗 闘      一  女帝は入鹿《いるか》の到来を待ちわびていた。  この頃は、何につけても入鹿を思う。  政務のおりですら女帝は、何の脈絡もなく入鹿を思い出し、顔を赤らめることすらある。  その入鹿が、ひさしぶりに息せききって参内してきた。  女帝はただちに、入鹿に拝謁を許した。 「大臣《おおおみ》には相変らず壮健の様、何よりじゃ」  女帝の言葉に、入鹿は軽く頭を下げただけで、 「お人払いを願わしゅう存じます」  と言った。  女帝は驚いた。 「明るいうちから、何事じゃ」 「何を仰せられる。政事《まつりごと》の話にござる」  入鹿はうんざりした顔をした。  最も尊き存在であるはずの帝《みかど》が、ただの年増女になる、その瞬間がある。  それを引き出したのは入鹿なのだが、こうも続くとあきてくる。  初めの頃は、確かに嫌いではなかった。入鹿から見れば年上の女である。しかし、それなりの味はあった。  だが、もういい。  入鹿は天皇になりたい。  そのためには、いまのうちに既成事実を作っておく必要があった。  女帝が目がくらんでいる間に、豪族たちをすべて味方につけ、最後に帝にとって代る。  もちろん殺すつもりはない。  兵をもって脅し、帝位を譲らせるのである。  そのための道具としてしか、入鹿は女帝を見ていなかった。  女帝はそうではない。 「何事じゃ、そのようにあわてふためいて」  女帝は皮肉を言った。 「あわててなどおりませぬ」  入鹿は傲然《ごうぜん》と言った。 「このところ、大臣は多忙を極めておるようじゃのう」 「いかにも」 「いったい、人払いしてまでの大事とは何事か」 「わが首を狙っておるものがおりまする」  入鹿が言うと、女帝は目を丸くして、 「そのような者がおるとは、信じられませぬ。いったい、何のために大臣の命を狙うのです」 「さあ、わかりませぬな——皇子《みこ》様に聞いてみませぬと」 「皇子? わが皇子がかような企てを」 「御意」  入鹿は強い眼光で女帝をにらみつけた。  だが、女帝はそれを平然と受けとめた。 (この女は何も知らぬのだな)  入鹿はそれを直感した。 「大臣、誰がそのような企てをしていると申すのですか」 「——御存じないのか」 「知らぬ」 「中大兄《なかのおおえ》皇子でござる」 「まさか」  女帝は笑い出した。  入鹿は気分を害して、 「命を狙われる身になれば、笑いごとでは済まされませぬ」  女帝は少し真顔になって、 「何か証拠《あかし》があるのですか」 「証拠、つまり皇子様|謀反《むほん》の証拠ということでござるかな?」  入鹿は逆に聞き返した。 「謀反とは少し言葉が過ぎませぬか」  さすがに女帝はたしなめた。  謀反とは臣下が主君に対してするものである。その意味で言えば、大臣に過ぎない入鹿が中大兄に対して口にすべき言葉ではなかった。 「いや、謀反に等しいと申せましょう」  入鹿は強引に主張した。  根拠はある。この身は、最も帝の信頼の篤い重臣である。その最も信頼の篤い重臣を狙うのは、帝に対する叛逆に等しい。それが入鹿の論理である。 「いかがでござる」  入鹿は念を押した。  女帝は不承不承にうなずいた。 「ならば、この件の究明、お任せ下さいますな」 「それは——」  女帝は言葉を濁した。  中大兄のことが気になる。うっかり全権を入鹿にゆだねたら、最愛の息子が殺されることにもなりかねない。 「よろしいのでござるな」 「ならぬ」  予期せぬ拒否の言葉に、入鹿は意外な顔をした。 「なぜでござる」 「皇子は、天津日継《あまつひつぎ》となるかもしれぬ身、無闇に疑いをかけることはなりませぬ」 「——」 「それとも、何か証拠がありますか」  女帝がここまで強く出たのは、入鹿がかつて山背大兄王一族を皆殺しにしたという前歴があるからだ。  入鹿の信用は、この一点において欠けていた。聖徳太子の子の山背大兄王を、入鹿は無残にも殺した。そのことで、入鹿は皇族をも手にかける男として、信用をなくしたのだ。  だが、その点だけである。  それ以外は、女帝は入鹿の思うがままだ。  しかし、証拠があるかと正面切ってたずねられれば、そんなものは無い、と答えるしかない。  入鹿は仕方なく、 「それでは、確たる証拠をお持ちすれば、御裁可下さいましょうな」 「——」 「いかが」  今度は入鹿が攻める番である。 「わかりました」  女帝はうなずかざるを得なかった。 「では、これにて」 「もう、行くのかえ」  女帝の顔は、母の顔から女の顔になっていた。 「急ぎますので」  入鹿は振り切った。  女帝は不満を顔に残した。      二  中大兄は、学問の師である南淵請安《みなぶちのしようあん》の家におもむいていた。  月に三度ほど、ここで請安から漢籍の手ほどきを受ける。  請安は隋に留学経験もあり、中国語を自在にあやつる。  中大兄は大陸の人々と、直《じか》に意志疎通をしてみたかった。だから、他の皇子はあまり関心を示さない会話にも興味を示した。  しかし、このところ足繁く請安の家をたずねるのは、学問のためではない。  入鹿を殺し、蘇我一族を滅亡させるための密議をこらすためである。 「鎌子《かまこ》」  請安の講義が終ると、中大兄はこの年上の偉丈夫に声をかけた。 「はい」  鎌子は小さな声でうなずき、あたりをうかがって、 「漢《あや》の御方《おんかた》の館をおたずねになった由《よし》、既に耳に致しております」 「さすが、早耳だな」  中大兄は驚きを込めて言った。  この男を特徴づけているのは、その情報収集力だ、と中大兄はいつも思う。  実際、宮中に関する些細な出来事が、いつの間にか鎌子の耳に入っている、そんな例は少なくないのだ。 「皇子様、こちらへ」  と、鎌子は席を立って部屋の壁へ耳を寄せると、増々小さな声で、 「大臣家の間者《いぬ》が一人いなくなり、かの者が血眼《ちまなこ》で行方を探しておると聞きますが、まさか、皇子様が——」 「そうだ。密議を聞かれたのでな」  中大兄は苦虫を噛みつぶしたような顔をして認め、前後の事情を説明した。 「左様でございましたか」  鎌子は、周囲に人の気配がないか再度確かめると、 「かの君との御交流、まことに目出度き限りと申し上げねばなりませぬが、肝心の事の方は急がねばなりませぬな」 「やはり、そうか、入鹿めを——」 「しっ、皇子様、壁に耳ありでございますぞ。かの者と仰せられませ」  中大兄はうなずいて、 「ならば、その、かの者、いつ討つ?」 「近々。わたくしめに一案がございます。お聞かせ申し上げたいので、今宵《こよい》深更、例の場所《ところ》へお出まし下さりませぬか」 「わかった」 「そのおり、お引き合わせ申し上げたき人物がおりまする」 「何者だ」 「心強き味方、とのみ申し上げておきましょうか——」  部屋の外で足音がしたので、鎌子は口をつぐんだ。 「——皇子様」  扉の向うから声がした。  請安の声である。 「先生、いかがなされました」  中大兄は言った。 「宮中よりのお召しでございます。舎人《とねり》の清麻呂が使者で参っております」  請安は答えた。 「お召し? 何だろう」  中大兄はひやりとして言った。 (まさか、あのことが入鹿の知るところとなったのではないだろうな)  あのこととは、入鹿の間者に密事を聞かれ、始末したことである。 「では、ございますまい」  鎌子は言った。 「うん?」  けげんな顔を中大兄がすると、鎌子は声をひそめ、が、力強く、 「心を強くお持ちなさることです。心の動きを見透かされてはなりませぬ」 「——わかった」  中大兄はうなずいた。  鎌子は微笑して、 「それほどの大事ではありますまい。今宵、お待ちしております」 「うむ、それでは、後刻」  中大兄は舎人の先導で宮中へ向かった。  鎌子は人目に立たぬよう、見送らなかった。 (まさか、皇子の心配なされた通りではあるまいな)  だとしたら、皇子ばかりでなく自分の身も危ないことになる。  鎌子は厳しい表情で請安の邸を辞した。      三  鎌子は自邸に戻った。 (皇子は御無事であろうか)  そのことが気になっている。  もし、中大兄が罪に問われ殺されるようなことになったら、この邸もただちに兵に囲まれ、鎌子も一族も皆殺しにされることになる。 (逃げ支度をするか)  それは考えないでもなかった。  しかし、そんなことをしても、逃げおおせることはできない。ならばいっそのこと、ここにこのままいる方がいいのではないか。  鎌子は、いざとなると度胸がすわる。  大きな博奕は嫌いではない。だからこそ、中大兄に賭けたのではなかったのか。皇子と初めて言葉を交したのは、去年の打毬《うちまり》の場だった。  それは法興寺の庭において行なわれた。  打毬とは、木製の棒で布製の小球を打って、得点を競う遊戯である。  鎌子は、何とか中大兄と近付きになりたいと思っていた。  鎌子には野心がある。  中臣家は、もともと宮廷の神祇をつかさどる役目の家だ。だが鎌子は、この家系を嫌った。  神に仕える職を継げば、少なくとも最低の地位は保証される。どんな政争が起ころうとも巻き込まれずにも済む。これが軍事をつかさどる家とは違う、大きな利点でもある。  しかし、所詮それだけのことだ。  神職にこだわる限り、いつまでもそこから抜けられない。栄達の道など、有るはずもないのである。  もしも、大いなる地位を望むなら、大きな賭けに出る必要があった。  賭け、それは蘇我氏を倒すことである。  蘇我氏を倒して、新しい権力の中枢に参加することだ。  もちろん、そんなことが一人の力で出来ようはずもない。  一人の力では足りないというだけでなく、大義名分もなかった。  鎌子が首尾よく入鹿を倒したとしても、それは単なる暗殺にしか過ぎない。  そうではなくて、その行動は、大王家の意志を体したものでなくてはならなかった。  そうでない限り、蟷螂《とうろう》の斧《おの》に終わってしまう。  何か、かつぐ神輿《みこし》が必要だった。  初め、鎌子はこれを軽皇子《かるのみこ》に求めた。  軽皇子は、皇族の中では最長老で、女帝に次ぐ実力者だ。年齢《とし》は女帝より二つ下の五十歳である。しかし、軽皇子には覇気がなかった。  考えてみれば無理もない。  五十歳である。この年齢になって、子供や孫の命を危険にさらしてまで、冒険をおかそうという気にはなれないのだろう。  鎌子は、大王家にとって蘇我一族がいかに危険な存在かを説いて、蘇我打倒に立ち上がるよう説くつもりだった。  しかし、途中で断念した。  鎌子の口説《くぜつ》に対して、軽皇子は初めはおびえ、次には避けるようになった。このまま決定的なことを口にすれば、そのことを入鹿に密告しかねない。鎌子はそう判断して、軽皇子から離れた。  この失敗は鎌子にとって、いい教訓になった。  大事を為すには、中年を過ぎていては駄目だ、ということである。  鎌子は若い皇子を求めた。三十一歳の鎌子より、若くて勇気のある皇子を。もちろん、いくら若くても蘇我の息のかかっている古人大兄《ふるひとのおおえ》皇子のようなのは駄目だ。  そうなると、中大兄しかいなかった。  十九歳のこの皇子は、英明の誉れ高く、胆力に富む人物だと、既に定評があったのである。  鎌子は法興寺の打毬で、何とか中大兄と言葉を交したいと思った。  鎌子の身分では、直接たずねていくわけにはいかない。身分は低くても、皇子たちとかかわりのある役職ならば、言葉を交す機会もあるのだが、それもない。  皇子と舎人たちが集まって、打毬をするとの噂を聞き、鎌子は何とか皇子の目に止まらぬものかと、一人、その広い庭の隅で立っていた。  十数人の男たちが二組に分れ、それぞれ先の曲った棒を持って、毬を打ち合っている。  中大兄もその中にいる。  人に見せるためのものではないから、見物人はいない。  だが、参加している男たちは誰もが元気だった。  額に汗をかき、夢中で毬を追っている。  その中で一際熱心なのが、中大兄だった。  初めのうちは皇子に対して遠慮していた舎人たちも、だんだん本気になってきた。  その舎人たちに、皇族で唯一参加している中大兄は、必死に喰らいついていく。  勢い余って中大兄の棒が、舎人の足を打った。それに対して、舎人が打ち返した。  誰も咎めない。  中大兄も怒らない。  それだけ、毬を追うことに熱中しているのであった。  見ていた鎌子は、中大兄という貴公子に好意を持った。  舎人が皇子の足を打ったのである。  これがたとえば古人大兄なら、絶対に許しはしない。遊戯を中断させて、舎人を叱責してやまないだろう。  古人大兄にはそういうところがある。  だが、中大兄は違う。  そんなことをすれば興|醒《ざ》めもいいところだ。  唯一人、舎人の中に参加する以上、自分が皇子だと思ってはいけない。  中大兄は、そのことをよく知っているようだ。 (この皇子こそ、頼み甲斐がある)  鎌子は思った。  この皇子ならば、遊戯が終って汗でも拭いている時に近付けば、なんとか言葉を交すことができるのではないか。そう思っていた鎌子のところへ、まるで測ったように中大兄の棒が飛んできた。  力いっぱい打とうとした両手から、汗ですべって棒が離れたのである。 (天佑!)  鎌子はそれを拾い上げた。  そして、それを拾いに毬の周囲に群がっている人々の集団から出た中大兄に、鎌子はするすると近付いた。 「皇子様、これを」  大地に膝をついて、それを捧げた。  中大兄は荒い息使いで、 「そちは?」 「はっ、中臣鎌子と申す者にございます。お見事な手さばき、感服致しました」 「ははは、見事なら、取り落としたりせぬわ」  中大兄はそれを受け取って、人の輪の中に戻った。  それから中大兄との交流が始まったのである。  鎌子は事あるごとに、蘇我一族の専横を説いた。  中大兄も、かねてからそのことには憤りを感じていたので、話は早かった。  あとは、鎌子が中大兄の師である南淵請安に弟子入りするなどして、二人はますます緊密さを増した。  中大兄はついに、蘇我氏との全面対決を決意した。  願ったり叶ったりであった。  鎌子にとって最もいい形は、しかるべき身分の皇族から蘇我氏打倒の命を受け、その意を体すべく動くということだ。  これなら私闘ではないし、首尾よく蘇我一族を倒せば、大出世にもつながる。  ここまではうまくいった。  問題は、その中大兄が母親である女帝に、急な呼び出しを受けたことだ。  その女帝は入鹿と通じている。  入鹿は女帝の情人なのだ。 (皇子の身に何も起こらねばよいが)  豪族の誰に話すこともできず、鎌子は一人心配していた。      四 「では、本当におまえは何も知らぬと申すのですね」  女帝は言った。 「はい、母上」  中大兄は顔を上げて、しっかりした声音で答えた。  女帝はじっと息子の顔を見つめていたが、 「そうか」  と、ほっとしたように目を伏せた。  中大兄は緊張を少しゆるめた。  心配した通り、女帝の用件はそれだった。  入鹿を狙っていないかどうか、女帝は息子に糺したのである。  息子は否と答えた。  それは無論、嘘である。しかし、それは女帝を安心させた。 「母上、何故にわたくしが大臣の命を狙っているなどと、お考えになったのですか」  一転して中大兄は攻勢に出た。 「それは——」  と、女帝はますます目を伏せた。 「讒言《ざんげん》があったのですね。その主は誰ですか」 「——」 「入鹿でしょう。違いますか」  中大兄は進み出て、 「母上、実の息子の言うことよりも、あのような者の言うことをお信じになる。いったい、どういうわけでございましょう。わたくしは悲しゅうございます」  女帝は当惑した。  この息子が、入鹿に好意を持っていないことは知っている。その理由も見当はつく。  それだけに、これ以上、息子と入鹿が対立するのは耐えがたかった。 「入鹿ではない」  女帝は嘘を言った。 「では、誰です」 「——それは、秘すべきことじゃ」 「秘すべきこととは、いかなるわけでございましょう」  中大兄はなおも食い下がった。 「やめよ、皇子」  女帝はついに怒った。 「——秘すべきことは秘すべきことなのじゃ。それよりも皇子、漢《あや》の者とは仲良うしておりますか?」 「——」  中大兄が一瞬言葉に詰まると、女帝は逆襲した。 「あの者とは仲良うするようにと、この前も申し聞かせたはずじゃの?」 「——確かに、うけたまわりました」 「ならば、母の言いつけが、なぜ守れませぬ」 「守っておりまする」  中大兄は顔を上げて、 「先日も、かの者の邸《やしき》を訪れ、新羅渡りの珍しい酒や菓子など食しまして、話しおうてきたばかりにございます」  嘘ではなかった。ただ、槍のことについては、中大兄は一言も言わなかった。 「ほう、そうか」  女帝は嬉しそうにうなずいて、 「あの者は、頼りになりまする。父の素性が素性ゆえ、皇子として遇することはできませぬが、それが不憫《ふびん》でならぬ。頼みますよ、皇子」 「かしこまりましてございます」  中大兄は内心の不快を押し隠して、深々と礼をした。  母と子の会見はそれで終った。  いかにも苦々しい顔を、母に見られたくはなかった。      五  中大兄はその夜、従者の豊人だけを連れて、こっそりと邸を忍び出た。  馬にも乗らない。  目指すは、都はずれの海犬養連勝麻呂《あまのいぬかいのむらじかつまろ》の家である。  勝麻呂は同志だった。身分は低いが、鎌子と共に生命を賭けて入鹿と戦うことを、誓っている。  その勝麻呂の家には、勝麻呂の他に見知らぬ男が二人いた。板の間に、その四人が車座になって座っている。  中心には油を入れた火皿が置かれ、ほのかな灯りを放っている。豊人を庭に見張りに置いて、中大兄はその間に入った。 「これは、皇子様」  鎌子は頭を下げて、 「——こちらに控えておりますのは、佐伯連子麻呂《さえきのむらじこまろ》、葛城稚犬養連網田《かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた》の両名、このたび同志に加えることに致しました」  中大兄は二人を見た。  二人とも、その場に平伏した。 「引き合わせたいとは、この者らのことか」  中大兄は不審そうな顔をした。  この二人は、決して身分は高くない。  引き合わせる、などというほどの者ではない。  中大兄が不審に思ったのは、そのせいである。 「いえ、その者は今少しで参りましょう」  鎌子は言った。  中大兄は上座に座った。 「皇子様、かの者を討つ手筈、決まりましてございます」  鎌子は言った。  中大兄は目を輝かせた。 「三韓よりの調《みつぎ》の席でござる。その席にて討ちまする」 「なに? 百官いならぶ前で討つというか」  中大兄は驚いた。 「いえ、正式の儀ではなく、そのための準備として、一度、帝の御前にて仮の上表文《おくりじよう》を読み上げることに致します。その儀にことよせて、入鹿めをおびき寄せるのでございます」 「なるほど、しかし、入鹿め、やって来るか?」  中大兄はそれを危ぶんだ。  正式の儀式なら、大臣たる入鹿は必ず出席する義務がある。  しかし、「予行」はどうだろうか?  そのようなものに出席する義務はない、と言いそうでもある。 「それは、お任せ下さい」  鎌子は言った。 「どうする?」 「必ず、入鹿が来るように、仕掛けをつくりまする」 「仕掛け?」 「はい」  その時、庭の方から人の気配がした。 「——皇子様、誰か来ます」  豊人の声だった。  立ち上がろうとする中大兄を、鎌子は制した。 「おそらく、お味方でございましょう。わたくしが見て参りましょう」  鎌子は、つと立ち上がって、外に出た。 「やはり、そうでございました」  しばらくして鎌子は、男を一人連れて戻ってきた。  その男の顔を見て、中大兄は仰天した。 「おのれは——」  中大兄は刀の柄に手をかけた。      六 「お待ち下され」  鎌子があわててとめた。 「なぜだ、この男は——」  中大兄は叫んだ。  蘇我一族なのである。  蘇我|倉山田《くらやまだ》石川麻呂、痩《や》せて浅黒い面長な顔に茶色の瞳の、背の高い男である。  それが目の前でおびえた目をして、中大兄を見ていた。 「お味方でございます」  鎌子は低い声で、しかしはっきりとそう言った。 「味方? この男がか——」  不審の目を向ける中大兄に、鎌子はうなずいて、石川麻呂を座らせた。 「倉《くら》殿は、皇子様にお味方すると誓ったのでございます」  鎌子は言った。 「まことか」  中大兄は鋭い目で石川麻呂を見た。 「はい、何卒お味方のうちにお加え下さりませ」  石川麻呂は平伏した。  中大兄は無言で見つめていた。  蘇我一族といっても、多くの家がある。  今は、蝦夷《えみし》・入鹿《いるか》父子の家が他を圧しているが、石川麻呂の家もなかなかの名家だ。もし入鹿の家が滅ぶようなことにでもなれば、石川麻呂は一族の長者の地位に就くことができよう。 (だが、油断はならぬ)  中大兄はそう簡単に人を信用する性質《たち》ではなかった。  石川麻呂に入鹿|誅殺《ちゆうさつ》の密謀を打ち明けるのはよいが、それを入鹿に密告されたらどういうことになるか。 (斬ってしまうか)  中大兄はそこまで考えた。 「お待ち下され」  鎌子が言った。  半分その気になりかけていた中大兄はぎくりとした。  鎌子は石川麻呂に向かって、 「手土産がござりましたな」 「はっ、ただちに御前に」  石川麻呂は手を叩いた。  現われたのは、若く美しい娘であった。  中大兄は目をみはった。 「わが娘、赤草娘《あかくさのいらつめ》でございます」  隣に座って平伏する娘をちらりと見て、石川麻呂は、 「何卒、この娘をお連れ下さいますよう」  と、中大兄に言った。  中大兄は一転して顔をほころばせた。 「これを、くれるというのか」 「はい、忠誠の証として、お受け下さいませ」  石川麻呂はためらいもなく言った。 「娘、面《おもて》を上げよ」  中大兄は命じた。  赤草娘は顔を上げた。  まちがいなかった。先程この部屋に入ってきた時、見た通りの美女だ。  やや小振りだが、均整のとれた身体《からだ》で、唇から顎にかけて、やや肉が足りなかった。しかし、それは美貌を消すほどの欠点ではない。  娘は伏し目がちだった。  それが、中大兄の好色を誘った。 「娘、そなたの父はかように申しておるが、そなたはよいのか」 「——はい」  赤草娘は、か細い声で言った。 「他に好きな者がおるならば、無理にとは言わぬ、どうだ?」  赤草娘は首を振った。  中大兄は意地の悪い顔で、 「同じ一族に、そなたを好いている者はおらぬのか——」  と言った。  これは重要なことだった。もし、そんなことがあれば、中大兄は身内に間者を抱えるも同然になる。 「——おりませぬ」 「しかと左様か」 「はい」  赤草娘は澄んだ目で答えた。 「ならば、よい」  中大兄はうなずくと、石川麻呂へ視線を移して、 「頼むぞ、石川麻呂」 「ははっ」  石川麻呂は再び平伏した。 (皇子の女好きにも困ったものだ)  鎌子は自分で仲介しておきながら、内心嘆息した。  この皇子に唯一欠点がある。  それは女に目がないことだ。  美女を得られるとなると、すぐに相好を崩す、判断が甘くなる。だからこそ、石川麻呂を味方にするにあたって、娘を差し出すように勧めたのである。だが、それがあまりにもうまくいくと、かえって不安になる。 (皇子様も、ほどほどになされませぬと、身を滅ぼすことにもなりかねませぬぞ)  本当はこう言いたいところだが、今はそれを言えない。 「では、娘よ、参ろうか」  中大兄がそう言って立ち上がりかけたので、鎌子はあわてた。  まだ重要な話が残っている。 「皇子様——」  鎌子は言った。 「まだ、大切な話が終っておりませぬ」 「うん? あ、ああ、そうか」  中大兄は緩んだ表情をあわてて引き締めた。  鎌子は石川麻呂に目配せした。  石川麻呂は娘を立たせて、外へ連れ出した。 「行ってしまうのか」  中大兄は、おもちゃを取り上げられた子供のような顔をした。 「お帰りにはお供させます。御心配なく」  鎌子が言った。  石川麻呂が戻ってきて密談が始まった。 「昼間申し上げたように、三韓の調《みつぎ》の儀にことよせて、かの者をおびき出すのでございます」 「三韓とは、どこのことだ」  中大兄は聞いた。  むろん三韓が半島の三国である百済《くだら》、新羅《しらぎ》、高句麗《こうくり》を指すことは、わかっている。  しかし、これら三国はそれぞれ独立した国家であり、半島の覇権をめぐって対立している。  三つの国がまとまって、調を送ってくるなど、有り得ないことだ。  だから、中大兄は聞いたのだ。  その意図を汲んで、鎌子は答えた。 「無論、本来かようなことは有り得ませぬ。その、有り得ぬ話をでっち上げるのでございます」 「——?」 「倉殿」  鎌子がうながした。  石川麻呂はうなずいて、 「今回、たまたま三つの国からの調が同じ時に着いたことに致すのでございます。いや、実のところ百済と高句麗の調は難波の港に着いております。これに、新たに新羅の調も着いたこととし、その三韓すべての調の上表文《おくりじよう》を帝の前で読み上げることに致します」 「なるほど。だが、それならば、百官すべてを呼ばねばなるまい」  中大兄は言った。  百官とは朝廷に仕える役人たちで、実際は百人とは限らない。ただ全員の総称として百官という言葉がある。いずれにせよ大勢の人が参内《さんだい》する。これではまずい。邪魔が入るかもしれないし、人を伏せておくのも難しい。 「はい。そこで、まず儀式の段取りを決めねばなりませぬ。ついては大臣《おおおみ》のお立ち合いを願いたいと、使者を出すのでございます」 「それは聞いた。だが、段取りを決めるだけのことで、入鹿が来るかどうか」  入鹿は尊大で面倒なことは嫌いである。  そのような使いを出せば、本当の儀式の時に呼べ、と追い返される懼《おそ》れがある。 「そこは、お任せ下さい。あの者が来ずにはおられぬような手立てを考えまする」  鎌子が言った。  中大兄は不思議そうに、 「どうするのだ?」 「三韓の調が同時に行なわれるなどとは、前代未聞のこと。それゆえ、段取りを決めねばならぬと申せば、通るはずでございます。そこで、もう一つ、決めねばならないことは、三国の席次でございます」 「席次なら決っておるではないか」  中大兄は妙な顔をした。  使者の座る順序も、その国書を読む順番も決っている。  百済・高句麗・新羅の順である。 「それを変えるのでございます」 「変える?」  鎌子はうなずいて、 「ここにいる倉殿の画策で、百済を後にして新羅を先にする、その形でとりあえず仮の儀式を行なうと、噂を流すのでございます」 「なるほど」  中大兄は感心した。  入鹿は百済と親しく、その代理人をもって任じている。  一方、同じ蘇我でも石川麻呂はどちらかというと新羅と親しい。  そこで石川麻呂が、三国の調が一度に行なわれるという異例な事態の中で、自分と親しい新羅の席次を上にするよう陰謀をめぐらしている——そのように入鹿に思わせるのだ。  当然、入鹿は怒り、そのようなことは許さぬぞとばかりに参内してくるはずである。 「そこを討つ、というわけだな」 「仰せの通り」  鎌子は一礼して、懐《ふところ》から見取り図を出した。  大極殿の見取図である。  ところどころに朱点がある。 「こことここに、子麻呂と網田を配しまする」  と、鎌子は佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に注意を促した。  図をのぞき込んだ両名がうなずくと、鎌子は中大兄に、 「皇子様はここに。剣を持って万一に備えて頂きます」 「うむ、そなたは?」 「はい、わたくしは弓を持って、ここへ控えまする」  と、鎌子は玉座から少し離れたところを指さした。 「万一に備えてか?」  中大兄は笑みを浮かべて言った。 「はい、まず、わたくしめの出番はござりますまい。この二人がやってくれましょう」  鎌子は頼もしげに子麻呂と網田を見た。 「うむ、頼むぞ」  中大兄は二人に言った。  二人は身を固くして一礼した。  鎌子は中大兄の目をのぞき込むようにして、 「——皇子様、もうお一方《ひとかた》、よろしゅうござりますか」 「誰だ?」  中大兄は首をひねった。 「——槍のお得意な、あの御方でございます」 「あやつか」  中大兄は一瞬不快な顔をしたが、すぐにとりつくろうように笑みを浮かべ、 「よかろう、枯木も山のにぎわいと申すからな」 「ありがとう存じまする」  鎌子は今度は石川麻呂に、 「手筈は、倉殿に三国の上表文を、御前《ごぜん》でそれぞれ読んで頂く。入鹿は当然、そのことに気を取られるはず、そこを合図と共に討つ」 「もし、大臣が何か文句をつけてきたら?」  石川麻呂は反問した。 「当然つけてくるでしょうな。三国の席次のこと、みだりに変えることは許さぬ、と。それでよいのです。倉殿は恐れ入ったふりをして、何事も大臣の申される通り、と従って頂きたい」  鎌子は淀みなく答えた。 「わかった」  石川麻呂は言った。 「で、決行は?」  中大兄が最も肝心なことを聞いた。 「四日後と致しましょう」  鎌子は言った。 「四日後、十二日だな」  季節は夏、六月である。      七  中大兄は赤草娘を抱きかかえるようにして馬に乗り、豊人に引かせて家路についた。  月は明るい。半月である。 「人目に立つな」  中大兄は娘を横座りにさせて、自分の前に置いていた。 「恥しゅうございます」 「何を恥しがることがあるものか」  中大兄はそっと手を伸ばして、娘の胸に触れた。 「あっ」  娘は甘い声を出して、身をよじった。 (生娘ではないな)  中大兄は秘かに感じた。  このところ、そういうことがようやくわかるようになった。  ようやくといっても、中大兄はまだ若い。若過ぎるほど若いのである。  しかし、女については老いていた。 (ならば、からかってやれ)  中大兄は悪戯心を出した。  その手は一層大胆に動いた。 「皇子様、御身分にかかわります」  娘は当惑して言った。 「なに、身分の上下はあっても、男女の道にはかわりない」 「でも、誰かが見ているかも」 「誰も見てはおらぬわ。この夜更けに」 「——」  娘は無言で馬の口をとっている豊人に視線をあてた。  豊人はむろん前を見ているから、そんなことはわからない。 「豊人」  中大兄は呼びかけた。 「はい」 「娘が気にしておる。何も見ておらぬ、と言ってやれ」 「——何も見ておりませぬ」  豊人は笑いをふくんだ声で返答した。 「見ておらぬではないか」  と、中大兄は娘を抱き寄せた。 「いやでございます」  娘は抵抗した。 「どうしてだ」 「皇子様には、お妃様がおいでになるのでしょう」 「ああ、いる」  当然ではないか、と中大兄は思った。  妃は倭姫王《やまとひめのおおきみ》といい、古人大兄皇子の娘である。  これも政略結婚であった。  古人大兄は壮年の、次の帝に最も近い皇子と目されている。  しかも入鹿ら蘇我一族の支持も篤い。  中大兄の異母兄でもある。  古人大兄は、そのために、自分は次の帝になれると信じている。  それは甘いと、中大兄は思っている。  言うまでもなく入鹿の存在だ。入鹿は自分が天皇になることを狙っている。古人大兄はそのための道具に過ぎない。自分はそんな道具になるのは真っ平だ。  しかし、古人大兄はそんなことは夢にも思っていない。ひたすら入鹿の意を迎えることに専心し、それを続ければ自然に皇位が転がり込んでくると思っているのだ。  だが、そんな人物とも、中大兄は縁を結ばなければいけなかった。  母の命令である。  中大兄は、前帝《さきのみかど》と現帝を父母として生まれた。古人大兄と父は同じだが、古人大兄の母は法提郎媛《ほてのいらつめ》という蘇我馬子の娘である。  母は、古人大兄との仲を心配した。  そこで、古人大兄の娘と中大兄が結婚すれば、すべてうまくいくと、母は考えたのである。  正直言って、倭姫はあまり美人ではなかった。それに古人大兄も「兄」として尊敬できる人物ではない。  当然、妻に対する愛情は薄れた。  それが若くして中大兄を女漁りに走らせた原因かもしれない。 「妃というものはな、必ず一人はおかねばならぬ」  中大兄が言うのは正妃のことである。  娘はその言外の意味を察した。  正妃以外なら何人いてもよい。それを言いたいのだろう。 「いや」  娘は言った。しかし、それは断固たる拒否ではない。  中大兄にはそれがわかった。  女は、口にする言葉と、心は別のものなのだ。 「そなたを得て、これにまさる喜びはない」  中大兄はそう言って、ぎくりとした。  自邸の玄関に、女が立っているではないか。  近づくにつれて、それが今話題にのぼっていた正妃の倭姫であることに気が付いた中大兄は、呆気にとられた。 「妃よ、そこで何をしておる。このような夜更けに供も連れずに?」  中大兄は馬上から声をかけた。 「わが君をお待ち致しておりました」  姫は言った。しかし、その語気は荒く棘《とげ》があった。 「はしたないふるまいをするでない」  苦々しげに中大兄は言った。 「はしたのうございましょうか」 「身分を考えることだ」 「御身分を。夜な夜な女狩りをなさることも御身分にかかわるのではございませんか」 「これは——」  言いかけて中大兄はぐっと言葉を飲み込んだ。まさか密議のことは口にできない。  妃は古人大兄の娘なのだ。 「いかがなされました」  倭姫は皮肉を込めて言った。 「よい、そのことは」  と、中大兄は、先程から身の置きどころがなくて困っている赤草娘を馬から降ろして、自分も降りた。  これは、 「わが妃じゃ——。これは倉山田石川麻呂殿の娘御にて、赤草娘じゃ。きょうから、わが家《や》を家《いえ》とする。よろしく頼むぞ」  中大兄は二人にそう言い、さっさと邸の中に入った。      八 「中大兄皇子が、石川麻呂の娘を手に入れただと」  入鹿は不機嫌な声を出した。 「はい」  報告したのは猿手《さるて》である。  大臣邸の庭である。冬の間は寒々として見えた泉水が、このところはやや涼しげに、気持ちよく見える。そんな季節になっていた。  だが、入鹿の心はおだやかでない。 (石川麻呂め、何のために娘を差し出した)  なにか魂胆があるに違いない。 (まさか皇子と同心して、わしを討とうというのではあるまいな)  その考えも一度は頭に浮かんだが、入鹿はすぐに打ち消した。 (あの臆病者が——)  石川麻呂のことである。  入鹿は石川麻呂をそのように見ていた。  実際、石川麻呂は狩りで獲物が殺されるのを見ても、血の気が引くような男である。  そんなことができるはずがない。 「はて、何のためにそのようなことをする」  入鹿は口に出した。  猿手の見解を聞きたいと思ったのである。  しかし、入鹿は「どう思う?」とは聞かない。臣下たるものは、主人からそのように水を向けられなくても、答えるものだという考えがあった。 「これは小耳にはさんだ噂でございますが——」  猿手は言った。 「石川麻呂は、このたび新羅より多額の付け届けを受け、あることを承知なされたとか」 「あることとは何だ?」 「三韓使節の席次についてでございます」 「新羅を上席にする、ということか」 「はい。近々そのことを帝に奏上なさると聞きました」 「出過ぎたことを」  入鹿は怒った。 「異国《とつくに》との付き合いのことは、わしに任せておけばよい。新羅はわれらとは縁薄き国、さればこそ席次は低いのじゃ。みだりに席を変えれば、百済との仲も悪《あ》しゅうなる」 「左様でございます」 「そうか、中大兄皇子も、新羅を嫌われておる」  そのためか、と入鹿は理解した。  新羅嫌いの中大兄に、この件について了解を求めるために娘を贈ったのだろう。入鹿はそう解釈したのである。  ならば手は一つだ。 「猿手」 「はい」 「娘を奪え」 「——」  猿手は目を丸くした。 「本当に力のある者は誰か、思い知らせてやるのだ」 「しかし、それでは、皇子様がお怒りになるでしょう」 「かまわん、こう言え。これは蘇我一族の娘、どこへ嫁ぐかは家宰たるこのわしが決める、とな」 「では、夜陰にまぎれてではなく?」 「堂々とだ、よいな」 「配下の者を連れて行ってもよろしゅうござりますか」 「かまわぬ、行け」 「かしこまりました」  猿手は言った。  そして、そのまま大勢で中大兄の邸へ押しかけ、家司たちを蹴散らして、泣き叫ぶ赤草娘をかどわかしてきた。 「そちにくれてやる、どうとでもせい」  入鹿は猿手に言った。 「ま、まことでござりますか」  入鹿はうなずいた。 「ただし、もう外へは出すなよ」 「かしこまりました」  娘はずっと下を向いていたが、さすがに顔を上げ叫んだ。 「鬼、人でなし」 「そなたの父が悪いのだ。恨むなら父を恨め」  猿手は嬉々として娘をかつぎ上げ出て行った。  入鹿はこれから先のことを考えていた。  中大兄はたまたま在宅していなかったという。 (皇子、どうなさるかな)  入鹿は無気味な笑いを浮かべていた。      九  外出から帰宅した中大兄は、事の成り行きを聞いて激高した。 「おのれ、入鹿め、人も無げなふるまい」  中大兄は怒りと屈辱で真っ赤になった。 「その方らも何だ。娘がさらわれるのを手をこまねいて見ているとは」  怒鳴りつけられた家司たちは、一様にうつむいた。  ただ、怪我をしている者はいるが、死人は一人もいない。  偶然ではなかった。人死《ひとじに》が出ると問題が大きくなるので、その点は入鹿も自重したのである。  中大兄は一旦はずした剣を再び帯びた。 「なにをなさるのです?」  妃の倭姫が冷やかな声できいた。 「知れたこと、大臣家へ行き赤草娘を取り戻してくる」 「おやめなさいませ。それこそ、御身分にかかわります」 「妃」  中大兄はきっとにらんで、 「これは色恋の沙汰ではない。わが家人が無体にも連れ去られたのだぞ。取り戻すのは家長としてのつとめじゃ」 「相手は大臣家でございますよ」 「だからこそ」  と、中大兄は剣の柄を強く握って、 「なめられてはならぬのだ。われらは皇族ぞ。その皇族が、たかが臣下に過ぎぬ大臣家にこのような仕打ちを受け、黙っていたとあっては、しめしがつかぬ」 「——」 「参るぞ」  中大兄が外へ出ようとした時、家司の一人があたふたとやってきて来客を告げた。 「蘇我倉山田石川麻呂殿と中臣鎌子殿が急ぎお目にかかりたいと申しております」 「鎌子が——」  中大兄は舌打して、いったん剣をはずした。 「客殿に通せ、すぐに行く」  中大兄が入って行くと、鎌子と石川麻呂が緊張した表情で待っていた。 「鎌子、何を申したいかわかっているぞ」  中大兄は開口一番言った。 「それは結構なことでございますな。わたくしも手間が省けてよろしゅうございます」  鎌子はのんびりした口調で言った。  中大兄はかえっていらいらして、 「行くなと言うなら、聞かぬぞ」  鎌子と石川麻呂は顔を見合せたが、石川麻呂が、 「皇子様、わたくしは娘はもう死んだものとあきらめております」  と、目を伏せて言った。 「なんだと」  中大兄は驚いて言った。 「父親のわたくしがあきらめておるのでございます。どうか、皇子様も、お腹立ちでもございましょうが、大事の前の小事とおぼし召し下さいませぬか」 「——しかし、胸のつかえがおりぬ」  中大兄が言うと、石川麻呂は微笑して、 「そう思いまして、新たな手土産を持参致しました。これ、入るがよい」  石川麻呂が声をかけると、若い美しい娘が入ってきた。  中大兄は自分の目を疑った。  それは、かどわかされた赤草娘に、あまりにもよく似ていたのである。 「これは——」  中大兄は思わず言葉を飲み込んだ。 「遠智娘《おちのいらつめ》と申します」  石川麻呂が言った。 「妹か?」 「はい、皇子様」  娘は頭を下げた。 「わしにくれると言うのか」 「はい」  石川麻呂は即答した。 「娘、よいのか?」  中大兄は遠智娘に向かって言った。 「皇子様の御心のままに——」 「そうか」  中大兄の顔がほころんだ。 「参るがよい」  中大兄は娘の手を取った。 「皇子様、それでは思いとどまって頂けるのですね」  鎌子が念を押した。 「うん?」  中大兄はけげんな顔をした。 「大臣家《おおおみのいえ》には行かれませぬな」 「ああ、そのことか」  中大兄はもうその気を無くしていた。 「——今度だけは許してやろう。どうせ、長いことはないのだ」  そう言い捨てると、中大兄は遠智娘の手を取ってそのまま行ってしまった。  鎌子と石川麻呂は顔を見合わせた。 「——われらとは、お育ちが違いまするな」  石川麻呂は言った。  あきらめとも、愚痴とも取れる口調である。 「まことに」  鎌子も、皇子の性格に、一抹の不安を抱いていた。 [#改ページ]   第四章 粛 清      一 「若君——」  押し殺したような声がした。 「虫麻呂か」  漢殿《あやどの》は、じっと見入っていた槍を卓の上に置いた。  声は床下からだ。 「大臣家の動きはどうだ?」 「はい、気付いておる様子はございませぬ」 「確かか」 「はい、中大兄皇子様が、石川麻呂殿の娘御《むすめご》を取り戻しには行かれなかった。そのことがかえってよろしゅうございました」 「兄君、恐れるに足らずと、入鹿に思わせたか?」 「御意」 「御苦労、ひき続き大臣家を見張れ。変った動きがあれば、すぐに伝えよ。わしはこれから宮中へ参る」 「くれぐれもお気を付けなされ。相手は蘇我大臣でござる」 「わかっている」  漢殿はそう言って槍を取ると、 「兄君も必死なのだ。仕損じれば命はないのだから——」  虫麻呂は去った。  漢殿は槍の穂先に皮の袋をかぶせると、身仕度をして外へ出た。  空を見上げると、今にも泣き出しそうな曇《くもり》空である。  青い空は少しも見えない。 (まるで、自分の人生のようだ)  と、漢殿は思った。  自分はこの国の帝王の血をひいている。  では、そのことによって輝かしい地位を得られるか、といえばそんなことはない。  かえって平民に生まれた方がどんなに気楽だったか。  いまの自分は平民になることもできないし、皇族の待遇を受けることもない。実に中途半端な中ぶらりんなのである。  馬に乗った。  この馬も、人目につくところでは乗れない。  人の目をはばかって生きていく。それしかないのだ。  だが、もしそれが少しでも変るとしたら、本日の一挙を成功させるしかない。  権勢を誇る蘇我大臣を倒す。成功すれば「兄」の中大兄は次代の権力者になるだろう。 (少しは、ましな地位につけるかもしれぬ)  このままでは日陰者だ。  なまじ帝王の血を引いているばかりに、どこへ行くこともできない。 (入鹿を必ず倒す)  漢殿は心に誓った。  さほど憎しみはないが、大手柄をたてぬ限り、自分は浮かび上がれないのである。      二 (石川麻呂め、まだ懲りぬのか)  入鹿はいまいましく思った。  猿手《さるて》の知らせによれば、石川麻呂は宮中で画策し、三韓の席次を変えようとしているという。 「思い知らせてやるか」  入鹿は参内することにした。  石川麻呂は、三韓の上表文の読まれる順番を、百済《くだら》・高句麗《こうくり》・新羅《しらぎ》から、新羅・百済・高句麗の順にしようとしている、という。  どうせ、新羅から賄賂をもらってのことに違いあるまい。  今頃、石川麻呂は自分を出し抜こうと、宮中での予行演習を進めているに違いない。予行だから大臣は立ち合わない。そこで席次を変えてしまい、本番はその通りに行なう。  そんなことで、本当に席次を変えられると思っているのなら、それは笑止の沙汰と言うべきだ。 「出かけるぞ」  入鹿は家の者に声をかけた。 「お供は、何人になさいます」 「二、三人でよいわ」  入鹿は言い捨てて、さっさと甘橿丘《あまかしのおか》の邸宅を出た。馬で行けば、ほんのわずか、湯がわくよりも早くつく。  入鹿は宮門の前で馬を降りた。 「これは大臣様」  衛士《えじ》の頭《かしら》が頭を下げた。 「石川麻呂が来ておるな」  入鹿は鋭くにらみつけた。 「はい、仰せの通り」  衛士頭はあわてて答えた。 「その方どもは、ここで待っておれ」  入鹿は家来にそう言いつけると、内門をくぐった。 「これは、これは、大臣様。きょうはいいお日和《ひより》で」  かん高い、つきぬけるような声がした。  宮中に仕える道化の春麻呂だった。  春麻呂は、いつもどぎついほど明るい色の衣をまとい、顔には紅|白粉《おしろい》を塗っている。 「いい日和なものか」  入鹿は言ったが、その声は怒っていなかった。入鹿は、滑稽な芸を見るのは、嫌いではない。 「大臣様、何をそのような、ものものしいお姿をなさっておられます?」  春麻呂は両手を広げて、おどけた身振りで入鹿の剣を見た。  入鹿の剣は大きく長い。  正式の参内の時は、唐の国の風習にならい、女帝の前では帯剣出来ない。 「ははは、これか」  入鹿は剣の柄に手をかけた。 「ひえっ」  と、声をあげて春麻呂は飛び上がると、 「帝もお見えです。大臣様、それはございませぬよ」 「そうか——」  入鹿は少し考えた。  確かに、いくら自家薬籠中の女帝とはいえ、その前に帯剣して進み出れば、悪い評判が立つかもしれぬ。 (気にすることはない)  そう思いながらも、入鹿は剣を鞘ぐるみはずして、春麻呂の前につき出した。 「預ける。くれぐれも粗相のないように致せ」 「ははっ。大臣様の御剣をお預け頂くとは、身に余る光栄にございまする」  春麻呂は剣を受け取ると、まるで子供を抱きしめるように抱いた。  そして、そのまま後ずさりして消えた。  入鹿はそのまま謁見の間に入った。  玉座には女帝がいた。  その前には石川麻呂が、そして数名の位の低い官人がいた。  入鹿は女帝に軽く一礼すると、ずかずかと石川麻呂に歩み寄った。 「おい、何をたくらんでおる」  その一喝に、石川麻呂は兎のようにおびえた目をした。 (他愛もない)  入鹿はますます侮った。 「何をたくらんでおるか、わしにはとうの昔にわかっておる。よいか、このわしを欺こうなどと考えることは、剣の前に身を投げ出すも同然なのだ」  石川麻呂の顔から血の気が引いた。 「わかったか」  入鹿は一喝した。 「は、はい」  石川麻呂はあわてて頭を下げた。  入鹿はいつもの位置、女帝から見て左側の最前列へ立った。 「さあ、早くしろ」  石川麻呂はうなずくと、三韓の上表文をたずさえて女帝の前に立った。 「読み上げまする」  石川麻呂は両手で書状を広げた。  まず、百済の分から読まねばならない。  入鹿はじっと石川麻呂を見ている。  石川麻呂は朗読を始めた。      三  鎌子は、謁見の間のすぐ近く、大極殿前の庭にいた。  佐伯連子麻呂《さえきのむらじこまろ》と葛城稚犬養連網田《かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた》もいた。両名は鎌子が特に選んだ若者である。  だが、二人は緊張の極にあった。  鎌子は二人を落ち着かせようと、持参してきた乾飯《ほしいい》を与えた。子麻呂も網田も、それを竹筒の水で胃の腑へ流し込んだが、子麻呂がまず吐き、見ていた網田もつられて吐いた。 「しっかりしろ」  鎌子は、この日のために用意した剣を、二人に与えて励ました。  だが、内心は気が気でない。 (本当に、こやつらで大丈夫なのか)  鎌子は、自らは弓矢を用意していた。  二人が仕損じた時には、これで入鹿を射るつもりである。  だが——。 (万一の時は、これで、こやつらを射た方がよいかもしれぬ)  にわかに別の思案がわいた。  この一挙、失敗すれば命はない。たとえ現場を逃げ出しても、入鹿は蘇我一族の全力をあげて一味の追及に乗り出し、かかわりのあった者を家族もろとも皆殺しにするだろう。  それを防ぐにはこの手しかない。 (待てよ。こやつらを消しても、中大兄皇子が残っている)  鎌子はそのことに気付いた。  この二人を消し、その功によって入鹿に重く用いられようとしても、中大兄が捕まって自分も一味だと証言すれば、すべては水の泡になる。  もし裏切るなら、中大兄をこの手で消さぬ限り、功とはならぬ。 (どうする、そうするか) 「来たぞ」  突然、背後から声がかかった。  鎌子はぎくりとして振り返った。  漢殿だった。  並々ならぬ鋭気が、その全身から感じられる。 「これはこれは」  鎌子は一礼した。 「どうだ、中の様子は?」 「大臣は入られ、石川麻呂殿が上表文を読み上げるところにござります」 「ならば、手筈通りだな。宮門は既にすべて閉まっている」  中大兄の指図だった。  大極殿に通じる十二の門は、衛門府を味方に引き入れた中大兄の命により、すべて閉じられていた。  中にいるのは、大臣の従者三人を除けば、すべて味方か、中立の勢力である。 「では、参りましょう」  漢殿の存在が、鎌子の心をまた変えた。  中大兄を消しても、漢殿まで消すことは難しい。それより入鹿一人を倒した方が早道である。 (絶対に逃がさぬようにせねば)  鎌子、子麻呂、網田、それに漢殿の四人は、足音を忍ばせて大極殿に侵入した。      四  中大兄は既に大極殿の中で、柱の陰に身を潜めていた。  腰には剣を帯びている。  ここまではすべてうまく進行していた。  石川麻呂は相変わらず、上表文をゆっくりと読み上げている。  百済の分が終わるところだった。続いて高句麗、新羅と続く。  鎌子たちも入ってきた。  すべて配置は終わった。  予定では、三韓の分すべてが終わる直前、まず子麻呂と網田が斬りかかり、中大兄と鎌子が支援し、場合によっては漢殿が加わることになっていた。  石川麻呂はふと気付いた。  入鹿が入口の方を気にしている。 (なぜだ。まだ、終わっていないのに)  石川麻呂は、入鹿が何を考えているのか、考えた。そして気付いた。 (百済の分が終われば帰るつもりだ)  それに違いなかった。  入鹿にしてみれば、百済さえ後回しにならなければそれでいいのだ。百済が終わり、次の高句麗の頭の部分を聞けば、席次は一切変らなかったことになる。  これは予行演習なのである。あの面倒臭がり屋の入鹿が、最後までおとなしく聞いているということは、有り得ないことではないか。 (しまった。これを読み終えれば、入鹿は帰ってしまう)  石川麻呂の顔から冷汗が流れた。  打ち合わせでは、三韓の上表文のすべてが読み終わる直前に、子麻呂と網田が斬りかかることになっている。  しかし、実際はそのずっと以前に、入鹿はさっさと引き上げてしまうかもしれないのだ。  おそらく、そのことに中大兄以下は、まったく気が付いていないだろう。  子麻呂も網田も、まだ心の準備ができていないかもしれない。 (いかん)  石川麻呂は急に読む速度を落とした。  少しでも読み終わりを遅らすしか、いまのところ手はない。  女帝がいぶかしげに石川麻呂を見た。  石川麻呂は初めて読み誤った。 「どうした、気分でも悪いのか」  入鹿がからかうように言った。 「——いえ、御前で、畏れ多くて」  石川麻呂は咄嗟にごまかしたが、目の前は真っ暗になった。 (早くしてくれ)  中大兄はどうして石川麻呂が急におかしくなったのか、わからなかった。 (何をしている、あんなことでは怪しまれる)  中大兄は鎌子に合図を送った。  予定を変更して、ただちにかかれと命じたのである。 「さあ、行け」  鎌子は命じた。 「え、もう、行くので」  子麻呂は尻込みをした。  石川麻呂が危惧した通り、子麻呂はまだ心の準備ができていなかった。  人を殺す、ましてや相手は当代一の権力者である。  子麻呂は決して臆病者ではなかった。  しかし、人を殺すのは初めての経験である。徐々に気力を充実させて、ぶつかっていこうとしていたのに、これではどうしても気遅れする。  網田も同じだった。 (バカめ、一体、何をしているのか)  中大兄はあせった。  石川麻呂は誰が見てもおかしくなっている。  このまま放っておけば、入鹿に感付かれるかもしれない。 (やるか)  咄嗟に決意した。  中大兄は剣を抜き、大声をあげて入鹿へ突進した。 「やあーっ」  入鹿も石川麻呂も母の女帝も、驚いて中大兄を見た。  中大兄は入鹿に斬りかかった。  だが、入鹿は簡単にこれをよけた。 「なにをなさる」  声には充分な心の余裕があった。 「命をもらう」  中大兄は血走った目で叫んだ。 「乱心召されたか」 「なにを!」 「その腰付きでは、とうてい人は刺せませぬぞ」  入鹿は嘲笑した。 「おのれ、覚悟」  中大兄は再び大上段から右手の剣を振りおろした。  だが、その剣は空を斬り、中大兄は勢い余って床に倒れ込んだ。 「乱心者を取り抑えよ」  入鹿が叫んだその時、柱の陰から無言の気合いを込めて突進してきた若者がいた。  漢殿である。  その漢殿の槍が、入鹿の胸をずぶりと刺し貫いた。 「ぐえーっ」  叫び声をあげる入鹿の体を槍ごと左へ払って、その反動で、漢殿は槍を引き抜いた。  鮮血が飛び散った。  入鹿はたまらず、床に手をついた。  そこへ子麻呂と網田も飛び出し、それぞれ一太刀浴びせた。  のけぞって苦しむ入鹿に、中大兄は今度は充分に狙いをすまし、脳天に一撃を加えた。 「ぐわっ」  頭から胸まで血だらけになった入鹿は、手探りで玉座の方へ向かい、その階《きざはし》の下で女帝を見た。 「わたくしめに何の罪がございましょう。お助け下さいまし」  女帝は驚き、顔をしかめて、中大兄に向かって言った。 「一体、何事じゃ」 「入鹿は、皇統を絶やして自ら帝位に即こうとしています。こんな下賤の者を帝位にのぼらすことなどできましょうか」  中大兄は胸を張って言上した。  その頬には血が飛び散っていた。  女帝は再び入鹿に視線を当てた。 「宝《たから》よ、助けてくれ」  入鹿は弱々しい声で叫んだ。  女帝の顔が怒りで赤くなった。 「宝」とは女帝の本名である。  その名を人前で呼ぶことは不敬の極みである。いや、人前でなくとも、呼べる者は誰もいない。  この世で最も高貴な存在である女帝の名を、そのまま呼べる者など、いるはずはない。  しかし、入鹿は呼んだ。  女帝と二人きりの時は、そう呼んでいるからだ。だが、女帝にとってみれば、実の息子や廷臣の居並ぶ前で、入鹿がその名を口にしたことが、許せなかった。  女帝は立ち上がり、奥の間へと消えた。  中大兄はうっすらと笑みを浮かべると、子麻呂と網田に向かって命じた。 「とどめをさして、外へ放り出せ」  まだ息のある入鹿の髪を子麻呂はわし掴みして体を起こすと、入鹿の胸に剣を突き刺した。  今度は悲鳴もあげずに入鹿は絶命した。  つい、先程まで、この国の大権力者だった男は、目をかっと見開いただけの物体になっていた。 (勝ったな)  中大兄はようやく勝利を実感した。 「兄君、よろしゅうございましたな」  漢殿が言った。  中大兄は不快げに、 「なぜ、指図もなく手を出した」 「——それは、兄君が危ないと思いましたので」 「余計なことを、そちの槍がなくても、勝っていたぞ」 「まあまあ、皇子様。お怒りでもございましょうが、ここは、ひとつ、この鎌子に免じてお許し下さいませ」  いつの間にか鎌子が来ていた。 「御苦労。そなたのおかげだ」  と、中大兄は一矢も放っていない鎌子の方には、ねぎらいの言葉をかけた。 「皇子様、皆の者にお言葉を」  鎌子は小声でささやいた。  中大兄ははっとして、 「見ての通りだ」  と、大声で言った。 「大逆の罪人は正義の刃に伏した。これから、わしは残党を討つ。われらは義軍だ。かまえて帰趨《きすう》を誤るでないぞ」  その惨劇に立ち合うことになった官吏たちは、黙って中大兄の言うことを聞いていた。  中大兄は子麻呂に命じた。 「何をしている、早く放り出せ」 「ははっ」  子麻呂が入鹿の両手を、網田が両足を持ち、外へ運び出した。  中門をくぐり、馬場へ出たところに、入鹿の従者がいた。 「大臣様」  駆け寄った従者を見ていた中大兄は、漢殿に声をかけた。 「あやつら、皆殺しに出来るか」 「出来まする」  漢殿は素早く走り寄り、三人をそれぞれ串刺しにした。 (使える)  中大兄は、その鮮やかな手並みを見て、あらためてそう感じた。  入鹿の死体は従者の死体と共に、宮門の外へ放り出された。  突然、ごおーっという音と共に、激しい雨が降ってきた。  入鹿はその雨に打たれたまま、放置されていた。  中大兄はただちに兵を集め、法興寺を本営と定めた。      五  入鹿惨殺の報は、まず古人大兄《ふるひとのおおえ》皇子のもとへ届けられた。  もたらしたのは大極殿にいた官吏の一人である。 「なに、大臣が殺されたと」  古人大兄は寝耳に水の報に仰天した。 「はい」 「一体、誰に殺された」 「初め、漢の御方が槍をつけられ、続いて鎌子の従者が、そして中大兄皇子様が——。ただ、初めの一突きが最も深傷《ふかで》と見えました」 「では、韓人《からひと》が大臣を殺したのではないか」  古人大兄は叫んだ。 「ははっ」 「心が痛む。どうして大臣は殺されねばならなかったのか」  古人大兄は寝所に入った。  そして、そのまま誰にも会わぬと、引きこもってしまった。  入鹿の父|蝦夷《えみし》は、入鹿の死を知って悲しむよりも呆然とした。  まさか入鹿に反旗をひるがえす者が出るなど、思いもよらぬことだった。 「漢直《あやのあたい》を呼べ」  蝦夷はただちに命じた。  漢直は蘇我家の私兵隊長というべき存在である。  蝦夷は漢直に兵の召集を命じた。  一方、中大兄も兵を集めていた。  法興寺には、古人大兄を除くすべての皇子、それに官軍の将兵が集まってきていた。 (これなら勝てるな)  中大兄はほっとした。  母の帝は何も言わないが、入鹿が死んだ今となっては蘇我氏に肩入れする理由は何もない。  実の息子である中大兄、それに漢殿を支持するのは当然のことだ。  中大兄は、官軍の中で最も優れた将軍として定評のある巨勢徳陀《こせのとこた》に最も精鋭の兵を預け、蝦夷の館へ向かわせることにした。 「畏れながら、その前に、一つ打つべき手があるやに存じます」  鎌子が言上した。 「何をせよ、と申すか」  中大兄はけげんな顔をした。  この期に及んで兵力を動かす以外に、どんな手があるというのか。 「大臣の屍《しかばね》を、蝦夷のもとへ送り届けるのでございます」  鎌子は言った。 「そんなことをして、何の益がある」 「大臣家の士気が一挙に落ちましょう」 「落ちるかな」 「あの大臣が死んだと耳にしても、この目で見るまでは、なかなか信じられぬのが人というものにござりまする。そこへ屍を送り届ければ、誰もが大臣の死を疑わず、士気阻喪致しましょう」 「なるほど、では、門前に放り出してくるか」 「いえ、それよりは棺《ひつぎ》に納め、丁重に送り届けた方がよろしゅうござる」 「それは?」 「手荒い扱いをすれば、人は怒りまする。怒らせれば、味方になる者をみすみす敵に回します」 「なるほど」  中大兄は感心したが、徳陀将軍にも一応たずねた。 「そちはどう思う?」 「鎌子殿の策、しかるべしと考えまする」 「そうか、では、そう致そう」  中大兄は断を下した。  鎌子の策は当たった。  入鹿の屍を見て、蘇我家の兵は次々に脱走を始めた。  そこへ徳陀が兵を率いて駆け付け、降服する者の罪は問わないという布告を出した。  効果は抜群であった。  蘇我軍は戦わずして敗北した。 (なんということだ、蘇我家もこれまでか)  蝦夷は天を仰いで嘆息した。      六  蝦夷の館は、巨勢徳陀を大将とする軍勢に、蟻の這い出る隙もないほどに、びっしりと取り囲まれた。  脱走者が相次いでいた。  徳陀は、「前非を悔いて投降するなら許す」と、繰り返し呼びかけていた。  味方は、あっという間に半分に減り、さらに半分に減り、気が付くと数えるほどしかいなかった。 (これはいかん)  蝦夷は覚悟を決めざるを得なかった。  残った一族を呼び集めて、最後の宴を催した。  誰も笑う者はいない。 「猿手」  蝦夷は最後まで残っていた間者の頭を呼びつけた。 「御前《おんまえ》に——」 「見ての通りだ。大臣家もこれまでよ。われらは自害する」 「大殿様」  猿手の顔が悲しみにゆがんだ。 「——申しわけもござりませぬ。もとはと言えば大臣様をむざむざ討たせた、この猿手めの油断」 「言うな。もう済んだことだ」  蝦夷は淡々とした口調で、 「最後の下知じゃ。わが首を敵に渡すな。われらの自害を見届け、館に火を放て」 「——」 「そのあとは、勝手にせよ。——よいな」 「ははっ」  猿手は大地に平伏した。  その場を離れようとした蝦夷は、ふと振り返った。 「もし、死に損ねた者がおれば、とどめを刺してくれ。この、わしもだぞ」  そう言って蝦夷は館の中に消えた。  猿手は声をあげて哭《な》いた。      七  館から火の手が上がったのは、入鹿の殺された翌日未明のことだった。  夜明けを期しての総攻撃を考えていた将軍徳陀は、火の手を見て館への突入を命じた。  裏と表と、両方の門が突き破られて、徳陀の兵が館の中に入った。 「待て、ここは通さぬ」  猿手だった。  逃げずに残ったのである。 「大臣家の臣として最後の意地を見せてやる」  猿手は剣を振り回した。  死を覚悟した猿手一人に、千を越す軍勢が圧倒された。  数人を斬り倒して、返り血に染まった猿手は、しかし手傷ひとつすら負っていなかった。  恐れた兵士は猿手を遠巻きにした。  その間にも、炎は館を包んでいく。  馬上で指揮を執っていた徳陀はあせった。  蝦夷は、おそらく死んだのだろう。  しかし、その死体をひきずり出して、市《いち》にさらさなければ、完全に勝ったとはいえないのである。 「わたしに任せろ」  進み出たのは漢殿だった。  槍を手にしている。 「あなた様が」  徳陀は、漢殿が中大兄の異父弟である、ということしか知らない。  漢殿は無言で槍を抱え、小走りに走った。  その勢いに、兵士の輪が割れ、道が開いた。  猿手は新たな強敵の出現に、剣をふりかぶった。 「とおーっ」  気合いを発して、漢殿が槍を突き出したまま、突進した。  兵士たちは見た。漢殿の槍が、まるで吸い込まれるように猿手の胸板を貫くのを。 「ぐわっ」  さしもの猿手が、一太刀も漢殿にむくいることができなかった。  猿手は倒れた。  漢殿が槍を抜くと、兵士から歓声が上がった。 「急げ、蝦夷を引きずり出せ」  徳陀は命じた。  館の中に兵士が乱入し、首をつった蝦夷の死体のみならず、珍宝や書物の類いまで持ち出した。 (勝った)  中大兄はその時初めて、勝利を完全なるものとして感じた。 [#改ページ]   第五章 改新の詔      一 「譲位じゃと」  中大兄は意外な言葉に驚いた。 「左様にございます」  鎌子《かまこ》はうなずいた。  二人の他に石川麻呂と漢殿《あやどの》がいた。  蘇我本宗家の打倒には成功した。今後の政治体制をどうするか。そのための密談が始まっていた。  その席で、鎌子は意外なことを口にしたのである。  譲位、すなわち母である今の帝の位を譲らせることだ。  遠く海の向うでは、そのような例があることを、中大兄は請安《しようあん》の教えで知っていた。  しかし、この国では例はない。  この国では、帝は終身にわたってその座にあるのであり、崩御して初めて皇太子がその座を継ぐ。過去の例を見ても、すべてそうなっているはずだ。少なくとも中大兄はその例外を知らない。その、この国始まって以来のことを、鎌子はやれと言う。 「では、わしには帝になれと?」  中大兄の言葉に、鎌子は首を振った。  今度は、石川麻呂も漢殿も意外な顔をした。 「なぜだ。新帝は兄君をおいて他にあるまい」  漢殿が言った。  彼の発言を好まない中大兄も、この時ばかりは、喜んだ。だが、鎌子はあくまでも首を振って、 「それは、よろしくございません。蘇我大臣に自ら剣をふるわれた皇子《みこ》様が、すぐに位に即《つ》かれては、とやかく申す者もございましょう。ここは一歩引かれ、皇太子の座のみ確かなものにされることこそ長久の道と存じます」 「では、帝には誰を?」 「軽皇子《かるのみこ》様にございます」 「叔父上か」  軽皇子は母の帝の弟で、年はもう五十を越えている。  つなぎ[#「つなぎ」に傍点]の帝としては格好かもしれぬ。  しかし、問題はあった。 「古人《ふるひと》が黙っているかな」  古人大兄皇子である。  蘇我入鹿が生きていた頃は、次の帝の最有力候補であった。  というより入鹿は、強引に古人大兄を位に即け、そのあと帝の位に自分がのぼる気でいたのだ。  もちろん古人大兄はそんなことは知らない。ただ自分の有力な後楯を滅ぼした中大兄を憎んでいる。  譲位が行なわれるとなれば、我こそはと名乗りを上げないとも限らなかった。  しかし、古人大兄を絶対に位に即けてはならない。  そんなことになったら、中大兄の立場はなくなる。  その危険性はないとは言えなかった。  何といっても譲位については、群臣の意見より当の帝の意志が第一だ。  入鹿を殺した中大兄への腹いせに、母がそういうことをしないとは言えない。 「お任せ下さい」  鎌子は言った。 「どうするのだ?」  中大兄の問いに、鎌子は意味有りげに笑い、漢殿を見た。 「——?」 「お力をお借り致します」 「何をせよ、と言われる」  漢殿は不思議な顔をした。 「わたくしに同道して頂ければよいのです」 「どこへ?」 「古人大兄皇子の館にございます」 「そうか」  漢殿は鎌子の意図を察した。  新体制についての打ち合わせが終わると、鎌子は漢殿と共に古人大兄の館におもむいた。  古人大兄は初め会おうとしなかったが、鎌子が次の帝のことにつき談合したい、と申し入れたので、さすがに受けた。  古人大兄は周囲を家臣に固めさせて、鎌子に会った。 「鎌子、大極殿では大した働きだったそうだな」  古人大兄は、鎌子と漢殿をにらみつけるようにして言った。 「おそれいります」 (入鹿を殺したのは、この男か)  古人大兄は漢殿を見るのは初めてだった。 (中大兄に似ている)  そのことが不快だった。 「次の帝のことと申したな」 「はい」 「臣下が、取沙汰することではあるまい」  古人大兄はぴしゃりと決めつけるように言った。 「取沙汰はしておりません。ただ、帝は御譲位なさるとうかがっております」 「譲位? 誰にだ」  古人大兄は、従兄である入鹿に少し似ている。その眼光は、入鹿ほどではないが、なかなか鋭い。  だが、鎌子はいささかもひるまずに、 「軽皇子様でございます」 「軽皇子?」  古人大兄は眉根にしわをよせて、 「なぜだ。わしも帝の位にふさわしいと思うが」 「御意、さればこそ参ったのでございます」 「——?」 「皇子様、もし帝より御譲位の御沙汰があっても、必ず御辞退なさいますように」 「なんだと」  古人大兄は怒った。 「無礼者! そちがそのようなことを口に出来る立場と思うてか」 「お怒りはごもっともなれど、これは皇子様の身を気付かってのことでございます」 「何と申す?」 「もし、帝の御位《みくらい》に即かれようとなさいましたら、必ず不幸がおとずれましょう」 「不幸とは」 「頓死《とんし》でござる」 「なに、何と申した?」 「帝の御位に即かれる前に、皇子様は頓死なさると申し上げたので」  古人大兄はしばらくその意味を考えていた。  そして、それが自分に対する脅しだと気が付いて、顔を怒りで真っ赤にした。 「ええい、黙れ。何という僭上《せんじよう》者めが、下がれ、下がれ。下がらねば成敗してくれるぞ」 「下がりまする。ただ、一つだけ御覧に入れたき業《わざ》がございます」  鎌子はそう言って、それまで一言も発しなかった漢殿を見て一礼した。  漢殿は衣の中に隠し持っていた手槍を出した。  古人大兄は驚いて、立ち上がろうとした。  その瞬間、漢殿は槍を投げた。  一同は驚愕した。  槍は古人大兄の頭の頂上をかすめるようにして、背後の壁に突き刺さったのである。  古人大兄は、あまりのことに、へなへなと腰を抜かした。 「もし、次の機会があれば、今度ははずしませぬ」  鎌子はそう言い、漢殿と共に素早くその場を去った。 「見事な手並みだな」  漢殿は馬上から、鎌子に声をかけた。  鎌子も轡《くつわ》を並べていた。 「いえ、あなた様こそ」 「脅しの手並は堂に入っている」 「おそれ入ります。これもひとえに皇子様のため」 「——それは、どうかな?」  漢殿が言ったので、鎌子は心外そうな顔をした。 「何を仰せられます」 「大極殿の庭で、わたしを待っていた時、そなたは何を考えていた?」 「——」 「わたしにはわかる、鎌子、そなたは頭が回り過ぎるのではないかな」  漢殿はそう言うと、一鞭くれて走り去った。  残された鎌子は、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。      二  中大兄は母の帝と二人きりで会っていた。 「どうしても譲位せよと申すか」 「はい」 「なぜじゃ」 「これまで、天津日継《あまつひつぎ》の座は群臣協議し推戴するものでございました」  中大兄は言った。  それは事実である。  帝の位は、帝が決める——中国ではそうだ。しかし、日本でそうならなかったのは、日本の帝が終身だからだ。終身のあいだ帝であり、生前に位を譲ったのは一例もない。したがって、次の帝というものは、前の帝が亡くなってから初めて決まる。生前、後継者は指名されてはいるが、その後継者が帝の位に即くのは、周囲に推されてという形をとる。  それをあくまで帝の一存で決める形をとろうというのが、中大兄の、いや鎌子の画策だった。  それは皇権の強化につながる。  だが、母の帝はなかなか納得しなかった。  前例がない。  そのことが、母の決断をためらわせている。  中大兄は言葉をつくして説得した。  入鹿を殺したことについては、母の帝は何とも思っていなかった。  入鹿が皇位を狙っていたというなら、そうかもしれないと思うし、仮にそうでなかったとしても、別に同情はしない。  女帝にとって入鹿は、行きずりの男に過ぎない。  しかし、中大兄は違う。  中大兄は自らの腹を痛めた子だ。  それが言うことを無下にしりぞける気にはならない。 「——わかりました。では、一つだけこちらの言うことも聞いて下さい」 「何でしょう」 「あの子を、皇子とすること」 「なりませぬ」  中大兄は不快感を露わにして言った。 「なぜです」 「これは母上のお言葉とも思えませぬ。あの者は父が皇族でない。そのような者を皇子と呼ぶことは出来ません。これはこの国始まって以来の掟ではありませんか」 「譲位も、この国始まって以来のことですよ」 「それとこれとは違います。もし、あの者を皇子と呼ばねばならないのなら、わたしは首をくくって死にまする」 「それは大仰な」 「本気です」  中大兄はきっぱりと言った。  女帝も返す言葉がない。 「——それでは、母上、譲位のこと、くれぐれもお願い致しましたぞ」  女帝は不承不承うなずいた。      三  朝議が開かれた。  女帝を中心に、中大兄、古人大兄、軽皇子らが列席し、朝廷の百官も集まっている。  女帝は全員の前で宣言した。 「朕《ちん》は帝の位を譲ることにした」  まず、驚きの声が上がった。  石川麻呂が進み出た。 「おとどまり下さいませ。いまや世の中は泰平にして、国に何の憂いもありませぬ。これはひとえに帝の御徳のなせるわざ」  これは予定の行動だった。  すんなりと譲位を認めたら、臣下一同それを待っていたことになってしまう。それでは女帝の立つ瀬がない。  ここで一度引き止めるのが礼儀というものである。 「いや、朕はこのところ多病にして、国内も平穏無事とは言い難い。ここは新たな帝を迎え、人心一新して、ことにあたるのがよいと思う」  女帝はそう言って、石川麻呂に視線を当てると、 「そなたは、次の帝に誰がふさわしいと思うぞ」 「——そ、それは」  石川麻呂はあわてた。  むろん軽皇子でいくことは衆議一決している。しかし、だからといって臣下の口から、誰それがいいとは言えない。打ち合わせでは、女帝が軽皇子に譲位することを宣言し、臣下がそれに従うということではなかったのか。  女帝から御下問があるなど、考えられないことだった。  一体どういうことなのか。 (母上は拗《す》ねておられる)  中大兄は気が付いた。  漢殿を皇子にすることが出来なかったので、嫌がらせをして、鬱憤を晴らしているに違いない。 「臣下の口からは申し上げられません」  石川麻呂はかろうじて言った。 「では、そなたはどう思う」  女帝は弟の軽皇子に聞いた。 (母上、いい加減になされい)  中大兄は苦り切った。  軽皇子も困っていた。  自分が次の帝に内定していることは、知らされていた。しかし、だからといって、「私が適任です」とは言えない。 「——古人大兄どのがよろしいのでは」  軽皇子はついそう答えた。 (まずい)  漢殿も鎌子も、そう感じた。  古人大兄は真っ青になって首を振った。 「御辞退致します」 「なぜじゃ」 「わたくしは帝の器ではない」 「だが、皆も、そなたがよいと申しておるようじゃ」  女帝の言葉に、古人大兄は、 「辞退致します。わたくし、このところ思うことあり、出家する覚悟でございます」 「出家」  女帝のみならず、一同は驚いた。 「まことか」  女帝は念を押した。 「尊い主上《おかみ》の御前で、嘘いつわりを申しましょうか」  古人大兄は一礼すると、そのまま足早に御前を退出してしまった。  中大兄は呆気にとられて、鎌子を見た。  鎌子は重々しくうなずいた。 「——母上、叔父上にお言葉を」  中大兄がそっとささやいた。  女帝は、何事もなかったかのように、 「では、帝の位は、わが弟、軽皇子に譲ることにする」  儀式は終った。  中大兄は、大極殿から出ると鎌子をつかまえて、柱の陰に引っ張った。 「冷汗をかいたぞ、先程は」 「わたくしもでございます」  鎌子もうなずいた。 「そなたのおかげだ。そなたが古人を脅しておいて——」 「しっ、お声が高うございます。何事も壁に耳ありでございますよ」 「そうだな」 「それにわたくしの手柄ではございません。漢の御方こそ勲功第一——」 「よせ、あの男のことは」  中大兄は苦々しく思っていた。  すんなり終わるはずだった儀式が、あれほどもめたのも、もとはと言えば、あの男のせいである。 「頭から決めつけられるものではございません。あの御方はこれからも使えまする」  鎌子は言った。 「使える?」 「はい、あれほどの手練《てだれ》、敵に回してはなりません」 「そうかな」 「そうでございますとも」 「そなたが言うなら、そうしておいてもいいが」 「そうなさいませ」  鎌子の言葉に、中大兄は納得はしなかった。  冷静に考えてみれば、入鹿暗殺も漢殿の手助けがなくば失敗したかもしれない。  しかし、そう認めたくはないのである。 「ところで皇子様。もう一つ手を打たねばなりませんな」 「——?」 「新帝のお后でございますよ」 「后なら既におるではないか」  中大兄はけげんな顔をした。 「はい、されど皇子様は今度は帝になられるのです。帝におなりになる以上、后は皇族でなくてはなりませぬ」  それは鎌子の言う通りだった。  帝の死後、皇后が皇位を継ぐことも考えられる。現に、今の帝がそうではないか。 「誰か、軽どのへ嫁がせるというのか」 「はい、間人《はしひとの》皇女《ひめみこ》様を」 「なに、我が妹を?」  中大兄は目を剥いた。 「——あれは、だめだ」 「いえ、ここは何としても、そうして頂かねばなりませぬ。皇太子のお名指しもまだ終ってはおりませぬ」 「だが、わしになることは決っておるではないか」 「一度、帝になってしまえば、人は変るものでございます。あの方には有間《ありま》皇子というれっきとした御子もございます」 「——」 「ぜひとも、この一件、御承諾下さいますよう」  鎌子は熱心に口説いた。      四 「嫌でございます」  間人は叫んだ。  妹ながら、美しい、と中大兄はいつも思う。 「わかってくれ」  中大兄は先程から同じ言葉を繰り返した。 「嫌です。どうして、わたくしがあんな年上の叔父上の后にならなければならないのですか」 「皇后だぞ、皇后こそ、女のあこがれではないのか」 「いやっ」  間人は中大兄に抱きつき、耳元でささやいた。 「わたくしは兄上のお嫁になるのですから」 「馬鹿なことを言うでない」  青ざめて中大兄は間人を押しのけた。  兄妹婚は許されない。母さえ違えば、それもかまわないが、同母の兄妹は決して結婚できない。  そんなことをすれば、何もかも捨てて遠いところで暮すしかない。むろん、帝の座も皇太子の座も夢の夢となる。 「馬鹿なことでしょうか」  間人は中大兄をにらんで、 「わたくしはそうは思いません」 「わがままを言うでない」 「兄上こそ、わがままです」 「——なぜだ?」 「あの時は、どこにも嫁に行くな、一生わが家におれ、と申されたではありませんか」 「——」 「いまになって、お言葉をひるがえされるなど卑怯です」 「だが、これはそなたのためなのだ。出世だぞ、この国の帝の正妃となるのだ。これ以上の出世が他にあろうか」  たじろぎながらも、中大兄は言った。  間人は身を伏して泣き出した。 (泣かれるのは困る)  中大兄は憮然として、立ちつくしていた。  三日後、間人は新帝のもとに嫁ぎ、皇后となり、中大兄は皇太子となった。      五  六月十九日、入鹿が暗殺された七日後、新帝|孝徳《こうとく》天皇は群臣を飛鳥寺の庭に集めた。  飛鳥寺には、樹齢数百年と伝えられる欅《けやき》がある。  その欅の下に、先帝、新帝、皇太子中大兄、左大臣阿倍内麻呂、右大臣蘇我倉山田石川麻呂をはじめとする百官が参集した。中臣鎌子は、新たに設けられた内臣《うちつおみ》という特別な職に任じられた。  ただ一人、この場に参加していない功労者がいた。  漢殿である。漢殿は相変らず、先帝の子という身分だけで、官位も職階も一切与えられなかった。  新帝が全員を集めたのは、新しい帝に変らぬ忠誠を誓わせるためだった。 「今より以後、君は二つの政《まつりごと》なく、臣は帝に二心《ふたごころ》なし」  南淵請安が起草した誓文が、中大兄によって高らかに読み上げられた。 「もし、この誓いに背かば、天災《あめわざわい》し、地妖《つちわざわい》し、鬼誅《おにわざわい》し、人|伐《う》たん——」  群臣は神妙な顔をして、この誓文に唱和した。  中大兄の表情には、すべてを思い通りに成就させた自信が感じられた。  しかし、中で一人鎌子だけは浮かない顔をしていた。 (漢殿を除《の》け者にして、この先うまくいくのだろうか)  強い日差しが、欅の枝を通して、こぼれていた。      六  皇太子中大兄は権力の頂点をきわめて、初めてそこが居心地の悪い場所だと気が付いた。  気が休まらない。夜に何度となく夢を見る。その夢はこのところ決っていた。  自分が、あの蘇我入鹿になっている。そして殺されるのである。  自分の腹に太い槍が突き通される。  そこのところで目が覚める。  槍を持っているのは、古人大兄皇子その人だった。 (殺さねば)  中大兄は、何度か同じ夢を見たあと、とうとう決意した。  こういう時に呼ぶのは、鎌子しかいない。 「皇子様、何の御用で」 「古人を——」  中大兄も、さすがに、すぐにそのことを口にすることはできなかった。 「古人大兄様を?」  鎌子も中大兄が何を言おうとしているか、咄嗟には見当がつかなかった。  勘のいい鎌子にしては珍しいことである。 「消しておきたいものだな」 「消す?」 「この世からな」  中大兄は言った。  鎌子は意外に思った。  古人大兄は吉野で仏道修行をしており、政治的には何の力もない。  その古人大兄を、どうして消さねばならないのか。  もちろん、口には出さない。だが、中大兄は鎌子が何を言いたいのか、見当はついた。 「——枕を高くして眠れぬからだ」 「なるほど。左様でございますか」  鎌子にも中大兄の不安はわからぬでもない。 「察せよ」  これ以上は言わぬ。中大兄は面倒なことは嫌いである。 「わかっております」  鎌子は深々と一礼した。 「では、ただちにかかれ」 「ただちに、というのは、いささか」  鎌子は軽く首を振ってみせた。 「なぜ」  中大兄は不満の色を見せた。 「それでは、暗殺《やみうち》になりまする」 「よいではないか。あの者にやらせればよい」  中大兄が言うのは、むろん漢殿のことである。中大兄は、漢殿の武術の技量だけは認めるようになっていた。 「皇子様、あなた様は権力《ちから》をお持ちです」 「権力?」 「はい、その権力を使わずに、ただ殺すのは勿体ないことでございます」 「わからぬな」  中大兄は率直に言った。 「天下の人民の賞罰の権は、皇子様の手にあります。誰であろうと、その罪を問うのは、皇子様でございます」 「罪とは古人の罪か?」 「はい」 「古人に何の罪がある?」  奇妙な成り行きだった。  古人大兄を殺そうとしている中大兄自身が、古人大兄に何の罪があると問うている。 「お作りなされませ」 「作る?」 「御意。罪さえあれば、それを討つのは、政《まつりごと》をつかさどる者として当然のこと。天地に恥じることなく、人もとやかく言いませぬ」 「では、どんな罪をかぶせる?」 「叛逆でございましょうな」 「叛逆?」 「叛逆の罪ならば、有無を言わせず、皆殺しにできまする」 「皆殺し?」  中大兄は青ざめて、 「子まで殺すというのか」 「やむを得ませぬな」  鎌子は非情に言い切った。なおも不審顔の中大兄に鎌子は、 「子を残すことは、恨みを残すこと。将来の禍根は今のうちに断っておくことでございましょう」 「——うむ」  中大兄はうなずいて、 「よきにはからえ」  と、一言命じて立ち上がった。 (やれやれ)  鎌子は疲労を感じていた。      七 「古人大兄様を——」  漢殿は、それでいいのかという目で、鎌子を見つめた。  鎌子はひるみを覚えたが、すぐに気を取り直して、 「左様でございます」  と、頭を下げた。 「殺せ、と言うのか?」  漢殿は念を押した。 「いえ、罰するのでございます」 「罰する? 古人大兄様にどんな罪が」  何もない——と口に出かかったが、鎌子はそうは言わなかった。 「叛逆の罪でございます」 「証拠はあるのか」 「——間もなく、吉備笠臣垂《きびのかさおみのたる》という者が、訴人致します」 「ほう、千里眼だな、先のことがわかるとは」  漢殿は皮肉をこめて言った。 「いささか」 「だが、国に対しての叛逆ということになれば、一族皆殺しだ」 「申される通りでございます」 「それを、このわたしにやれ、と言うのか」 「皇子様だけでよいのです。あとは、しかるべき者が始末をつけまする」 「しかるべき者か——」  漢殿は嘆息した。  古人大兄一家の悲惨な未来に、同情を禁じ得なかったのである。  鎌子は依頼が終ると帰って行った。  漢殿は戸棚から、白瑠璃《はくるり》製の瓶を取り出した。  瓶の中には紫色の酒が入っている。 「虫麻呂」  白瑠璃の杯の中に酒を注ぎながら、漢殿はつぶやくように言った。 「はい」  打てば響くように、床下から声があった。 「聞いておっただろうな」 「はい」 「ただちに吉野へ参る。そちは先行して、古人大兄様の身辺を探れ、邪魔する者がいないかどうか」 「かしこまりました」 「では、ただちに行け」  何かためらっているような気配がした。  珍しいことである。行けと言えば、すぐに火の中にでも飛び込むのが虫麻呂である。 「どうした」 「あの、御主人様、あの——」 「なんだ、早く言え」 「はい。古人大兄様はわたくしが——」 「ならぬ」  漢殿は言った。 「古人大兄様はわたしの手で討つ。それが兄君の命令だ。逆らうことは許されぬ」 「——」 「わかったら行け、わたしもすぐに後を追う」 「承知致しました」  虫麻呂は去った。      八  仕度を整えた漢殿は馬に乗ると、吉野の入口まで一気に駆けた。  飛鳥から吉野までは、馬なら半日で行ける。ただし、それは入口までで、吉野川をさかのぼって宮滝へ行くまでには、まだ、しばらくかかる。  芋峠という飛鳥を見下ろす峠がある。  その峠の途中に至ったところで、漢殿は馬をつないで、木陰の石の上に腰をおろした。  愛用の長槍は手元にある。  日はまだ高かった。  今年は少し暑い。  九月になっても、朝夕は肌の寒さを感じない。  一陣の風に、漢殿は心がなごむのを覚えた。  古人大兄をこの手で殺さねばならないことに、まだ相当のこだわりがあった。  兄は、古人大兄に罪があるという。ならば官人をさしむければいいではないか。  どうして、このようなことをしなければならないのか。 (兄君は、失敗《しくじり》を恐れているのかもしれぬ)  古人大兄が、東国へでも逃げてしまえば、大乱の原因にもなりかねない。  その時、漢殿の耳に女の悲鳴が聞こえた。 (何事か) 「助けてーっ」  今度は、はっきり聞こえた。  漢殿は、槍を手に立ち上がり、声の方へ走った。  少女が走ってきた。髪を振り乱し、裸足である。  それを、二人の荒くれ男が追いかけてきた。 「何をしておる」  漢殿は大喝した。  二人の男は、びくっとして立ち止まった。 「お助け下さいまし」  少女が袖にすがってきた。 「もう、恐れることはない」  漢殿は男どもをにらみつけた。 「この野郎、ふざけるな」  男どもは、山刀のようなものを抜いて、斬りかかってきた。 「くたばりやがれ」  そう叫んだ最初の男を漢殿は槍を振って弾き飛ばした。 「こ、この野郎」  もう一人の男を、漢殿は槍の石突で突いた。 「ぐえーっ」  男は白目をむいて悶絶した。 「まだ、やるのか」  漢殿は槍をつきつけた。  男は荒い息遣いで、 「おぼえていやがれ」  と、もう一人の男を助け起こして、ほうほうの体《てい》で逃げて行った。 「ありがとうございました」  少女が礼を言った。  漢殿はそのとき少女を初めて直視した。  そして驚いた。 (何と、美しい)  まるで、野の白百合のような、清らかで目鼻立ちの整った少女であった。  漢殿は一瞬、我を忘れて少女の顔に見入った。 「あの——」  少女は伏し目がちに言った。 「——?」 「わたくしの顔に何かついていますでしょうか」 「——いや、何もついてはおらぬが。なぜだ?」  漢殿の問いに、少女は顔を赤くして、 「そんなに御覧にならないで下さい」 「いや、じろじろとなど見てはおらぬが」  今度は漢殿が赤面し、あわてて、ごまかすように、 「それにしても、そなた、か弱い女性《によしよう》の身で、こんな山の中へ一人で来てはならんな」  と、言った。  少女は顔を上げて、 「薬草を探していました」 「薬草?」 「はい、父が病いに倒れているのです」 「病い? どんな病いだ」 「あなた様は医術《くすし》の心得がおありですか」 「ある」  そんなに自信はなかったが、漢殿はきっぱりと言った。  少女の顔は、ぱっと輝いた。 「お願いでございます」  少女は漢殿の腕にすがった。 「——父を診《み》ては下さりませぬか。お願いでございます」 「よいとも」  漢殿は大きくうなずいた。      九  少女の家は、家というより邸《やしき》であった。  漢殿は、まずその意外な大きさに驚かされた。 (これは、かなりの身分の人の邸だ)  家の造作、門構えは、それを示していた。  にもかかわらず、近付いてみると、屋根や壁のあちこちが崩れていた。  人もいない。これだけの邸ならば、当然使用人が何人かいるはずだ。それなのに、少女を馬の鞍《くら》に乗せた漢殿が門前にたどりついても、誰も迎えに出て来ない。  漢殿は少女を馬から降ろして、邸内に入った。 「——母が亡くなり、父も病いに倒れてからは、召使が一人また一人と減ってしまいました」 「お父上の名は、何といわれる」 「——お聞き下さいますな」  少女は言った。 「父も、このような姿をお見せしたくはないはず」 「そうか、いや失礼した」 「いいえ、名を聞かれるのは当然ですもの」  少女の父は奥まった寝所にいた。  寝台の上に寝ているのは五十がらみの貴人だった。  病み疲れて、顔は不気味なほど青黒かった。 (これは——)  一目見て、漢殿はいけないと思った。 「いかがでしょうか」 「そうだな」  漢殿は病人の皮膚を押してみた。  弾力がなく、指の痕がいつまでも残る。 (腎《じん》の臓か、それとも肝の臓か、どちらにしても相当悪い。あまり長くは保《も》つまい)  しかし、そのことをいきなり口にするのは、はばかられた。漢殿は安請け合いをしたのを後悔した。 「——悪いのですね」 「いや、ただ、養生は相当長くせぬとな。病人の世話をする方はおられるのか」 「わたくしの乳母《うば》と、そのつれあいが。——いまでは、この二人だけになってしまいました」  少女は悲しげに目を伏せた。 「親族の方は?」 「父は、人付き合いが苦手で、親族の方々とは疎遠になっております」 「そうか」  漢殿は先に立って寝所を出た。少女も後に続いた。  別間に入ると、漢殿は、 「申しわけないが、わたしはこれから用事がある。行かねばならぬのだが、あとで薬を届けさせる」 「ありがとうございました」  少女は頭を下げた。 「もう、薬草を採りに山へ入ったりはせぬことだ」 「はい」  それだけで帰るつもりだったが、漢殿は出がけに、つい振り返って言った。 「——今度来る時は、そなたの名を聞く」 「まあ」  少女は顔を真っ赤にして、うつむいた。  名を聞く、それは無論求婚を意味する。      十  峠まで戻ると、虫麻呂がどこからともなく現われた。 「どうなさったのです、心配致しましたぞ」  珍しく、なじるような響きがあった。 「すまん、よんどころない用事が出来てな」 「何か起こったのではないかと——」 「もう言うな。——それより、古人大兄様の様子はどうだった」 「はい、わずかな供を連れ、仏道修行に励まれております。討つのは極めて容易かと」 「仏道修行か——」  漢殿はつぶやくように言った。  その仏道修行に励む者を討たねばならない。 「行くぞ」  漢殿は馬に一鞭あてた。  虫麻呂は地を疾風のように走った。  吉野には夜に着く。 (早く片付けるか)  漢殿はそればかりを考えていた。  吉野の宮滝の奥に、古人大兄の仮住いがあった。  見張りの者など一人もいない。 「こちらです」  虫麻呂は、まるで自分の庭を案内するように、漢殿を導いた。  母屋から離れたところに、小さなお堂があった。  息をひそめて近付き、窓の中をのぞくと、青々と頭を刈りたてた僧が、仏像を拝んでいた。  つぶやくような読経の声がした。  古人大兄である。  漢殿はまた嫌になった。  この男はもう無害だ。しかし、やらねばならぬ。 「見張っていろ」  漢殿は虫麻呂に命じると、堂内に入った。  人の気配に気付いた古人大兄は振り返った。そして、漢殿に気が付くと、顔を蒼白にして後ずさりした。 「ひいーっ」  悲鳴があがった。 「お命を頂きます」  心の中にある後ろめたさが、その言葉を言わせた。  しかし、それは余計なことであった。 「助けてくれ。頼む」  古人大兄は合掌して、哀願した。 「だめだ」  無言で刺してしまえばよかったのである。  命を助けることなど有り得ないのだから。  なまじ言葉を交したために、心のひるみを漢殿は覚えた。 「助けてくれ、助けてくれ」  古人大兄は四つんばいになって、仏の側へ逃れようとした。 (ええい、仕方がない)  漢殿は槍を振りかぶるようにして、古人大兄の背中を刺した。 「ぐえーっ」  獣じみた叫びがあがった。 「わしは何もしておらぬ。わしは何も——」  古人大兄は叫んだ。  漢殿は槍を引き抜いた。 「痛い、痛い、早く医者を。助けてくれ、助けてくれ、助けてくれ」  血の海の中で、古人大兄はのたうち回った。  みっともない、とは露も思わない。  古人大兄には罪はない。  罪なくして殺される者の無念はいかばかりか。 (許されよ)  漢殿は古人大兄を追い、その胸にとどめの一撃を加えた。  古人大兄は、憎しみの目を見せたあと、絶息した。  なまじ恨みの視線を向けられたのが気楽だった。 「入ってはならぬ!」  虫麻呂の声がした。  堂の扉を開けてみると、古人大兄の妃がいた。  その顔が悲痛にゆがんだ。 「あなた」  堂内に駆け込もうとした妃を虫麻呂が止めようとした。 「行かせてやれ」  漢殿が言った。  妃が虫麻呂の手を振りほどくようにして堂内に入り、古人大兄の体にとりすがった。  漢殿はその姿から目をそむけるようにして、外へ出た。  号泣が聞こえた。      十一  中大兄は、古人大兄の死を確認すると、ただちに官兵をさし向け、一族を皆殺しにした。 (これで枕を高くして眠れる)  中大兄は一安心した。  しかし、まだまだやらねばならぬことがある。 「この際、遷都したらどうかと思う」  それを言い出したのは、鎌子ではなく中大兄の方だった。 「遷都でございますか」  鎌子は、初め難色を示した。 「そうだ。人心一新のため、これに優《まさ》るものはない」  女帝からその弟の皇子に、皇位は譲り渡された。  譲位である。  この国にはかつてなかったことだった。  前は、先帝が崩御しない限り、代替りということはなかった。  また、新しい帝が立てば、すぐに遷都をした。先帝の死で汚れた都を捨てて、文字通り人心一新のため、都を換えていたのだ。  今度は初めてのことながら、譲位という形で新帝が立った。  ならば、それに合わせて都も遷すべきだというのが、中大兄の考えであった。  それに対して、鎌子は実のところ遷都には反対だった。  今は、新政を徹底すべき時である。  何事も金がいる。  遷都には膨大な費用がかかる。  何しろ宮殿も官衙《かんが》も、すべて新しく建て替えなければならない。  その一方で、今までの建物は全部捨てることになる。  移築するものもないではないが、移築も新築も、手間としてはそんなに変わらない。  民力も疲弊する。  都の移転に合わせて、民の多くも住居を移すからだ。しかも自弁である。  むしろ民力の休養をすべき時なのに、遷都とはいただけない。  だが、中大兄は頑強だった。 「皇子様、では一体どこへ都を遷そうとおっしゃるのです」  鎌子はたずねた。 「難波《なにわ》だ」 「難波でございますか」  難波は聖徳太子の建立した四天王寺もあり、まったくの未開地ではない。  いやむしろ、外交使節は難波に上陸して飛鳥を目指すのであるから、むしろ都に準じる市《まち》といってもいい。  しかし、官衙はない。  鎌子はそのことを言った。  新たな官衙を造るには、膨大な費用がかかることを。 「金? よいではないか。政《まつりごと》なのだ。政には費用を惜しんではなるまい」 「それはそうではございますが、金は地から湧き出てくるものではございません」  鎌子は説明しているうちに、あらためて思い知らされた。  中大兄は財政ということを知らない。  国の金には限りがあり、その金を上手に使っていかねばならないこと、そのうえで収入を増やす道を講じなければならないこと、それが政治である。 (皇子様として、何不自由なくお育ちになり、質素とか倹約とかいうことを御存じないのだ)  この皇子にとっては、官衙もおもちゃなのだ、ということに、鎌子は気付いた。  おもちゃはあきれば捨てることになる。  それだけのことだ。 「鎌子、遷都だけは何としてもやるぞ。工夫してくれい」  結局、この件は中大兄が鎌子を押し切る形になった。  意外なことに、新帝もその一件には賛成した。  どうやら、新しい帝として、前の帝の使った宮殿をそのまま使うのは、体面にかかわるという考え方のようだった。 (仕方ない)  鎌子は反対するのをあきらめた。 (だが、代替りのたびに遷都などというおろかしい習慣は一刻も早く改めねば)  その思いは強くした。  海の向うの唐では、そんなことはしていない。  むしろ永遠の都を作ろうという意気込みで、堅固な石造の建物を建て、皇帝が死んでも次の帝がそこに住む。  恒久的な建物であるからこそ何代も保《も》ち、何代も保つからこそ、替りの余分な費用は節約できる。  大きな富を持つ唐が節約をし、貧しい日本が浪費をする。  こんな不合理なことはない。  ほぼ一代ごとの遷都をはじめ、この国は不合理なことが多過ぎる。  それをなんとかしない限り、この国は大きくはなれない。強くもなれない。  鎌子は師の南淵請安をたずねた。  遷都はもはや動かしがたい。しかし、この改革にあたって、最も効果があり、最も初めになすべきことは何か。それを知りたいと思ったのである。  請安は、相変らず物静かに、さまざまなことを研究している。新体制では、僧|旻《みん》と高向玄理《たかむこのくろまろ》が国博士に任じられ、請安は引退していたが、政府の顧問格というべき立場にある。 「前途多難じゃのう。苦労が絶えぬことだ」  話を聞いた請安は、おもむろに口を開いた。 「おそれいります」  鎌子は頭を下げて、 「まずは、この国をよりよいものにするために、何をなすべきか、お教え下さいませ」 「そなたにはもう教えてある」 「はっ?」 「よう思い出してみなされ。唐の国の政の仕組みを」 「はあ」  鎌子《かまこ》は首をひねった。 「根本のことは一つ、わかりませぬかな?」  請安は微笑を浮かべて言った。 「公地公民、これが唐の政の骨髄じゃ」 「公地公民」  鎌子は思わず鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。  請安はうなずいた。 「されど、左様なことができましょうか」 「唐では既になされておる。土地とはそもそも公けのもので、人一人が私《わたくし》すべきものではない」 「それは、仰せの通りかもしれませぬが」  鎌子は内心首を傾《かし》げていた。  大王家《おおきみのいえ》の権威は、まだそこまで達していない。  大王の立場は、この国の氏族の連合体の盟主ともいうべきものである。  各氏族はそれぞれ自分の領地と領民を持っている。大王家も固有の領地と領民を持っている。  いわば、この国は私地と私民の固まりであって、公民などというものは無い、公地も存在しない。  大王家ですら、大王家直属の私地私民を持っているだけで、公地公民という概念はない。 (とても無理だ)  と、鎌子は思った。  そのためには、まず各地の豪族に領地と領民を差し出させねばならぬ。それは有り金残らず巻き上げるようなものではないか。  豪族たちが黙っているはずはない。  下手をすると大反乱が起こる。 「まあ、待ちなさい。物事には順序というものがある」  請安はおだやかに言った。 「順序と申しますと」 「いきなり公地公民を成そうとしても無理なこと。まずは部曲《かきべ》と田荘《たどころ》を廃することとしてはどうかな」 「——?」  鎌子は、また首をひねった。  部曲は豪族の私民、田荘は豪族の私地——その両方を廃するとは、全部取り上げることに他ならないではないか。  請安は笑みを浮かべた。 「知恵が無いのう。まず、一度は部曲も田荘も大王家に納めさせる。その上で、食封《へひと》として与えればよい」 「では、名を改めるだけということになりませぬか」 「左様。だが、名を改めることこそ、改革の手始めと申すべきじゃ。何事も一朝一夕にはならぬ」  不服顔の鎌子に、請安は言ってきかせた。  田荘を廃すと言えば豪族たちは怒るに違いない。しかし、そこは説得の仕様があるだろう。田荘のかわりに食封を、部曲のかわりには布帛《きぬ》を与えると言えばよい。  豪族は自分たちの所有物を一時的に国に差し出す形になるが、すぐに同じ物を与えられたことになる。  いわば金と物の持ち数は減らないのである。  だが、それは今後、あくまで大王家から与えられたという形になる。  それが大切なことなのだ。 「それは、ただのごまかしではありませんか」  鎌子が言うと、請安は少しむっとした表情で、 「わからぬかのう。それが手始めなのじゃ。いまは名のみでも、子や孫の代になれば、当たり前になる。そこが肝心かなめのところじゃよ」 「なるほど」  鎌子は思わず膝を打った。  言われてみれば、その通りだ。  子の代に当たり前のことは、さらに変えられる。  本当の公地公民へ踏み込んでいけるのだ。 「先の長い話でございますな」  溜息をつく鎌子に、請安はおごそかに言った。 「それが政事《まつりごと》というものじゃ」      十二  帝は、即位して半年後の大化元年(六四五)十二月に、都を飛鳥《あすか》から難波《なにわ》に遷した。  改新の詔《みことのり》がただちに発布された。 「昔、大王《おおきみ》等の立て給《たま》える子代《こしろ》の民、処々の屯倉《みやけ》、及び、別《こと》には臣《おみ》・連《むらじ》・伴造《とものみやつこ》・国造《くにのみやつこ》・村首《むらのおびと》の所有《たもて》る部曲の民、処々の田荘を罷《や》めよ。仍《よ》りて食封を大夫より以上《かみつかた》に賜ふこと。各差《おのおのしな》有らん。降《くだ》りて布帛を以《も》て、官人・百姓に賜ふこと、差有らむ」  詔の冒頭の部分である。  帝はそれに目を通した時、さすがに不安になって言った。 「皇太子《ひつぎのみこ》よ、これで大丈夫か」 「はい」  中大兄は声をひそめて、 「何事か、騒ぎ出す輩《やから》があるかもしれませぬが、わたくしが押さえます。どうぞ、お気遣いなく」 「そうか」  帝は不承不承うなずいた。  大王家の権力強化につながるということは、帝にもわかっている。  だが、豪族たちの反感が心配なのだ。  中大兄は宮中への参内を済ますと、帝の后の殿舎を訪ねた。 「これは、お后さまにはお変りもなく」  中大兄は一礼した。  間人《はしひと》の后は、硬い表情でそれを見ていたが、一拍置いて周囲の女官に命じた。 「下がっていなさい」  女官たちは去った。  あたりに人の気配がないのを確かめると、硬直した間人の表情が崩れた。 「兄様」  それは、妹が兄を呼ぶ声ではなかった。 「間人」  中大兄も立って、その名を呼んだ。  帝妃《おおきさき》の名を口にするなど、いかに皇太子でも許されないことだ。  しかし、中大兄はそれをした。  どちらからともなく、二人は抱き合った。 「ああ、どうしてもっと早く来て下さらなかったのです」  間人は涙声で訴えた。  中大兄は、ほつれた間人の髪をかき上げながら、優しく言った。 「許せ。政務に多忙でな」 「うそ」  間人は、にらんで、 「わかっています。他の女が出来たのでしょう。また石川麻呂の娘ですか、それとも——」 「馬鹿なことを言うな」  中大兄は怒らず、辛抱強く、 「遷都もあった。改新の詔も出さねばならなかった。忙しかったのだ。それに——」 「それに?」 「帝妃のところなど、滅多に来られるものではない。見つかったら首が飛ぶ」  まさか首をはねられるようなことにはなるまいが、皇太子の地位はまちがいなく失うことになるだろう。  いま、この瞬間は、中大兄にとって暗殺者の接近よりも危険な時間かもしれないのだ。 「あら、そんなことはお気遣いなく」  間人は笑って、 「ここには誰も近付かせませぬ」 「だが、あの者共も、何かおかしいと思っているのではないか」 「樟葉《くずは》らのことですか」  間人は女官の名を言った。 「そうだ」  中大兄が重々しくうなずくと、間人はさらにころころと笑った。  中大兄は気分を害した。 「何がおかしい」 「だって、兄様。樟葉はとっくにこのことを知っていますのよ」 「何だと」  中大兄は青ざめた。  間人は、そんなことには無頓着で、 「兄様は、樟葉には気付かれていないと思ってらしたの」  間人は、兄の中大兄に意外に抜けたところがあると、あらためて思った。  中大兄は、声まで震わして、問い詰めた。 「心配ないのだな」 「ありませんわ。樟葉は、わたくしの娘の頃からの付き人ですもの。万事心得ています」 「それにしても、もし帝に、このことが知れたら」 「もし、そうなったら、古《いにしえ》の軽太子《かるのたいし》と衣通姫《そとおりひめ》のように、地の果てで暮せばよろしいではございませんか」  間人は事もなげに言った。  中大兄は言葉を失った。  そんな伝説がある。  衣通姫は、美しさが衣を通して光り輝くような絶世の美女だった。その妹を愛した軽太子は、その罪ゆえに皇太子の地位を失い、二人して南海の果てに追放された。  妹はそれでもいい、と言う。  しかし、そんなことは、中大兄は露も考えていない。 「愚かなことを言うでない」 「愚かなことでしょうか」  そう言って中大兄を見上げる間人の瞳に、抗議の色があった。 「后の座を失ってもよいのか」 「かまいませぬ」  きっぱりと間人は答えた。 「待て、そんなことを考えてはならぬ」 「なりませぬか」 「ならん。それよりも、わしのことを考えてくれ」 「兄様のことを?」 「そうだ。わしがこの国を本当に自分のものにするまで、そなたには陰から支えてもらわねばならぬ」 「——」 「たとえば、今度の詔だ。帝は今一つ腰が座っておらぬ。陰から励ましてはくれぬか。これを断行することは、この国のためでもあり、わしのためでもあるのだ」 「——ずるい、兄様」  うつむいて、つぶやくように間人は言った。 「そうかもしれぬ。政事とは、ずるいということだ」 「でも、兄様。あの詔は下々に評判がよくないと聞いておりまする」 「ほう、そなたの耳にも入っておるか」 「あのようなものを続けてゆけば、大王家の威信がゆらぐことになりませぬか」 「かまわぬ。ゆらぐがよい」 「——?」 「ゆらぐのは、今の帝の威信じゃ。今の帝の威信がゆらげば、次の新たな帝を待望する声が起こる。——わかるな」 「兄様は恐ろしい方」  間人はあきれたように言った。 「言ったではないか。それが政事というものだ」  中大兄は今度は余裕を見せて言った。      十三  少女の父が死んだ。  予期されたことではあった。  漢殿は、百済人の医者を呼び、病人を診《み》させた。  診断の結果も、やはり死病であった。  鏡王《かがみのおう》、それが少女の父の名だった。  王は皇族である。  大王の三世から五世の孫を言う。  しかし、漢殿がいくら聞いても、鏡王は自分の系譜を明かさなかった。 「よいのだ。わしは、ただの雑人として死んで行く」  病み疲れた顔には生気が無かった。 「お気の弱いことを」  漢殿は元気づけた。  鏡王は首を振って、 「わが死ぬる時ぐらいは、わかるものだな。それより、娘のことを頼みましたぞ」 「——わたしは身分の低い者です」 「そんなことはかまわぬ。人間、身分ではない。その証拠に、わしは今、家来の一人もなく死のうとしておるのに、そなたは溌剌と生気にあふれておる」 「——」  漢殿は言葉を失って、鏡王を見つめた。 「わしは観相もする。そなたには、高貴の相がある。あるいは、この国を大きく動かすことになるかもしれんのう」 「御冗談を」 「冗談ではない。死に行く者には、この世がよく見えるのでな。——頼みましたぞ」  そう言って鏡王は目を閉じ、そのまま意識を回復することなく逝った。  漢殿は、館から人を呼び寄せ、屋敷の裏山に塚を作って、鏡王の遺体を葬った。  少女は目を真っ赤に泣きはらしていた。 「人はいずれ死ぬ」  漢殿は少女の両肩に手を置いて、 「それゆえ、人は誰もが、きょうという日を、心をこめて生きねばならぬ」 「——はい」  少女はうなずいて、漢殿の目を見た。 「そなたの名は」  漢殿は名を聞いた。  名を聞くことは、求婚を意味する。 「額田《ぬかた》でございます」  顔を赤らめながらも、少女は、はっきりと答えた。 「そうか、よい名だ。きょうから、わが館に住むがいい」  漢殿も額田の目を見て言った。 [#改ページ]   第六章 新政の嵐      一  五年の歳月が流れた。  難波朝は、改新の詔に沿って、土地制度・官僚制度の改革を次々と実施した。  たとえば、これまでの冠位十二階制を、七色十三階制にあらためた。  最高位が大織冠《たいしよくかん》であり、以下、小織、大繍、小繍、大紫——と続く。  だが、困ったことに、政権の中枢を占める左大臣阿倍内麻呂と右大臣蘇我倉山田石川麻呂が、この新しい身分制による冠をせず、古い冠しか着用しようとしなかった。  帝は、中大兄とも相談のうえ、まず阿倍内麻呂を呼んで、その真意を問いただした。  内麻呂はここぞとばかりに答えた。 「何事も急激な改革は、人々の反感を招くばかりでございます。なにとぞ帝におかせられては、御賢察下さいますよう」 「それは違う。改革とは必要があるからこそするのだ。むしろ、わが言葉に従ってもらいたい」  帝は答えた。 「人々の不満はつのるばかりでございます」  内麻呂は屈しない。 「つのるばかりと言うが、あくまで古き冠にこだわるのは、そなたと石川麻呂だけではないか」 「それは違います。百官すべてが不満を抱いております」 「おかしいではないか」  と、傍から中大兄が言った。  内麻呂は中大兄を見た。  中大兄はすかさず、 「もし、そうなら、なぜ他の者共も冠をそのままにせぬ。冠を代えぬのは左右両大臣だけだ」 「仰せのごとく」  と、内麻呂は軽く一礼して、 「初めは、皆の者も冠を改めぬと申したのでございます。しかし、百官すべてが帝のお言葉を聞かぬとあらば、朝廷の権威がなくなり申す。それゆえ、談合の上で右大臣どのとわたくしが、このようにしたのでございます」 (内麻呂め、考えたな)  中大兄は内心舌打ちをした。  もし、もっと下級の者が冠を改めぬなら、話は簡単だ。その者を、徹底的に厳しく罰し、全員を震え上がらせ、一罰百戒の効果を期待することが出来る。  しかし、左右両大臣では、うかつに罰することは出来ない。  そんなことをしては政権の根底がゆらぐことになる。 「なにとぞ、御再考下さりますよう、お願い申し上げます」  内麻呂は不敵な台詞を残して、その場を去ろうとした。 「待て、左大臣」  中大兄が声をかけた。 「何でございましょう」 「気をつけろ。この国で帝に叛逆する者に、明日はない」 「叛逆と仰せられるか」  内麻呂はさすがに顔色を変えた。  叛逆罪となれば、本人はもちろん一族皆殺しである。  帝の顔色も変った。 「——いや、もののたとえとして、申したのだ。行くがよい」  内麻呂は憤然として去った。  帝は中大兄を見て、 「言い過ぎではないのか」 「お任せあれ」  中大兄は自信ありげに答えた。 「——この改革はきっと成功させてみせまする」      二  漢殿と額田王《ぬかたのおおきみ》の間に、娘が生まれた。  名を十市《とおち》とつけた。  額田は、子を生んでから、さらに美しくなった。  漢殿は、この母娘と一緒に過ごしている時が、何よりもうれしい。  額田には歌の才能もあった。 「そなたの歌は、何というか、人の心の真実《まこと》を写しているような」 「それは、買いかぶりというもの」  額田は、寝台に寝ている嬰児《あかご》を見て、微笑しながら言った。 「そうかな」  漢殿は満足していた。  ここ数年は、何事もない平穏の日々だ。  兄の中大兄も、自分の存在を無視している。  しかし、それでいいのだ。  兄が、自分を役立てようとすると、ろくなことはない。  だから、漢殿は難波の宮にも館を移さず、こうして飛鳥の地にとどまっている。  だが、その平穏は次の瞬間破られた。  騒がしい物音がした。  馬のいななきもする。 「こんな夜更けに誰かな」  不吉な予感がした。 「皇太子《ひつぎのみこ》様がお見えです」  召使があわてて伝えに来た。 「兄君が——」  中大兄は案内も乞わずに、ずかずかと館の中に入って来た。 「久しいな」  中大兄はそう言って、額田の方を見た。  その表情に驚きが走り、ついで、ほころんだ。 「ほう、これは妻女か、なかなかの美形だな」 「恐れ入ります」  漢殿は頭を下げた。 「これほどの美女を隠しているとは、いやはや隅に置けぬやつよ」  中大兄はそう言って、額田を遠慮なく見た。  額田は恥じ入るように目を伏せた。 「ときに、何か急ぎの御用件でございますか」  漢殿は、中大兄の注意をそらしたいがために、言った。  中大兄は真顔に戻って、 「そうだ。内密の話がある」 「では」  漢殿は目くばせをした。  額田は嬰児を抱いて別間に去った。  中大兄は漢殿と向かい合わせに座った。 「そちの目は来ておるか」 「は?」 「虫麻呂よ。あやつは控えておるのか」 「は、おそらく近くにいるものと」 「虫麻呂、聞こえたら、返事せい」  中大兄は少し大きな声を出した。 「——お足許におりまする」  床下から声がした。  中大兄はぎょっとして、足を少し引きながら、無理に笑いを浮かべた。 「相変らずだな。では、話を聞け」 「かしこまりましてございます」  中大兄は漢殿に言った。 「左大臣阿倍内麻呂を始末してもらいたい」  そこらの物をどけてくれと言うほどの、何気ない口調である。  漢殿は驚いて、 「始末と申されますと、殺すので?」 「無論だ」 「何故でございます」 「理由《わけ》を話さねばいかんのか」 「ただの庶人ならいざ知らず、左大臣ともなりますれば、理由をおうかがいせねば」  中大兄は漢殿をにらみつけるように言った。 「見せしめのためだ」 「見せしめ?」 「そうだ。かの者は、人臣第一等の身分でありながら、帝のお言葉に従わぬ。これではしめし[#「しめし」に傍点]がつかぬ」 「罰すればよろしいではございませぬか」 「それゆえ、そなたに頼んでいる」 「しかし——」  漢殿は反発して言った。  それでは暗殺になる。  公権力者のやることではない。権力者は権力者らしく、公けの力を振るえばよいのではないか。 「それができるなら苦労はせぬ」  中大兄はうめくように、 「今、左大臣を公けに罰すれば、朝廷は動かなくなる。根が深いのだ、この騒ぎは」 「それで、殺すのでございますか」 「そうだ。逆らう者は命長らえぬ。これこそ、国を保つ道」 「請安《しようあん》先生は、そのように申されたのですか」  漢殿は思わず言った。  南淵請安は既に亡い。後任の国博士には高向玄理《たかむこのくろまろ》が就いている。だが、請安の教え、時に徳を以て世の中を治めるという徳治主義は、中大兄の胸に刻まれているはずだ。 「先生に教えを受けたこともないくせに、生意気なことを言うな」  中大兄が怒鳴った。  漢殿は頭を下げて、 「申しわけございませんでした」  と、ただちに謝った。 「それでよい。左大臣を討つこともよいな」 「それは——」 「聞けぬと申すのか」 「一族皆殺しでございますか」  おそるおそる漢殿はそれを聞いた。  古人大兄殺しの時の後味の悪さは、今も残っている。  ときどき夢に見るほどだ。  血だらけで許しを乞う古人大兄、憎しみに燃えた古人大兄の妻の眼——あんな思いは二度としたくない。 「今度は、左大臣だけでよい」 「まことに?」 「そうだ。女子供には手はつけぬ。阿倍の家はそのままに残す」  漢殿は思わずうなずいていた。 「よいな。騒ぎにならぬように。だが、家人には殺されたとわかるようにせよ」  中大兄は平然と難題を押しつけた。      三 (仕方あるまい)  漢殿は自慢の槍を磨いていた。  この槍が血を吸うのは、五年ぶりのことになる。  虫麻呂の気配が床下からした。 「どうだ、左大臣家は」 「あれなら、何の苦労もいりませぬ。忍び込むことはたやすいことでございます」 「そうか」 「でも、御主人様——」 「何だ、何か言いたいことがあるのか?」 「いえ」  虫麻呂は否定したが、何を言いたいのか漢殿にはわかっていた。  兄の道具になるな、ということだろう。  しかし、断わってどうなるのか。  相手は次の大王なのである。 (逆らった時、兄君より恐ろしい人はいない)  本当は年下の中大兄に、漢殿はときどき深い恐怖を感じる。若いが、中大兄ほど恐ろしい人間は、この国にはいないかもしれない。 「行くぞ」  漢殿は虫麻呂に言った。  これから難波の都へ行き、仕事を済ませて帰ってくれば、夜明けになるだろう。やりたくはないが、やる以上は一刻も早く終わらせたかった。  兄が去った夜、すぐに虫麻呂を左大臣家に送った。様子を探るためだ。  その虫麻呂が戻ってきて、まだ半日しかたっていない。  家族は先に休ませた。漢殿は忍び足で外へ出た。馬は、虫麻呂が少し離れたところにつないだ。  漢殿は槍を片手に忍び足で歩いた。  妻や子には知られたくない。  仕事は手早く済ましてしまおう。そして、一刻も早く帰ってくるのだ。  そうするより他にないではないか。  漢殿は、ふと前方に人の気配を感じた。 (何者)  まさか左大臣家の手が回ったわけではないだろうに。  漢殿は、槍を手に身構えた。 「そこにいるのは誰だ」  星明かりが少しあった。  相手に殺気はない。  夜目に輪郭がはっきり見えた。  女の形である。 「あなた、どこへ参られるのです?」  額田の声だった。 (どうして、こんなところに)  漢殿は当惑を隠し切れなかった。  漢殿は黙っていた。  答えようがない。  どうして愛する妻に、これから左大臣を殺しに行くのだと言えようか。  額田は近付いて来た。  漢殿は槍をおろし、背後に隠すようにした。 「どちらへ?」  額田は、再び問うた。 「——兄君、いや、皇太子様の御用でな」  漢殿は、できるだけおだやかな態度を見せようと努力した。 「どんな御用です?」 「そなたは知らなくともよい」 「——」  額田の視線は槍に注がれていた。  漢殿は心のひるみを覚えた。  だが、行かねばならない。 「夜は冷える。邸の中に入っておれ」 「いつ、お戻りになります?」 「わからん。が、できるだけ早く戻る」  それは本心である。 「お気をつけて、行かれませ」  額田は深く頭を下げた。 「うむ」  漢殿は、うしろめたい思いを隠して、その場を去った。  左大臣家には、警戒らしい警戒はなかった。  漢殿は虫麻呂と共に、やすやすと侵入した。  寝台のところで、すやすやと寝入っている阿倍左大臣の頬《ほほ》を、漢殿は槍の穂先で軽く突いた。 「——う、何者?」  左大臣は目をさまし、驚いて言った。 「ごめん、お命を頂く」  漢殿は、槍をいったん引いて、そのまま、ずぶりと胸に突き込んだ。  悲鳴を上げて、左大臣は突っ伏した。 「行くぞ」  漢殿は虫麻呂に声をかけて走り、塀を乗り越えると、邸内を振りかえった。 「——?」  虫麻呂は、不思議そうな顔をした。  もう用済みではないのか。  一刻も早く引き上げるべきだ。  漢殿は、夜目にも、少し笑ったように見えた。 「邸内の皆様方に申し上げる」  漢殿が大音声を張り上げたので、虫麻呂は度肝を抜かれた。 「ただいま、左大臣殿を討ち果たしたのは、帝の御内意である。帝は、騒ぎさえ起こさねば阿倍の家はそのまま残すと思し召されておる。くれぐれも騒がぬことだ」  そう言い捨てて、漢殿は、もう走り始めていた。  虫麻呂はあわてて後を追った。 「聞こえたかな」  馬に乗った時、漢殿は、つぶやくように言った。 「驚きました」  虫麻呂は、馬上の主人を見上げて言った。 「なに、他に方法がなかったのだ」  さらりと言う漢殿に、虫麻呂はあらためてこの人についていこうと思った。      四  翌朝、左大臣家では、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂に急使を出した。  左大臣阿倍内麻呂の死と、その善後策について相談するためだ。  石川麻呂は遺体と対面した。 「傷は?」  石川麻呂は家の者に問うた。  内麻呂の息子が答えた。 「鋭いもので、胸を一突きにされておりまする」 「胸を」  石川麻呂は、家人に断って胸の傷をあらためた。 「心の臓をただの一突きか」  石川麻呂には、下手人の見当がついた。  傷はおそらく槍でつけたものであろう。槍をこれだけ見事に操れる者など、そうざらにはいない。 (漢殿——)  他に考えようもなかった。  もちろん、漢殿が個人の思い立ちで行なったことではあるまい。 「曲者は確かに、帝の御内意じゃ、騒ぐなと申したのであるな?」  石川麻呂はその点を確かめた。 「はい」  息子はうなずいて口惜し涙を流し、 「一体どういうことでございましょう。曲者の申したことは、本当なのでございましょうか」 「これから、わしは、急ぎ参内《さんだい》する。戻ってくるまで、このまま何もせず、待っていてくれまいか」 「——」 「よいな」  石川麻呂は急いで邸に戻ると、正装をした。  冠を手に取った時、ふと気が付いた。 (まさか、このためではあるまいな)  だとしたら、あまりにむご過きる。たかだか、冠を改める改めないのことで、いちいち殺されていては、命がいくつあっても足りない。 (とにかく、帝の真意をただすことだ)  石川麻呂は宮中に入った。  しかし、帝に会うことは出来なかった。まるで石川麻呂を待っていたかのように、宮門のところで中大兄皇子が現われたのである。 「これは、皇太子様」  石川麻呂は頭を下げた。 「右大臣殿、こんなに朝早う、どこへ行かれる?」  中大兄はさりげない口調で問うた。 「はっ、実は大事が出来《しゆつたい》致し、そのことをお知らせせねばと——」 「左大臣頓死のことか」  中大兄はまるで天気のことを語るかのように、 「ならば、とうの昔に御存じじゃ。左大臣は昨夜急な病いにて、頓死されたとか」 「——」 「まことにもって、悲しむべきことじゃ。これから朝廷《おかみ》のために、一層働いてもらわねばと思っていたに、病いのために死ぬとは、残念じゃのう」 (やはり——)  石川麻呂は確信した。  内麻呂はやはり帝の内意によって殺されたのだ。 (あるいは、皇太子の独断か——?)  いずれにせよ、帝に訴えたところで、無駄というものだった。騒ぎ立ててはためにならぬと、中大兄は言っているのだ。 「——もはや御存じでしたか、ではあらためてお知らせするほどのことは、ございませぬな」 「左様、まもなく左大臣家には勅使が派遣され、お言葉を下されることになろう。右大臣も左大臣家に行かれて、そのことを知らせたら、いかがかな」 「そう致しましょう」  石川麻呂は、心中の煮えくりかえる思いを押し殺して、頭を下げた。 「ああ、待て、右大臣」  その場を去ろうとする石川麻呂を、中大兄は呼びとめた。 「何か?」 「左大臣の不幸に、気が動転されたのであるな」 「は?」 「冠が違っておる。今後の参内には間違わぬようにされよ」  中大兄は低い声で言った。 「——かしこまりました」  石川麻呂はそう言わざるを得なかった。  内麻呂の葬儀をすべて終えて、石川麻呂はいったん難波の邸に戻り、しばし休息すると飛鳥へ出発した。  ここには、氏寺とするために建立した山田寺がある。  山田寺は、まだ造営中であった。  長男の興志《こごし》が迎え出た。 「父上、どうなされました?」  興志は、父の突然の来訪に驚いていた。 「しばらく金堂にこもる。誰も入れるな」  石川麻呂は理由も言わず仏殿に入った。 (今度の事件、皇太子の差し金に違いない)  仏像の温顔を見上げながら、石川麻呂はそれとは逆のことを思った。 (何と、むごい)  むご過ぎるではないか、たかが冠のことである。  その冠を改めぬために、内麻呂は殺されたのである。  このような過酷な体制に、今後も協力していくべきか。  石川麻呂が仏前で考えたいことは、それであった。  いっそのこと退隠してしまう手もあった。  中大兄には娘が嫁いでいる。  先に遠智娘《おちのいらつめ》が、そして最近は姪娘《めいのいらつめ》が、それぞれ女の子を産んでいる。  だから、公然と反旗をひるがえすつもりなどない。  しかし、左大臣があのように殺されたことについては、何らかの抗議の意志を示しておきたかった。  そうでもしなければ、殺された内麻呂が浮かばれない。  せっかく築き上げた地位を棒に振るのか、という思いはあった。  改新の一挙に、生命の危険を犯しつつ参加したからこそ、現在の地位がある。  しかも、左大臣の席が空いた以上、冠さえ新しいものに改めれば、その席に座ることができるのはまちがいない。  左大臣は、今の改新体制では人臣最高の職である。  男としては一度は就いてみたい。  それは氏族全体の繁栄にもつながる。  しかし、やめるべきだ。  石川麻呂はそう思った。      五  中大兄が一人の男を伴って急ぎ参内したのは、左大臣の死後七日のことだった。朝一番、帝は叩き起こされるかたちで、中大兄と会った。 「何事じゃ」  帝は露骨に不快そうな顔を見せた。 「一大事でございます」  中大兄は張りつめた表情で言った。 「一大事?」 「右大臣蘇我倉山田石川麻呂に謀反の企みありと、訴人がございました」 「何、むほん、じゃと」  帝は、眠気もいっぺんに覚める思いだった。 「ま、まことか」 「はい、確かでございます。これに控えおります者は、蘇我日向《そがのひむか》、かの石川麻呂の弟にございます。——これ、申し上げよ」  中大兄は日向に言った。  日向はかしこまって、 「兄石川麻呂は、いまの政事《まつりごと》に対して、かねてより不満を抱いておりましたが、先般、左大臣殿の頓死があり、それで畏れ多くも皇太子様の弑逆《しいぎやく》をはからんと思い立ったのでございます」 「何、皇太子を殺すとな」  帝は、まだ信じられなかった。 「弟が、かように兄のことを申し上げておるのでございます。謀反の事実はまぎれもないところ、ただちに討伐の兵を差し向けられますように」  中大兄は声を大にして言上した。 「待て待て、物事には順序というものがある」  帝はあわてて言った。 「何をなさると仰せられるので?」 「詰問使を出す」 「詰問使、これはまた悠長な」  中大兄は呆れたように、 「謀反を企てている者が、詰問使の問いに、左様でございます、謀反を企てておりますと、申すでしょうか」 「——」 「ただちに討伐の兵を」 「皇太子、石川麻呂はそなたの舅《しゆうと》にもあたるのだぞ」  帝の言葉に、中大兄は一瞬返す言葉を失った。 「とにかく、詰問使を出す。すべてはそれからだ」  帝は断を下した。  ただちに、石川麻呂の邸に、詰問使が派遣された。  石川麻呂は、右大臣辞任の決意を固めていた。そして身辺の整理をするために、難波の邸に戻っているところに、突然詰問使の訪問を受けた。  それは石川麻呂にとって、まったくの寝耳に水の驚きだった。 「まったく身に覚えのないことでござる」  詰問使の問いに、石川麻呂はそう言い切った。  無論、本心である。  叛逆など露ほども考えたことがない。  そんなことをすれば、一族全滅の運命が待つだけだ。 (そんなことをするはずがないではないか)  石川麻呂は、あまりのことに、反論する気力すら萎《な》えた。  子もいる、孫もいる。  中大兄のところに嫁いだ娘は、二人の孫を生んでいる。上の娘はもう一人をはらんでいる。臨月のはずだ。  生まれてくる子の運命を暗転させるようなことを、するはずがないではないか。 「すべては帝に申し上げる」  石川麻呂は言った。  中大兄はだめだ。  あの皇太子は人を疑い過ぎる。 (人を殺すことで権力《ちから》を得た者は、同じ形で奪われることを恐れるのかもしれぬ)  石川麻呂はふとそう思った。  詰問使は帰って報告した。 「すべて、朕《ちん》の前で、と申したか」  帝はうなずいて、 「ならば、急ぎ参内させよ、朕は待つ」 「なりませぬ」  横から中大兄がさえぎった。 「なぜか」  帝は心外そうに言った。 「石川麻呂が、それほど参内したがるのは、何か悪計あってのことと見ました」 「悪計——」 「そうです」 「では、どうする?」 「兵を差し向けるべしと考えます」 「待て、それはまだ早い」  帝は二回目の詰問使を差し向けた。 「包み隠さず申すがよい」  詰問使は高飛車に言った。  帝の内意を受けてのことだ。  ただ、詰問使は誤解していた。  帝はよく言い分を聞いて参れ、と命じたのである。必ずしも謀反人と決めつけているわけではない。  しかし、詰問使は頭からそう決めていた。  そもそも疑いがあるから、使者として派遣されたのだ、と思っている。  石川麻呂も誤解した。帝の真意がわからず、やはり疑われているのだと思った。 (もはや弁明はかなわぬか)  絶望の中で、石川麻呂は藁《わら》にもすがるような思いで言った。 「帝に拝謁したい」  詰問使は首を振った。 「申し上げることがあれば、今、述べられよ」 「——」  石川麻呂は沈黙した。  何を言っても駄目だと、観念したのである。 「いかが、された?」 「——帝に申し上げてくれ。右大臣は辞めて、山田へ引きこもりますとな」  石川麻呂は、かろうじて、それだけを言った。 「いよいよ、謀反のこと、まちがいなし」  詰問使の報告を聞いた中大兄は、勢い込んで言った。  帝は沈黙していた。  左大臣が死んで十日もたたぬのに、今度は右大臣を討伐せねばならぬ、とは、どうにも気が進まなかったのである。  中大兄は強引に帝を説得した。 「反乱は芽のうちにつみ取るというのが、古今の鉄則でございます。御決断を」 「止むを得ぬ」  帝はしぶしぶ断を下した。  中大兄は既に、宮廷の兵をいつでも出動出来るように整えていた。将は日向である。兵はただちに右大臣邸を囲んだ。  そこに石川麻呂がいないとわかると、軍勢は山田寺に向かい、そこも包囲した。  石川麻呂は金堂にこもっていた。 「父上、帝の兵が、この寺を囲んでおります」  興志は血走った目をしていた。  石川麻呂は仏前に合掌したまま動かない。 「理不尽でございます。われら兵をたばねて、かなわぬまでも戦いましょう」 「ならぬ」  石川麻呂は一言のもとにはねつけた。 「なぜですか」  興志はいきり立った。 「それでは、本当の叛逆になる」 「しかし、帝は父上のことを誤解なされておる」 「それゆえ、お疑いを晴らすためにも、さからってはならぬのだ」  石川麻呂は仏像に一礼すると、静かに立ち上がり、金堂の階《きざはし》のところへ出た。一族の者が集まっていた。 「皆の者、よく聞け」  石川麻呂は声を上げた。 「わしは帝より、あらぬ疑いを受けた。だが天地神明にかけて無実だ」  すすり泣きの声が聞こえた。 「だが、その疑いを晴らす術《すべ》はない。それゆえ、わしは自害する」  すすり泣きの声が一段と高まった。 「幾度、生まれ変わろうとも、君主《きみ》を怨むことはない」  それが石川麻呂の遺言になった。  石川麻呂は仏前で首をくくった。  妻や長男の興志など八人が後を追った。  しかし、中大兄は容赦しなかった。  兵士に命じて石川麻呂の遺体を取り出させると、その首をはね、体を斬り刻ませた。  さらに、連座として、一族の男十四人を斬殺し、女は絞殺した。  そのうえ十五人を流罪に処した。  都は、この苛烈な処置に、震え上がった。      六 「何故に、わが父をお討ちになったのです」  遠智娘は目を真っ赤に泣き腫《は》らして抗議した。 「謀反のたくらみがあったからだ」  中大兄は、そっぽを向くようにして、言った。 「うそ、父がそんなことを考えるはずがありませぬ」 「いつわりではない。その証拠に、日向が訴人した」 「日向の言葉など信じられませぬ」 「あの者は、そなたの叔父ではないか」 「父とは、生まれた母が違います。父も、あの者を嫌っておりました」 「——」 「日向は、父をねたんでいたのです。日向は、嘘を言ったに違いありません」 「黙れ、もう終わったのだ」  中大兄は怒鳴りつけ、一転して猫撫で声で、 「それより、腹の子を大切にせよ。もうすぐではないか」  と、言った。 「父を、父をお返し下さい」  泣き叫ぶ遠智娘の顔が、突然苦痛にゆがんだ。 「どうした?」  異変に気付いた中大兄はあわてて、遠智娘を抱き止めようとした。  遠智娘はそのまま床に崩れ落ちた。 「誰かある、誰か」  中大兄は叫んだ。  産気づいたのである。遠智娘は、そのまま奥に運ばれ、非常な難産の末に、男の子を産み落とした。  中大兄は喜んだ。  女の子はいるが、男の子は初めてだったからだ。  だが、遠智娘は死んだ。  産後の肥立ちもよくなく、それに父の死、兄弟の死という出来事が重なったからだろう。  しかも、さらに不幸が重なった。生まれてきた子供は、口をきくことができない身体だったのである。 「石川麻呂の祟りか——」  さすがに中大兄も肩を落とした。この国では中大兄をはじめとして皇族も庶民も、こういうことは死霊の祟りであると深く信じていた。  石川麻呂の財産はすべて国庫に没収されることになったが、その中で珍宝や重宝の類いにはすべて付箋がついていた。 「皇太子様のもの」  付箋にはそう書かれてあった。  それを知った中大兄は後悔し、訴人した日向を九州へ流すことにした。      七 (一体、兄君は、どうして石川麻呂まで殺したのか)  漢殿はそのことが、どうしても不可解であった。  石川麻呂が謀反を企てていたなどとは、到底信じられないことである。  石川麻呂は二人の娘を中大兄に嫁がせ、反抗する心などみじんもなかった。  それなのに、どうして殺したのか。 (日向の訴えを信じたのか)  いや、それも有り得ない。  もし、信じたとしたら、日向に対する処罰はもっと過酷なものだったはずだ。  つまり、朝廷は公式には、日向の訴えは讒言《ざんげん》だったという立場を取っている。だからこそ、日向を罰した。  石川麻呂の謀反が本当だったとすれば、朝廷はむしろ日向を重く賞しなければならない。  しかし、そうはしなかった。  それは、日向の訴えを讒言と認定したからだ。  だが、それならばそれで、日向をもっと厳しく罰するべきなのである。  日向の言葉によって、石川麻呂以下一族の者が何人も殺された。  その罪は大きく重い。  それを中大兄は、九州への流罪という、比較的ゆるやかな措置で済ませた。 (やはり、兄君は知っていた)  そう言わざるを得ない。  いや、ひょっとしたら、もっと恐ろしいことも考えられる。 (いや、まさか、いかに兄君とはいえ、そこまではすまい)  そう思いたかった。  石川麻呂をおとしいれるために、日向に偽りの訴えをさせる。  そして、それが真実ではないことを百も承知で、石川麻呂を討つ——そんなことをしたとは思いたくない。 「御主人様——」  虫麻呂の声がした。床下である。 「どうだった?」 「やはり御推察の通りでした」  虫麻呂は言った。 「そうか」  漢殿は暗澹たる思いにとらわれた。  そうだったのだ。  中大兄は日向を使って、石川麻呂をおとしいれたのである。 (何ということだ)  改革の理想は血にまみれた。  所詮、血で得られた成果は、より多くの血を流すことでしか守られないのか。 (兄君は血に飢えておいでになる)  漢殿はそれを痛切に感じた。  これから先、中大兄はまっしぐらに突き進み、邪魔する者は蹴散らさずにおかないだろう。 (しかし、これでいいのか、本当に)  漢殿は不安を打ち消すことができなかった。 [#改ページ]   第七章 吉凶転々      一  年号は白雉《はくち》と変っていた。  白い雉《きじ》が穴戸《あなと》の国で獲れたのである。  瑞鳥《ずいちよう》がこの世に出現することは、帝徳の証のはずだった。  しかし、帝は鬱々《うつうつ》として楽しまなかった。  何もかもうまくいかないような気がしていた。  政治も外交も、家庭内のことすら——。  特に頭が痛いのは、后との仲がうまくいっていないことだった。  あの若い間人《はしひと》の后は、心のどこかで自分を受け入れていないような気がする。  帝は彼女が好きなだけに、心はさらに痛むのである。  そして、外交の面でも、また不愉快なことが起こった。  新羅《しらぎ》である。  新たに使いを送ってきた新羅の使者の姿を見て、帝は腰を抜かさんばかりに驚いた。  これまでの、なじみ深い寛衣に比べて、使者たちが身につけていたのは、体にぴったりとした筒袖の奇妙な服である。 「使者に問う、その服装はいかなるわけか」  帝ばかりでなく中大兄も、群臣も奇妙に感じた。  あまりにも突然の変化である。 「これは大唐《だいとう》の服装にござります」  使者は平然として答えた。 「なに、唐」  帝は中大兄と顔を見合わせた。  唐が中原《ちゆうげん》を制してから三十年近くたっている。  その唐が統一の勢いを三韓にまで伸ばしていることは、情況としては知っていた。  三韓の中で最も北にあり、唐と国境を接する高句麗《こうくり》は、既に幾度か唐と戦っている。  新羅・百済《くだら》も、これは他人事ではなかった。  高句麗が倒されれば、次は自分の番である。  唐にどう対処するか、早く決めておかねばならぬ。 (屈伏したのだ)  中大兄は怒っていた。  三韓には三韓の、新羅には新羅の、先祖代々のゆかしい習慣がある。風俗がある。それを捨てて、大陸の風に改めるとは、何たることであろうか。  その予兆はないではなかった。  新羅は前々から、いちはやく、姓名を唐風に改めるということをやっていた。いわば三韓の中で最も唐寄りの外交姿勢を見せている国なのである。 「追い返しましょう」  中大兄は進言した。  さすがに帝も目を丸くした。 「よいのか?」  それでは断交になる。  唐と深い誼《よし》みを通じている新羅に、断固たる姿勢を示すことは、唐の不興を買うことにもなりかねない。 「よいのです。われらはさらに百済・高句麗と結束を固めるべきです。さもないと——」  中大兄は声をひそめて、 「唐は海を渡ってくるかもしれません」  と、言った。 「わかった」  帝は新羅の使者を追い返した。  鎌子《かまこ》は苦い表情でこれを見ていた。  新羅のことは確かに不愉快ではある。  民族の誇りを捨てて、服装も習慣も「敵」の国の風に改める。それどころか、名前までも最近は唐風だ。金《きん》とか朴《ぼく》とかいう漢字一字名である。  昔はこんなことはなかった。  三韓人の伝統的な姓は、「なかとみ」や「いしかわ」のように、この日本の国の伝統的な姓に極く近いものであった。 (それはそうだ、もとは同じなのだから)  鎌子は改めて思った。  しかし、その伝統を捨て、新羅人は急速に唐風化している。  不愉快には違いない。  しかし、追い返すというのは、どうだろうか。  外交のやり方としては、むしろまずいのではないか。  確かに新羅はいつ敵に回るかわからない。  まさかとは思うが、韓人の誇りを捨てて唐の手先となり、韓半島の侵略に乗り出す可能性もないとはいえない。 (さればこそ、あまり事を荒立てるのはよくない)  新羅は、そこまでは考えていないかもしれない。しかし、だからこそ、新羅を怒らせて、そういう考えを抱かせるように仕向けるべきではないのだ。  殴り合うのは最後でいい。それまでは微笑をもって事を荒立てぬのが外交というものではないのか。  新羅の使者は、さすがに怒りの色を浮かべたが、すぐにそれを押し殺すようにして、丁重に礼をして去った。  それを見て、鎌子はさらに自分の考えが正しいと確信した。 (皇太子《ひつぎのみこ》様に、御意見申し上げるべきか)  鎌子はそれを考えた。  しかし、結局はやめた。  この頃の中大兄は、何か近寄り難いのである。      二 「どうかなさいましたか?」  妻の声に漢殿《あやどの》はふと我に返った。  海の見える丘の上の邸宅であった。  このところは血腥い仕事もなく、漢殿は平穏な日々を送っている。  しかし、皇太子の「実弟」でありながら、公職には一切就いていなかった。  本当は年上の「弟」を、中大兄が煙たがっていることは、まちがいない。 「いや、帝が新羅の使いを追い返したということをな——」  漢殿は椅子に座ったまま、妻の額田《ぬかた》の方をかえりみて言った。 「考えていたのだ」 「新羅はお嫌いですか?」  額田は聞いた。 「いや、そうともいえぬ」  そう答えて漢殿は苦笑し、 「兄君はお嫌いだがな」  と、付け加えた。  額田は隣に座った。 「なぜでしょう。やはり、唐の風に変えた国だからでしょうか」 「それもある」  漢殿はうなずいた。 「——だが、それだけではない」 「——?」  額田はけげんな顔をした。 「兄君は、そもそも新羅が嫌いなのだ」 「なぜでございましょう」 「——」  漢殿はすぐには答えず、窓の外を見た。  広い海がどこまでも続いている。 「言っておかねばな」  そう言い、漢殿は妻の方へ視線を戻した。 「なぜ、わたしが兄君の弟でありながら、皇族としての待遇を受けられぬと思う」 「——」 「うすうす察しはついておろう。それはな、わが父が異国《とつくに》の人だからだ。それゆえ、母はこの国の天津日継《あまつひつぎ》でありながら、わたしはその一族に迎えられることもない」 「あなた様のお父上は何とおっしゃるのですか?」  額田は夫を正視して言った。 「知らぬ」  漢殿は首を振った。 「御存じない?」 「うむ、知らぬのだ。母上は御名も教えて下さらぬ。ただ、人伝てに聞いたところでは、新羅の国の王族らしい」 「王族?」 「そうだ。この国に使いに来て、母上と恋に落ちられた。それで生まれたのが、このわたしというわけだ」  額田は黙って聞いていた。  漢殿の方が拍子抜けしたように、 「驚かぬのか」 「いいえ」 「なぜ?」 「何かあるとは思っていましたから」  額田はそう言って、 「でも、あなた様はあなた様、誰の御子であろうと、どうでもいいのです」  と、付け加えた。 「そうか」  漢殿の顔から笑みがこぼれた。      三  中大兄は久し振りに、三輪山のふもとの余豊璋《よほうしよう》の館にいた。  以前、飛鳥に都があった頃は、頻繁に訪れていたものだが、難波に都が遷ってからは足が遠くなっていた。  しかし、ここは中大兄がくつろげる、数少ない場所の一つである。  中大兄には友人というものが、ほとんどいない。  この国で、帝に次ぐ地位にいるためであった。  幼い頃の友人も、この頃は会うことすらない。  その点、豊璋は何事も気楽に話せる相手だ。  百済の王族であるゆえに、身分のことは気にしなくて済む。しかも、日本育ちの豊璋には政治的野心というものが、まったくない。もっとも、この点については、中大兄はかえって物足らなさを覚えるほどだった。  祖国百済のことを考えるなら、飛鳥の地にとどまっているより、難波の新都に移って朝廷に足繁く出入りすべきだろう。 (それなら、もっと酒を汲み交すこともできようものを)  中大兄は思い切って、それを言ってみた。 「豊《ほう》どの、どうかな、都に土地を進ぜるゆえ、住まわれたらいかがか」  豊璋は微笑を浮かべて首を振った。 「いえ、わたくしはむしろ都でなくなった飛鳥の方が性に合っております。もともと人のにぎわうところは嫌いなのです」 「だが、それでは、この国へ来た意味があるまい」 「と仰《おお》せられますと?」  豊璋はけげんそうな顔をした。 「そなたは百済の大使だ。百済からの船も難波にやってくる。そのような者共とも交わりを深め、国の利益をはかるのが、お役目であろう」 「それはそうですが——」  と、豊璋ははにかんだような笑みを浮かべて、 「いいのです、もうそんなことは」 「いい?」  中大兄は不審気な顔をした。 「はい、わたくしにはむしろこの日本が祖国のようなもの。わたくしは百済のことはほとんど覚えておりませぬ。なじみのないところなのでございます」 「されど、父祖の国であろう」 「左様ではございますが、わたくしはその父祖に捨てられた者でございます」 「——」  中大兄は黙った。  確かに日本と百済両国の親善のためと言えば、聞こえはよいが、実際は人質として豊璋はこの国に送られてきた。それを「捨てられた」と解するのは、あながちまちがいでもない。 「わたくしはこの地で蜜蜂を飼っている方が、気楽でございます」 「王になりたいとは思わぬか」 「王などと、滅相もない。兄たちとは違いまする」 「兄上は何人おられたかな?」 「二人です。いや、もう少しおるかもしれぬ」  と、豊璋は笑った。  実際、王の妻は一人ではない。従って子供も沢山いる。 「いずこも同じだな」  中大兄は卓の上に置かれた酒に手を伸ばすと、ずばりと尋ねた。 「豊どのが王になることは、あるのか?」 「まさか」  豊璋は真顔で否定した。 「なればよいのにな。なれば、わしは応援するぞ」  中大兄は顔を赤くして言った。  少し酔っているのかもしれなかった。 「いま、王になりたいとは思いませぬ。いまの王は大変だ」 「唐か」 「はい、それに新羅も。おそらく父も、心の休まる時がないはずです」 「だろうな」  中大兄は杯をあおると、 「それにしても許せんのは新羅だ。唐の手先となるとは」 「仰せの通りです」 「そなたが王となって新羅を討てばよい。わしも兵を貸すぞ」 「おたわむれを」 「たわむれではない!」  中大兄の目は座っていた。 「いまのうちに、唐を牽制しておかねば、大変なことになる。あの国のやり口はわかっている。まず手先をつくり、その手先と敵を争わせる。そして争わせた後に、今度は手先を討つ。いつものことだ」 「まことに」 「さればこそ、そなたが王になれば、助けると言うておるのだ」 「ははは、お志はありがたく受けておきましょう」  豊璋は頭を下げた。 「われらは兄弟の国だからな」  中大兄は満足げにうなずいた。 (それにひきかえ、新羅のやり口はどうだ)  中大兄の憎しみは、当然新羅の血を引く者へも向けられている。  漢殿もその一人だ。 (いずれは斬るか)  このところ、そこまで考えることが多くなっている。そんな中大兄を現実に戻したのは、都からの急使だった。 「ただちに帰廷せよ、との帝のお言葉でございます」 「一体、何事だ?」  中大兄の問いに、使者は首を振った。 「存じませぬ。ただ、ただ、早く帰れとのお言葉にございまする」  使者は堅い表情で答えた。 「そうか」  中大兄には、さほどの大事とも思えなかった。 (帝にも困ったものだ)  とすら思っている。  中大兄は心の中では帝を侮っていた。  あくまで自分が即位するまでのつなぎ[#「つなぎ」に傍点]であり、妻を寝取られているとも知らない哀れな初老の男でもある。 (まあ、いい。とにかく、急げというのだから行ってやるか)  中大兄は豊璋に別れの言葉を言って、ただちに馬に乗った。  都への道を急いでいると、今度は通りの真ん中に若い男が現われ、平伏した。 「何者だ!?」  中大兄は刀の柄に手をかけて聞いた。  油断はできない。 「内臣《うちつおみ》様からの使者にございます」  顔を上げて若い男は言った。 「鎌子の?」  中大兄は首を傾げた。  鎌子が一体何用だと言うのだろう。 「これをお読み下さいませ」  男が懐中から書状を差し出した。  馬丁の豊人が受け取って、馬上の中大兄に渡した。  中大兄はそれを開いて一読し、真っ青になった。 「何事でございます」  豊人は、中大兄のあまりの表情の変化に、そう聞いた。 「——都へは、うかつに入れぬ」  中大兄はうめくように言った。 「——?」 「とにかく、都へは行けぬ」  中大兄はもう一度繰り返した。      四  その頃、漢殿は鎌子の突然の訪問を受けていた。 「これは、いかがされたのか」  漢殿は驚きながらも、鎌子を奥に通した。  鎌子が直接自分のところへやって来るなど極めて異例の事態である。 「内密の御相談が」  鎌子は切羽詰っていた。  漢殿は召使を遠ざけた。 「いかがされたのか」 「——皇后様と皇太子様のことが、帝に知れました」 「——?」  何のことだ、と漢殿は思った。  中大兄が、実の妹である間人皇后と情を通じていることなど、漢殿はまったく知らなかった。  説明を受けて、漢殿は怒るよりむしろ呆気にとられた。 (それにしても兄君らしい)  後のことは知らないとばかりに、自分の思うように突っ走る。  周囲の思惑など、はなから考えていないのである。 「それで、帝は?」  気がかりなのは、帝の反応である。 「お怒りです」  鎌子は、まずそれを言った。 「そうであろうな」 「皇太子様をとらえ、首を斬るとまで申されています」 「まさか、本心ではあるまい」 「いいえ」  鎌子は首を振った。 「今は、少なくともそうです」 「——」 「それゆえ、しばらく身を隠して頂くのが、よろしかろうと存じます」 「お怒りが鎮まるまで、待つというのだな」 「御意」 「それで、わたしに何をしろと」 「万一に備えて、皇太子様の身をお守り下さい」  鎌子は深々と一礼した。 「——必要があるのか」  漢殿はつぶやくように言った。 「ぜひとも、御承知下さい」 「わかった」  漢殿はうなずいて、問い返した。 「兄君は、どこにおられる」 「ただいまは、百済の豊王子《ほうおうじ》様のところへ行かれておられます」 「そうか、では、とりあえず虫麻呂を出そう」 「かたじけのうございます。それでは、わたくしはこれで」 「どこへ行く?」 「皇后様のもとへ参ります」  鎌子は答えて、再び頭を下げた。 「では、くれぐれも皇太子様のことをよろしくお願いします」  漢殿はうなずいた。  鎌子は出て行った。 「虫麻呂」  鎌子が出て行くと、漢殿はすぐに床下に向かって言った。 「はい」 「聞いていたな」 「はい、聞いておりました」 「では、行け。わたしもすぐに行く」 「——」  虫麻呂は動く気配がなかった。 「どうした?」 「少し、お考えになったら、いかがでございましょう」 「うん?」  漢殿は首を傾げた。  虫麻呂はそれ以上言わない。 「どういうことだ?」 「おわかりになりませぬか?」 「わからぬ、申すがよい」 「——このまま、何もせぬ方がよいのではありませぬか」 「何もせねば、兄君の身に——」  そこまで言って、漢殿は気が付いた。 (このまま、兄君を見殺しにせよ、ということか)  そうすれば、自分は晴れて皇族として認知されるかもしれない。  それが認められないのは、中大兄が執拗に反対しているからだ。  中大兄さえいなくなれば、母はすぐにでも自分を皇族に列してくれるに違いない。しかも中大兄がいなくなったうえに、自分が「皇子」の座を獲得すれば——。 (帝になるのも夢ではない)  漢殿は思った。 「いかが致しましょうや」  虫麻呂が決断を求めた。 「——やはり行け」  漢殿は、苦いものでも飲み下したかのように、しわがれ声で命じた。 「よろしいので?」 「かまわん、行け。そして、兄君の身をお守りするのだ」 「——」 「行け!」 「かしこまりました」  虫麻呂の気配は消えた。  漢殿は溜息をついた。  俄に心は動いたのである。  そうすればよかったのかもしれない。  汚い仕事は全部自分に押しつける「兄」、そしてそれにまったく報いようとしない「兄」——この世から消えてなくなってしまった方が、よほどせいせいする。  しかし、どうしても、踏み切れなかった。  父は違うとはいえ兄弟である。血を分けた兄弟を、むざむざと死に追いやれるものではない。 (勝手なお人だが——)  これも宿命というものかもしれなかった。  その「兄」が、実の妹との色恋沙汰で命を狙われる。  皮肉なものである。 (待てよ)  漢殿はふと思った。 (帝がそれほどお怒りなら、皇后様も無事には済まぬのでは)  鎌子はそこへ向かったが、鎌子一人で皇后を守れるかどうか。  漢殿は槍を手にとった。      五  帝は怒りに燃えていた。 (后め、よりによって皇太子と密通するとは——)  この手で、ひねり殺してくれる。  そのことすら考えた。  わずかな舎人《とねり》を連れて、帝は皇后のもとを急襲した。 「出て参れ」  帝は衣服の乱れも気にせず叫んだ。  女官たちは震え上がった。 「どうか、お気を鎮められますように」 「うるさい」  帝は、なだめに来た女官を突きとばした。  悲鳴が上がった。 「お待ち下さいまし」  間人が出てきた。  青白い顔に、固い決意の色が見える。 「おお、出て来たか」  帝は獲物を見つけた猫のような目をした。 「ようこそ、お越し下さいました」  間人は頭を下げた。 「何のために来たか、わかっておるか」  帝は間人をにらみつけた。 「——はい」 「申し開くことがあれば聞こう」 「何もございません」 「そうか」  帝は、怒りと笑いが入り混じったような表情で、一歩一歩、間人に近付いた。  途中、舎人から剣を受け取り、鞘を払った。  再び悲鳴が上がった。 「覚悟せよ」  そのまま野獣のような雄叫《おたけ》びを上げて、帝は剣を大上段にふりかぶった。  そして、その刃が皇后の脳天に振りおろされようとした、まさにその時——。  飛来した石礫《いしつぶて》が帝の右手に命中した。 「ぐわっ」  帝は剣を取り落とした。 「何者だ」  右手を左手で押さえ、帝は叫んだ。  答えはなかった。  代りに、布を巻いて面体を隠した男が、帝と皇后の間に割って入り、皇后の手を掴《つか》んだ。 「さあ、早く」  男は右手に持った長い槍で、あたりの舎人を威嚇しつつ、外へ出た。  馬がつないである。 「さあ、参りましょう」 「どこへ?」 「とりあえずは、わが館にでも」  そう言うと、男は間人を強引に馬に乗せ、自らもまたがった。 「——あなたは、ひょっとしたら、わが兄君では」  間人は言った。  中大兄と間人は、父も母も同じ兄妹である。  しかし、覆面の男——漢殿は違う。  父は新羅の王族なのである。 「——御存じでしたか」  漢殿は言った。 「一度、お会いしたいと思っていました」 「いや、私のような者に、お会いになっても、何の得るところもありません」 「肉親には、得るところがあるから、会うのではありません」  間人は笑顔で言った。 「それもそうですな」  漢殿も笑った。  そして、初めて親しく言葉を交したこの妹に、好意を持った。      六  鎌子が皇后の殿舎にたどりついた時は、もうすべては終わっていた。  帝は、怒りで顔を真っ赤にして、怒鳴り散らしていた。 「早く捕えよ、后も皇太子も」  だが、誰も、おろおろするばかりで、何もできない。 「帝はお疲れだ。とりあえず、お戻り頂くのだ」  鎌子は舎人を叱咤し、その場を収めた。  帝は、舎人たちに引きずられるようにして、その場を去った。 (皇太子様は御無事だろうか)  鎌子はそのことを思った。  中大兄はその頃、必死で馬をとばして漢殿の館に向かっていた。  色々と考えたが、やはり一番安全なのはそこしかない。  豊璋の館は、誰でも想像がつく。  飛鳥の古京も、目立つところばかりだ。  しかし、漢殿の館なら、万一追手がかかっても充分な応戦ができる。 (それにしても、なぜ馳せ参じぬのだ)  中大兄は、ついこの間まで漢殿を邪魔者にしていたことも忘れて、そう思った。  そう思った途端、馬の左側から、低いがよく通る声がした。 「皇太子様——」  どきりとして、そちらを見た中大兄は、疾走する馬に寄り添うように走っている灰色の衣の男に気付いた。 「虫麻呂か——」 「はい、御先導申し上げます」  虫麻呂は息も切らさずに言った。 「あやつは、なぜ来ぬ?」  中大兄は不満の声を漏らした。 「——主人は皇后様のところへ参っております」 「なに、皇后の?」  その時初めて中大兄は、間人の身にも危険がせまっていることに気付いた。  その間人のところへ漢殿が行ってくれた。ひとまずは安心である。しかし、それはそれとして、中大兄は間人に漢殿が会うということ自体が不快だった。  馬に一鞭くれた。  一刻も早く、行きたい。  そういう気持が芽生えたのである。 「皇太子様」  虫麻呂が言った。 「何だ?」 「この道は危のうございます。先に帝の手勢が伏せております」 「なんだと、なぜそれを早く言わぬ」  中大兄はあわてて馬をとめた。 「こちらへ。間道がございます」  虫麻呂が先に立った。  中大兄は無事に漢殿の館に着くことができた。      七 「兄様」  間人が人目もはばからず、中大兄にしっかりと抱きついた。 「待て、ここでは」  さすがに、中大兄がたしなめた。  周囲には、漢殿に妻の額田、それに鎌子も駆けつけている。 「かまいませぬ」  間人はかえって強く抱きついた。 「——こうなって嬉しゅうございます」  ささやく声が耳に届いた。  中大兄は驚いて、 「なぜだ。皇后の地位を失うことになるのだぞ」 「かまいませぬ」  間人は繰り返した。  うるんだ瞳には、喜色すら浮かんでいる。  中大兄は、その間人を押しのけるようにして、身の自由を取り戻した。  そして物問いたげに鎌子を見た。 「御無事で何よりでござりまする」  鎌子は頭を下げた。 「どうする」  中大兄は血走った目で言った。 「こうなったら、非常の手段をとるしかございません」  鎌子は重々しい口調で言った。 「まさか——」 「いや、それは違いまする」  中大兄が何を言おうとしたか、鎌子はなぜそれをとどめたか、誰の目にもわかった。  帝をこの際、この世から消す——そのことである。 「では、どうする?」 「都を捨てましょう」 「捨てる? 逃げるのか?」  心外そうに中大兄が言った。 「いいえ」  鎌子は首を振って言った。 「都を戻すのでございます。飛鳥の古京へ」 「何だと」  中大兄は目をむいた。  漢殿以下、その場にいた者全員が驚いた。  なんという大胆な策であろう。 「しかし、都を遷すには、帝の勅《みことのり》がいるのでは——」 「その帝は、皇太子様を憎んでおられます」 「——」 「それゆえ、仕方がありませぬな。母君さえこちらの味方について下されば、難しいことではないと存じます」 「帝はどうする?」  その問いに、鎌子は少しうつむいて、しかしはっきりした声で言った。 「お連れ申し上げるわけには参りますまい。お嫌でございましょうし、来られては、この策が生きませぬ」 「で、では、帝を置き去りに——」 「はい」 「鎌子、それでよいのか?」  中大兄は思わず言った。 「よろしゅうございます。あとは皇太子様が心を強くお持ちになることでございます」 「——」 「母君を説いて、左大臣以下百官すべてに呼びかけるのでございます」 「ついて来てくれるであろうか?」 「そこが賭けでございます。しかし、勝算ある賭けと存じます」  中大兄はまだ混乱していた。  帝を置き去りにして、都を遷すなど、この国始まって以来のことである。  本当にうまくいくのだろうか。 「——そちはどう思う」  中大兄は漢殿にすら意見を求めた。 「はい、死中に活を求める良策かと存じます」 「しかとそう思うか?」 「はい、このまま座して事の推移を待つよりは、はるかに良いと思います」  中大兄は間人も見た。  間人は黙ってうなずいた。 「よし、ならば、皆も一蓮托生《いちれんたくしよう》だぞ」  中大兄は叫んだ。 (そのようなことを仰せにならずとも、黙ってついて来いとお命じになればよいのに)  鎌子は心の中で深い溜息をついた。 [#改ページ]   第八章 棄都捨帝      一  前代未聞の一挙は成功した。  中大兄の呼びかけによって、朝廷の重臣たちは大多数が行を共にした。  ある朝、帝が目覚めてみると、臣下がいなくなっていた。 「これ、誰かおらぬか」  帝は衣服を着替えることもできずに、寝所を出て殿舎の中をさ迷い歩いた。 「誰かおらぬのか」  帝の声は、長い廊下に空しく響くだけであった。  へなへなと腰砕けて、床に手をついた帝は、めまいを覚えた。 (この屈辱、耐えられぬ)  帝は思った。  これほどの屈辱があろうか。  怒りもある。  憎悪もある。  しかし、何よりも屈辱感が、帝の神経を切り刻んでいた。自分は朝廷の百官や舎人たちにも見捨てられたのである。  そのうえ、后にすら——。  立ち上がる気力すら失せていた。  そのまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。 「父上——」  駆け寄ってくる足音と共に、若々しい声が聞こえた。  帝は顔を上げた。 「おお、有間《ありま》ではないか」  息子の有間皇子の顔がそこにあった。 「さあ、お手を」  息子のさしのべる手に、帝はようやくすがった。 「参りましょう」 「どこへ行く?」 「わが館へ」 「いや、それはならぬ」  帝は首を振った。 「朕《ちん》はこの国を統《す》べる者じゃ。それが、この宮殿を離れるわけにはいかぬ」 「わかりました」  有間はうなずいて、 「では、わたくしの館より、身の回りのお世話をする者を差し向けましょう」 「いや」  帝は首を振った。 「——?」  有間は、その真意を測りかねた。 「それよりも、そなたがここへ移って参るのがよい」 「それでは、あまりに——」 「いや、遠慮するでない。——そなたは、朕の実の息子ではないか」 「はい」  有間は思わず返事をした。  背は高く肌は白く、女のような優しい手をしている。  しかし、その柔和な表情とは裏腹に、なかなか性根のすわった青年であることを、帝は気付いていた。 「中大兄などを皇太子《ひつぎのみこ》にしたのが、まちがいであった」  帝は息子の肩に手をかけて言った。  有間はびくっと肩をふるわせた。 「そなたを皇太子にしよう」 「——」 「どうした、嬉しゅうはないのか?」 「は、はい」  有間は心の中では、こう考えていた。 (いま皇太子など、うかつに受けては危ない。あの中大兄が黙っているはずがないからな)  皇太子になるということは、中大兄の地位を奪うということだ。  それが、この際、最も危険な賭けであることを、有間は知っていた。 「さあ、父上、お休みになるのがよいでしょう」  有間は、帝を抱きかかえるようにして、寝所に連れていった。  そして、父を休ませると従者を呼んで、とりあえず身の回りの世話をする者を、館から呼び寄せることにした。  まだ、ここに住む決心がつかなかった。 (中大兄の疑いを避ける工夫をしない限り、ここには住むこともかなわぬ)  有間はそれを考えねばならなかった。      二 「母上、それはなりませぬ」  中大兄は不快感を露わにして言った。 「なぜです」  前帝《さきのみかど》である母は不審の表情を見せた。 「言うまでもありません。あの者は、異国《とつくに》の血を引いております」  漢殿《あやどの》を皇族に列するか、という問題である。  難波の都を捨てるにあたって、中大兄は母に懇願した。  母は中大兄には甘い。その願いなら大方のことは聞き届ける。  今回のことは、言わば大きな貸しである。  それがあるから、母は再び漢殿のことを持ち出したのである。  しかし、にべもなく拒否された。  母はむっとして、 「そなたはそう言うが、これは皇后の願いでもあるのですよ」  娘であり、中大兄の妹でもある間人皇后は、あの一件以来、漢殿の味方だった。  だが、中大兄はそのこと自体面白くない。 「だめです」  中大兄は意固地になった。  あとは母がいくら説得しても、中大兄は首を縦に振らなかった。  大きな溜息をついて、ついに母はあきらめた。 「わかりました。では、その件は無かったことにしましょう」 「ありがとうございます」 「では、聞きますが、肝心なことはどうします」  母は改めて厳しい視線を中大兄に向けた。 「肝心のことと申しますと?」 「決まっているでしょう。都が二つに分かれ、帝が有名無実のものとなった。このまま放っておくのですか」 「それは——」 「異国の使者も困るでしょうね。どちらへ使いを送るべきか。難波か、それともこの飛鳥か」 「飛鳥です。決まっている」  中大兄は叫んだ。  母はたしなめるように、 「難波には帝がいるのですよ、力がないとはいえ、帝は帝です」 「——」 「もし、帝が、われらをこころよく思っていない者共と結んだら、厄介なことになります。この国は二つに割れる」 「そんな者共がおりましょうか」  中大兄は楽観していた。  もし、そんな連中がいるなら、難波の帝のもとには、もっと大勢の家臣が残ったはずだ。 「いや」  母は首を振った。 「人には、面従腹背ということがあるのですよ。そなたも、この国の天津日継《あまつひつぎ》となる身なら、こういう言葉ぐらい知っておきなさい」 「面従腹背——」  母は意外に唐《から》の国の言葉を知っている。それは漢殿の父である新羅の王族から学んだものだろう。  そう思うと、中大兄はその忠告を率直な気持で聞く気になれなかった。 「とにかく、何か方策を考えなさい。このままではいけません」  母は最後に念を押した。      三 (いっそのこと、帝を弑《しい》するか)  中大兄は帰途、それを考えた。  殺すこと自体は、そんなに難しくない。  なにしろ、こちらには漢殿という切り札がある。  臣下の大半を失い、手足をもがれた形の帝を倒すのは、わけないだろう。  問題はその影響だ。  それをすれば、たとえ実行者が誰であっても、中大兄の差し金だと誰もが思うだろう。そう思われることは、決してこれからのためにならない。  実行すべきか、それとも待つべきか。  だが、待つといっても、何を待つのか。  帝の自然死か。  しかし、それなら、この変則状態は当分続くということになる。  それは絶対に認められないことだ。 (やはり、その手しかないか——)  ふと、間人の顔が浮かんだ。  仮にも、一度は夫として仕えた帝が殺されたら、彼女は何と思うだろう。 (やはり手を下した者を憎むか)  そこまで考えて、中大兄はむしろ積極的な気分になった。  漢殿にやらせればいい。  間人は漢殿を憎むようになるだろう。  中大兄にとって、それはもっけの幸いである。 「よし」  中大兄は思わず声を出して自分を励ますように、漢殿の館に向かった。 「それはなりませぬ」  話を聞いた漢殿は、顔を蒼くして反対した。 「なぜだ。そなたほどの男が尻込みするか」  中大兄は挑発するように言った。  かつての館である。  飛鳥の郊外の道筋から少し離れたところにあり、難波の館と違って山々が連なるのが見える。  その館の中で、父の異なる兄弟は向い合わせに座っていた。  人払いがされ、部屋の中には他に誰もいない。 「いえ、恐いのではありません。確かに仰せの通り、今の難波は丸裸も同然。その気になれば、たやすくお命を縮め参らすことができましょう」 「ならば、なぜできぬ」 「兄君、仮にも相手は帝、これは弑逆の大罪となりまする」 「わかっておる」  中大兄はじれったそうにうなずいた。 「ならば、おとどまり下さいませ。弑逆の大罪を画策した者が、帝位に即《つ》くなどできぬことでございましょう」  漢殿は強く言った。  中大兄はにらみ返して、 「そなたは、このわしの命令が聞けぬというか」 「他のこととは違いまする。これは、あなた様の御名にも大きな傷となりまする。しかも、臣下の身で帝を討つなど本邦始まって以来のこと」 「いや、例はある」  うめくように中大兄は言った。それは本当だ。  かつて蘇我馬子《そがのうまこ》が、崇峻《すしゆん》帝を殺害させたことがあるではないか。 「その蘇我の一族はどうなりました?」  漢殿は今度は静かに言った。 「——」  中大兄は黙った。  言うまでもない。彼等は滅亡した。  いや、中大兄自身が滅ぼしたのではなかったのか。 「おわかりでございましょう」 「いや」  中大兄は首を振った。 「あれは臣下のやったこと。それゆえ滅びたのだ。だが、われは皇族。立場が違う」 「それゆえ、申し上げているのでございます」 「なんだと」 「帝と皇太子とは、親と子。子が親を殺して国家というものが立ちゆくものか、ここはよくお考え下さい」 「うるさい」  中大兄は立ち上がった。漢殿はまぶしげにそちらを見た。  中大兄は漢殿を指さして、 「そなたに命ずる。今より十日のうちに、帝の命を絶《た》て。これは皇太子としての命令だ」 「——」 「わかったな」 「——わかりました」  漢殿はそう答えざるを得なかった。  中大兄は笑みを浮かべた。 「頼むぞ、吉報を待っておる」  中大兄はそう言い捨てて去った。  ほとんど入れ違いに、額田が入ってきた。 「あなた」  顔が真っ青だった。 「聞いておったのか」  漢殿は優しく言った。咎めるような口調ではなかった。 「はい」 「そうか」 「おやめ下さい」  額田は叫んだ。 「——」 「こればかりは聞いてはなりませぬ。いかに皇太子様の御命令とはいえ」 「だが、他にどうしようもあるまい」  漢殿は言った。  体中に、重い荷を背負ったような、不快感があった。      四 (やるしかないのか)  漢殿はついに難波宮まで来てしまった時、そのことを思った。  もう、何度同じことを自問自答したことだろう。  兄の中大兄は、帝を消せという。  だが、いかなる理由にもせよ、帝を殺すなどということは罪の中の罪、まさしく大逆である。  大逆の罪は、いかなることがあっても、償うことはできない。 (どうすべきだ)  結論はもう出ている。  帝のおわす難波の宮に、もう来てしまったのだ。  日中というのに空は暗い。  いまにも雪が降ってきそうな鉛色をしている。  漢殿は馬を降りた。  これ以上は歩いて行くしかない。 「——お供致します」  背後から声がした。  振り向くまでもない。虫麻呂である。 「来るな、と言ったはずだぞ」 「——」 「これはわたし一人でやることだ」  漢殿は槍をしごいた。 「なぜ、夜を待たれませぬ?」  虫麻呂はけげんな顔をした。 「こそこそとしたことは、もう嫌なのだ」  吐き捨てるように漢殿は言った。 「御主人様——」  虫麻呂は、どう言うべきかよくわからなかった。  こんな昼日中から宮殿に行けば、誰の仕業か一目瞭然ではないか。  そのうえ、帝の周囲には、いくらなんでも数人の舎人《とねり》がいるはずだ。  その舎人とも争いになる。  数については心配していない。長槍の名手である漢殿が、万が一にも舎人風情に遅れを取るはずはない。  しかし、多くの人間を殺せば、それだけ多くの家族の恨みを買う。  そういうことは避けるのが賢明ではないのか。 「いいのだ」  漢殿はまるで簡単な用事を済ませに行くように、すたすたと宮殿へ向かった。  槍を持っているところだけが、日常と違う。  その時突然、漢殿の眼前に、奇妙な男が立ち塞《ふさ》がった。 「何者だ?」  漢殿は誰何《すいか》した。  長身の漢殿に、まさるとも劣らぬ大男であった。  不思議な異国風の衣裳を身につけているが、顔は藁《わら》を編んだ大笠で隠されていて、わからない。  漢殿が緊張したのは、顔がわからないこともさりながら、右手に手槍を持っていたからだ。槍という武器の使い手は、まずいない。  矛《ほこ》なら、いくらもいる。兵士が持つのも矛である。  しかし、漢殿は槍の方を得意とした。  どちらかといえば、前後左右どういう形でも相手に傷を負わせられる矛の方が有利である。  だから漢殿は、これまで槍を使う敵を相手にしたことがない。  ここに至って、はじめてそんな敵が出現した。 「何者だ?」  笠の男が答えないので、漢殿はもう一度言った。  男はそれには答えず、 「このまま帰れ」  と、言い返した。 「帝のお付きの者か?」 「そうではない」  男は首を振って、 「だが、そなたの心の内にあることは、行なってはならぬ」 「——」 「わかっておろうが、それは臣下の身として許されないことだぞ」 「どけ」  漢殿は槍をかまえて威嚇した。  男は口元に微笑を浮かべて、 「ほう、やるというのか。面白い。そなたの技を見よう」  笠の男は一歩下がった。 (殺すまでのことはない)  漢殿は思った。  こちらの長槍に比べて、相手は短い手槍である。 (得物をはねとばしてくれる)  漢殿は槍の長さを生かして、笠の男の手を打とうとした。  手を打って取り落とさせ、手槍そのものもはねとばそうという作戦である。  他愛もなくうまくいくはずだった。  ところが、次の瞬間——。  槍をはねとばされていたのは、漢殿の方だった。  漢殿は驚愕した。  槍をとって今まで一度も敵に敗北したことはない。  それが、まるで赤子の手をひねるように、やられた。  しかも男は素早く漢殿の前へ出て、首根のところに槍を突きつけた。 「——そなたの負けだな」  笠の男は言った。  誇るでもなく笑うでもなく、重い押しつけるような声だった。 「殺せ」  漢殿は言った。  死にたくはなかったが、こうなってはどうしようもない。 「このまま帰るなら、命は助ける」 「——」 「二度と帝に手を出すな、わかったか」  笠の男の言葉に、漢殿は反抗の眼を向けた。  その時、初めて下から覗く形で、笠の内が見えた。  眉も鬚《ひげ》も薄い。面長の男である。  その細い眼に殺気はなかった。  漢殿が返事をしないでいると、笠の男は槍を引いた。  漢殿はいぶかしげに男を見た。 「そなたは負けたのだ。武人なら武人らしく潔く負けを認めたらどうだ」 「——わかった」  漢殿はうなずいた。  笠の男はきびすを返した。 「待て、名を名乗れ」 「——名など無い。わしは帰る国も身よりもない者でな」  男は振り返らずそう言って、そのまま去って行った。  漢殿は地面に落ちた槍を拾い上げると、右の手首をあらためて見た。  青く腫《は》れ上がっている。痛みもある。  恐ろしい迅業《はやわざ》であった。  ふと、漢殿は虫麻呂の様子が尋常でないのに気が付いた。 「どうした?」  思わず声をかけた。  虫麻呂は呆然と男の去った方を見ていた。 (そういえば、こやつ、何をしていたのだ)  漢殿は珍しく不満を感じた。  考えてみれば、自分があれほどの危機に陥った時、虫麻呂は何もしなかったのである。そういう時は主人を助けるのが虫麻呂の役目ではないか。現に虫麻呂はこれまでは必ずそうしていたのである。  だが、虫麻呂は相変らず放心したように、男の去った方角を見ていた。  漢殿が声をかけたにもかかわらずである。  こんなことは、これまでに一度もなかった。 「どうしたのだ、虫麻呂」  漢殿は大声を出した。  その声にはっとした虫麻呂は、あわててその場に膝をついた。 「はっ、申しわけございませぬ」 「一体、どうしたというのだ?」 「いえ、なんでもござりませぬ」 「なんでもないはずがあるか」  漢殿は怒鳴りつけた。 「お許し下さりませ。虫麻呂一生の不覚でございました」  漢殿はわけがわからなかった。だが、そのうちにはっと気付いた。 「——おまえは、あの笠の男を知っているな」 「いえ、滅相もない」  虫麻呂はあわてて否定した。  しかし、その表情を見て、漢殿はそれが嘘だと確信した。 「申せ。あれは何者だ?」 「いえ、その——」 「はっきり申せ。それとも主人の言うことが聞けぬと申すのか」 「わたくしも、確かにそうだとは言い切れぬのでございます。なにしろ面体をお隠しになっておられましたし、もうお別れして三十年近くになるのですから」 「だから、誰だ?」 「は、はい。もしや大殿《おおとの》様ではなかったかと——」 「なに」  漢殿はあわてて笠の男の去った方角を見た。  既に男の姿は宮門の中に消えている。 (父上が、まさか)  漢殿は槍を握りしめていた。      五 「失敗するとは何事だ」  中大兄は漢殿を怒鳴りつけた。  飛鳥の宮中である。  しかし、人払いがされており、他には誰もいない。 「申しわけもございません」 「そちほどの手練《てだれ》が、何故敗れた?」 「敵の側に、わたくし以上の使い手がおったのでございます」 「そなた以上の?」  さすがに中大兄は顔色を変えた。 「何者だ?」 「——わかりませぬ」 「名は名乗らんだのか?」 「名は無いと申しました」  漢殿は、とりあえずそう答えた。 「ふざけたことを」  中大兄は怒っていたが、ふと思い出したように、 「敗れたということは、手傷を負ったのか?」  漢殿はそれを聞いて嬉しかった。  初めて中大兄が自分の体を気づかってくれたのだ。 「いえ、右手首をしたたかに打たれましたが、ただの打ち身でございます。すぐに治りましょう」 「ならば、行け」  中大兄は冷酷に言った。  漢殿ははっとした。 (そうか、手傷のことを聞いたのは、わたしの体を気づかってのことではない。再び動けるかどうかを確かめたかっただけなのだ) 「お断わりします」 「なに、断わるだと」 「はい」  漢殿は断固として言った。  中大兄もその気迫に押されまいと、 「皇太子の命令に従えぬと申すのか」 「やはり、臣下として、従えることと従えぬことがございます。それに——」 「それに?」 「武人としての約束がございます」  と、漢殿は例の笠の男との約束を話した。  中大兄は怒った。 「そちは、私事の盟約を、公けの命令より重んじると申すか」 「そうは申しておりません」 「言っておるではないか、この不埒者《ふらちもの》」 「公けのものと仰せられるなら、正式な命令書を出して頂きたいと存じます」  漢殿の言葉に、中大兄はぐっとつまった。  なにしろ、仮にも相手は天皇だ。その天皇を殺せなどという正式な命令書など、出せるわけがない。 「命令書をお出しになるなら、わたくしも行かざるを得ません。その時はぜひ御連絡願いたいもので——」  漢殿はそれを捨て台詞にすると、その場を去った。 (おのれ、いまに見ておれ)  中大兄は怒り狂ったが、どうすることもできなかった。  漢殿はその足で、母の帝のところへ行き、拝謁を願い出た。 「漢《あや》の者が?」  母は驚いた。  無位無官のままの漢殿は、正式に帝に会うことは許されていない。  しかし、なんといっても親子なのだから、そこは内密に会おうと思えば可能だった。  それなのに漢殿は、遠慮しているのか、一度もそうしたことはない。母の方から呼び出さぬ限り、決してやって来ないのである。 「どうしました」  母はたずねた。むろん、彼女は、中大兄が帝の暗殺を命じたことなど知らない。  漢殿は沈痛な面持ちであった。  本当は、こういうことはしたくない。  しかし、しなければならない。それは自分の窮地を逃れるためではない。父のことを母から聞いておきたいからだ。 「わたくし、先日、ある武人と立ち合いました」 「——」 「見事な技を持っていました。私が一合《ひとあわせ》も打ち合わせることなく、槍をはたき落とされたのでございます」  母は、はっとして、頭を上げた。 「そなたはどうして、その武人と立ち合うことになったのです?」 「——」 「難波の宮ですね。あなたは難波の宮へ行きましたね?」 「行きました」 「何のためです?」 「それは、申し上げたくありません」  漢殿は、いざとなると、そのことを告げることができなかった。 「わかりました。あなたは、帝を亡き者にしようとしたのでしょう」 「——」  漢殿は抗弁しなかった。 「皇太子が命じたのですね?」  母は漢殿の目をのぞき込むようにして言った。 「——答えたくありません」  少し前なら、そういう言い方はしなかったろう。しかし、漢殿は中大兄の冷酷な態度が腹に据えかねていた。 「まったく、なんということ」  母は天を仰いだ。  漢殿は黙って母を見守っていた。 「何を考えているのでしょう。皇太子の身で帝を討たせるなど、まさに言語道断。この国の秩序が根本から崩れてしまいます。あの子はどうしてそれがわからないのか——」  母はなおも愚痴をもらした。  漢殿は、もはやそんなことはどうでもよかった。それより聞きたいことがある。 「わたくしがおうかがいしたいのは、その武人のことです」 「それが一体どうしたというのです」  母はけげんな顔をした。 「かの者は、武芸の達人です。槍をよく使い、大笠をかぶった壮年の男——何かお心当りはございませぬか」  母の顔色が明らかに変った。  漢殿は勢い込んだ。 「ございますのか」 「笠と申したか?」  母は逆にたずねた。 「はい」 「笠、それに槍。まさか、あのお方が——」  母は語尾をのみ込んだ。 「やはり、そうなのですね。あれは、わが父——」 「お待ちなさい」  母はぴしゃりと言った。 「——それ以上、言葉を口にしてはなりません」 「——」 「よいか、その大笠の男のことは忘れるのです」 「しかし、それは——」 「忘れなさい!」  母は厳しく命じた。  漢殿は口を閉じざるを得なかった。 「——わかりました。これにておいとま致しまする」  漢殿は去った。  母は、その場に突っ伏した。  嗚咽の声がした。      六  難波京に残された帝が病いに倒れたのは、それから間もなくのことだった。  初めは軽い病いのように見えたが、日がたつにつれて段々と重くなり、ついには床から身を起こすのも困難になった。  百済人の医者が呼ばれて、病状を診断することになった。 「気鬱《きうつ》の病いでござる」  医者は断じた。 「気鬱とは?」  息子の有間皇子がたずねた。 「心をふさぐことがございます。それが体の働きを弱めているのでございましょう」 「その心をふさぐこととは、何だ?」 「わかりませぬ。それは、身近に仕えておいでの方がおわかりでございましょう。御不満、御不快、その他もろもろのことでござる」  医者の言に、有間は怒った。  医者に怒ったのではない。何が病いの原因なのか、はっきりとわかったからだ。 (中大兄め)  憎しみは中大兄に向けられていた。  あの男こそ、この国で帝に対して最も不忠なる者、大逆臣ではないか。  その大逆臣が飛鳥の地で多くの廷臣にかしずかれ、一方、本来この国を治めているはずの帝の周囲には誰もいない。そんな馬鹿なことがあっていいものだろうか。  有間皇子は憤然として庭へ出た。  この頃は、手入れする者もなく荒れている。 「皇子様」  声をかけられて、有間はそちらを振り返った。  ひょろりとした、面長の男がその場に跪《ひざまず》いていた。  有間はその顔に記憶があった。 「赤兄《あかえ》ではないか」 「はい」  蘇我赤兄、先年謀反の疑いをかけられ憤死した右大臣石川麻呂の弟である。 「何をしに参った?」  有間は言った。  咎《とが》めているのではない。そもそも訪ねて来る者すら珍しいのだ。 「——皇子様、わたくしは今の御政道が納得いきませぬ」 「ほう」 「帝をないがしろにする皇太子様のやり方は、人倫の大本を踏みにじるものです」 (本心か?)  有間は疑っていた。  うっかり相槌をうって、それを口実に罰せられてはたまらない。 「お疑いか」  赤兄は、突然はらはらと落涙した。 「ああ、情けなや。わが兄、石川麻呂は何の罪もないのに皇太子に殺されたのでござる。兄はいかに無念であったことでございましょう」 「——」 「皇子様、わたくしは、兄の仇を討ちとうございます。何卒、皇子様の臣としてお仕え申すことをお許し下さいませ」  赤兄は目を泣き腫らしながら言った。 「わかった、疑って済まぬことをした」  有間は身をかがめ、赤兄の手を取った。 「志は一つだ。この国の歪みを正し、逆臣を討つ。そなたを同志として迎えるぞ」 「勿体なきお言葉」  赤兄はうつむいて、また涙をこぼした。      七 (あれは父だったのか)  漢殿は野原で一人、槍の稽古をしていた。  あの笠の武人と立ち合うことによって、おのが技の隙を教えられたのである。  これまで自分の技に対抗しうる敵というものに、遭遇したことはなかった。  それが知らず知らずのうちに自分の技を衰えさせていたのだ。 (未熟者め)  一合も打ち合わずに、槍を叩き落とされるというのは大きな屈辱である。  しかし、その屈辱が、漢殿の精進を支えていた。  ふと人の気配がした。 「何者だ?」  誰何すると、木陰から鎌子《かまこ》が現われた。 「そなたか」  漢殿は槍をおろし、汗を拭いた。 「いつもながらお見事な技でございます」 「何が見事なものか」  漢殿は吐き捨てた。  そして、ふと気がつくと、 「そなた、地獄耳という噂だな」 「いえ、とんでもございませぬ」 「嘘を申せ。宮中のことなら知らぬことはないと聞いたぞ」 「ははは、口さがない者の噂でございます」  鎌子は一笑に付した。 「わが父のことを知らぬか?」  漢殿は単刀直入に聞いた。  鎌子の耳がぴくりと動いた。 「——」 「どうした、知らぬのか」 「困りましたな」 「なぜ、困る?」 「噂ならば知っておりまする。しかし、本当かどうかは」 「かまわぬ、それを聞かせてくれ」 「それはできませぬ」 「なぜだ」  漢殿は気色ばんだ。  鎌子は落ちついていた。 「これは前帝《さきのみかど》の御名誉にもかかわること。滅多に口にすべきものではございません」 「——」  漢殿は鎌子を無言のまま、にらみつけた。  鎌子は破顔して、 「海の向うの国の話でございます」 「——?」  突然何を言い出すのか、漢殿は不審げな顔をした。 「そこに別の国から、人質として王の一族の貴公子がやって参りました。その貴公子は、宮廷の皇女と恋に落ちたのでございます」 「——それは父上と母上のことか?」  うめくように問う漢殿に対し、鎌子は首を振った。 「とは申しません。申しませんが——この話まだお聞きになりますか?」 「聞こう」 「お二人の間には月満ちて、一人の男の子が生まれました。しかし、これはお二人の将来に暗雲をもたらしたのでございます」 「——」 「もしも、その御子が、その国の王家の一員とされるなら、その王家に異国《とつくに》の血が混じることになりまする」 「混じってもよいではないか」 「それは、なりませぬ。しかし、その異国というのが、皇女様の国とは極めて仲が悪かったのでございます」 「——」 「お二人は夫婦となることはできませぬ。御子の母は、その子を手放させられ、その代りに王族としての地位を保たれました。御子の父は故国には戻らず、かといってこの国に仕えることもならず、世を捨てられたのでございます」 「なぜだ。国へ帰ればよいではないか」 「確かに。されど、あなた様の、いえ、御子の父上は、そうはなさらなかったのでございます。それは、おそらく——」 「何だ?」 「いや、それは、憶測でございますが——」 「かまわぬ、申してみよ」 「愛《いと》しさゆえに、この国を離れがたかったのではございますまいか」  漢殿は長年の疑問が、霧が晴れていくように消えていったと感じた。 「その男、いやわが父の名は何というのだ?」  たまらずに漢殿は、それを聞いた。 「存じませぬ」 「知らぬはずがあるか」 「もし、存じておりましても、あくまで噂ゆえ答えられませぬ。御自身でお聞きになるのが、よろしかろうと存じます」 「知っているのか、わが父の居場所を」 「存じませぬ」 「嘘を申すな」 「これは嘘ではございません」  鎌子は頭を下げて、 「あの御方は風のように神出鬼没でございます。遁甲術《とんこうじゆつ》の名手でございますからな」  遁甲術——それは忍びの技である。  漢殿はそれを虫麻呂に習った。  虫麻呂には誰が教えたのか。 (父上に違いない)  漢殿は確信した。  鎌子はそのまま立っていた。  漢殿は気付いた。  鎌子は何か別の用事があって来たのに違いない。  漢殿は、それをたずねた。 「凶々《まがまが》しき知らせにございます。しかし——」  と、鎌子は表情を変えて、 「あなた様には、吉報と申すべきかもしれませぬ」 「一体、何事だ?」  漢殿は、けげんな顔をした。  鎌子は淡々とした口調で言った。 「昨日、帝が難波の宮にて崩御なさいました」  漢殿は驚いて鎌子を見つめた。 [#改ページ]   第九章 重 祚      一 (帝が亡くなられた)  漢殿は全身の力が一気にゆるんでいくのを感じていた。  鎌子は黙って見つめている。 (もう、悩まずとも済むのだ。これで大手を振って、太陽の下を歩ける)  漢殿はほっとしていた。  人の死、それも帝の死を喜んではいけないのだが、どうしても嬉しさがこみ上げてくるのだ。 (よろしゅうございましたな)  鎌子も、その言葉を口にするのは憚られたが、心の中ではそう思っていた。  ひとしきり沈黙が続いた後、漢殿はぽつりと言った。 「兄君は、これから、どうされるのであろうな」  鎌子は答えなかった。  その兄、中大兄《なかのおおえ》皇子は、漢殿よりもさらに浮き浮きとした気持ちを押さえ切れなかった。  目の上の瘤《こぶ》ともいうべき邪魔者が死んだのだ。 (これで、晴れて皇位に即ける)  中大兄は、いったんはそう思ったが、冷静になって思い直した。  このまま天皇になれば、人は必ず中大兄の悪口を言うだろう。確かに帝は病死だが、帝を都に置き去りにするという前代未聞の手段で、その原因を作ったのは、中大兄自身なのである。  しかも、そのきっかけは、皇后との密通の露見である。このままでは世間の同情は亡くなった帝に集まり、中大兄が即位すれば、その同情が憎しみへと転化するだろう。 (まずい)  それはいかにもまずい。  かといって、他の者に皇位を渡すことはできない。  中大兄は皇太子である。亡き帝とは叔父・甥の関係だが、形の上では親子である。  いま別の者に皇位を譲って、自分がそのまま皇太子にとどまることは極めて難しい。皇位は皇太子が継ぐべきものであるし、もしそれができないなら、新帝が即位すると同時に、身を引くべきなのだ。  中大兄は困惑した。  そして、腹も立てた。  帝が死ねば、こうなることは予測がついた。それなのに、そのことにまったく気が付かなかった自分の間抜けさ加減に腹が立ったのである。  もし、自分が皇位を継がなかった場合、候補者は他にいるのか?  一人いる。  亡き帝の忘れ形見の有間《ありま》皇子である。  だが、この若い皇子に皇位を渡すことだけは、避けなければならなかった。  悶死に追い込まれた父のことで、自分を恨んでいるだろう。しかも有間の母|小足媛《おたらしひめ》は、見せしめのために殺した左大臣阿倍内麻呂の娘である。  有間にとってみれば、中大兄は、父と祖父の仇ということになる。  そんな有間を皇位に即けることは、極めて危険だ。有間は必ず復讐しようとするだろう。帝の悲業の死に同情する者が、有間の味方につくかもしれない。  中大兄はどうしてよいかわからず、宮廷の前庭で一人立ちつくしていた。  そこへ鎌子がやってきた。  中大兄の顔は輝いた。  こういう時は、鎌子の知恵を借りるのが一番いい。 「——どうする、鎌子」  中大兄は説明も何もせず、いきなり言った。  鎌子は勘よく悟って、すぐに頭を下げた。 「重祚して頂くことですな」 「ちょうそ?」  中大兄は聞き慣れぬ言葉に、説明を求めるように、まじまじと鎌子を見た。 「一度、帝の座を譲った御方が再び位に即くことでございます」 「何、それでは母上に?」  中大兄は、この大胆不敵な策に驚いた。  そんなことを考えつくのも、棄都を初めて唱えた鎌子こそであろう。  しかし、いかに鎌子の献策が見事であろうが、それを実行させるにあたっては、母の帝を説得しなければならない。それが出来なければ何事も始まらない。 (ははあ、こいつ、その事を頼みに来たか)  中大兄はそれを察した。      二 「おまえという子には呆れました」  母の帝は言った。  心底から呆れた表情である。  ここが宮殿内でなかったら、母の帝はもっと大きな声で叫んでいたかもしれない。 「お願い出来ますか」  蛙の面《つら》に水といった様子で、中大兄は言った。  母の帝はうなずいて、 「わかりました。それほど言うなら、もう一度、玉座についてもよい。ただし、条件がありますぞ」 「何なりと仰せください」  安心し、そう言った中大兄の顔が、次の瞬間大きくゆがんだ。  母の帝はこう言ったのである。 「漢《あや》の者を、皇族に列しなさい」 「なりませぬ」  中大兄はすぐに叫んだ。 「なぜです」 「知れたこと。申すまでもありません」 「わかりませんね。どうしてなのか理由《わけ》を言いなさい」  母の帝はあくまでとぼけた。  中大兄は怒って、 「あの者は異国《とつくに》の血を引く者ではありませんか、そのような者を皇族として迎え入れることなど出来ませぬ」 「はて、ならば、皇太子の身にて、帝のお命を狙うことも許されぬのではないか」 「——」 「どうだえ?」 「母上、それとこれとは——」  中大兄は抗議した。そもそも事柄の性質がまったく違うことではないのか。 「いいえ」  母の帝は今度は頑《かたくな》なまでに抵抗した。 「おまえが、どうしても認めないと言うのなら、勝手におし。帝でも何にでもなるがいい」 「それは出来ません。それが出来るくらいなら初めからお頼みは致しません」 「ならば、言うことを聞きなさい」 「——」 「それとも、有間に位を譲ろうか」 「滅相もない」  中大兄はあわてて叫んだ。  そんなことをされたら、下手をすると身の破滅だ。 「さあ、言うことを聞きなさい。たまには親孝行するものですよ」 「——」 「もう一度言います。これが最後ですよ。漢の者を皇族として迎え入れなさい。それが嫌なら、私は有間に位を譲ります」  中大兄は唇を噛みしめた。  だが、ここまで追い込まれては止むを得ない。 「——わかりました。仰せに従いましょう」 「おお、わかってくれたかえ」 「されど、一つだけ、条件があります」 「条件とは?」 「かの者を皇子《みこ》と呼ぶのは構いませぬが、皇位に即くことは許さぬと、母上じきじきにさとして頂きます」 「——」 「いかが」 「わかりました」  母の帝は大きくうなずいて、 「では、こちらにもまた条件が一つあります」 「何です?」 「そなたの娘を、漢の者に嫁がせなさい」 「えっ」  中大兄は耳を疑った。 「何故、そのようなことを」 「我が子ながら、そなたの言葉は信じられぬ。私が死ねば、あの者に何をするかわかりませぬからね」 「人質というわけですか」  中大兄は、ふて腐れたように言った。 「そう申した方がいいかもしれませぬ。とにかく、大田《おおた》と|※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野讃良《うののさらら》の二人を、漢の者に嫁がせなさい」 「二人もですか」  中大兄は驚いた。 「そうです」  断固として母の帝は言った。 「嫌なら、有間に位を譲ります」 「——わかりました」  中大兄は受けざるを得なかった。      三  先帝は、暮のあわただしい時期に、短い殯《もがり》の後に葬られた。  恨みを呑んで死んだ先帝の霊を恐れてのことである。  その極めて簡単な葬礼のあと、再び帝の座についた母|斉明《さいめい》天皇の即位式は、これまでにない豪華なものであった。  唐風の飾りをつけた輿《こし》で、新帝は正月三日、飛鳥板蓋宮《あすかいたぶきのみや》に入った。  その行列は、この国では例のない見事なものであった。  その輿に従う皇族の中に、漢殿の姿があった。  いや、もう「漢殿」ではない。  皇族昇格にあたって、母の帝は言った。 「これからは、大海人《おおあま》と名乗りなさい」 「大海人」  漢殿はいや大海人は、はじめて自分の名を自ら口にした。 「そうです、大海人皇子です。わらわを助けておくれ」 「はっ、命に替えましても」  大海人は誓った。  皇太子には中大兄が再任された。  このことこそ、母を二度目の玉座につかせる狙いだったのだから、中大兄は満足していた。  しかし、腹を立てていることもある。漢殿いや大海人が日の当たる場所に出てきてしまったことだ。  皇太子である中大兄に続いて、先帝の唯一の忘れ形見有間皇子、そしてその後にもう大海人皇子が続く。  いまの朝廷は、壮年の皇子が少ない。だから、「新参」の大海人が序列としては第三位に入ってしまう。 (油断ならぬ)  中大兄の表情は硬い。  油断ならぬといえば、有間もそうだ。  有間は、中大兄を憎んでいた。  当然である。中大兄もそれは重々知っている。 (有間を何とかせねば、こちらがやられるかもしれぬ)  母の帝の晴れの即位式だが、中大兄にとってはそれどころではない。  心の休まる時は、ますます減っていく。 (これが権力《ちから》というものか)  中大兄は、後に続く有間や大海人に、背中を見せて歩くのが苦痛にすら感じられた。  大海人は、そういう「兄」の苦渋が、最近わかるようになった。 (権力の座を得るのに、血を流し過ぎたのだ)  蘇我本宗家を倒したのは、止むを得ないことだったかもしれぬ。  しかし、その後に古人大兄《ふるひとのおおえ》皇子や石川麻呂、阿倍内麻呂を討ったこと、先帝を憤死させたことは余計だった。  多くの人間の恨みを買うようなやり方をすれば、その恨みにおびえねばならぬ。それは至極当然の話だ。  恨みといえば、その手先として多くの人々を討った大海人はどうか。  不思議なことに、直接の加害者であるにもかかわらず、大海人はあまり人の恨みを買っていなかった。  すべては中大兄の差し金、中大兄がすべて悪い、大海人はそのわがままの犠牲者だ、ということになっている。  何も大海人が画策したことではなかった。自然にそうなったのである。  大海人が先帝を殺さなかったこともよかった。  中大兄が大海人をして先帝を暗殺させようとしたことは、いまや公然の秘密であった。  それゆえに、大海人がその命令を実行しなかったことは、人々に好感を持たれた。  暗殺をしなかったことだけでなく、皇子でありながら皇子の待遇を受けられないことや、中大兄にいつも無理難題を押しつけられていることなど、同情を買ったのである。  人々の憎しみは大海人の体を素通りして、中大兄に集中している。  大海人はそのことでは、中大兄にいささか同情の念を抱くほどだった。 (それにしても)  こういう立場になれたのも、あの笠の男のおかげであった。もし、あの時、あの笠の男に制止されていなかったら——。  大海人は、まちがいなく先帝を殺していただろう。  大逆の血で汚れた手は、いかなることがあっても浄《きよ》めることはできない。  おそらく、そうなれば、皇族になることもできなかったろう。母の帝とて、実の弟である先帝に直接手を下した人間を、中大兄の猛反対を押し切ってまで、皇族にしたとは思えない。  また、有間皇子にも恨まれただろう。  有間は、むしろ自分に好意を持っているらしい。  どうしてそうなのか。  有間は、大海人が中大兄の命令を蹴飛ばしたと思い込んでいるのだ。  実際はそうではない。  大海人は笠の男に止められなければ、確実に先帝を殺していたのだ。 (ありがたい)  大海人はあらためて感謝した。  笠の男は、まぎれもなく父であろう。 (父上、私は父の名も知らぬ不肖の子ではありますが、父上の御恩は生涯忘れませぬ)  大海人はふと、今も父が自分のことを見守ってくれているような気がした。  あたりを見回した。 (あっ)  大海人は、飛鳥盆地を見おろす甘橿丘《あまかしのおか》の上に、黒駒にまたがった笠の男を見つけた。 (父上だ)  思わず大海人は立ち止まった。  行列が乱れた。  廷臣が注意しにやって来た。 「皇子様、大切な儀式でございますぞ」 「す、すまぬ」  大海人はあわてて列に戻ると、それでも丘の上をちらちらと見た。  まちがいない。  かなりの遠目だが、笠の男は、明らかにあの時の男だった。 (母上の即位式を陰ながら見守っておられるのだ)  大海人は気付いた。  駆けて行きたいところだが、どうしようもない。  儀式の場を離れることはできないし、仮に馬をとばしても、父はそれを見て駆け去ってしまうだろう。  そのうちに、他の人々も、丘の上の男の存在に気付いた。 「何者だ、無礼な奴」 「馬から降りず、笠も取らずに帝を見下ろすとは」  口々にそんな声があがった。 「あの者を引っ捕えよ」  中大兄が叫んだ。 「お待ちなさい」  ぴしゃりと制止したのは、やはり母の帝であった。  輿の上から帝は静かに言った。 「あれは、おそらく化生《けしよう》の者でしょう。放っておきなさい。すぐに消えます」 「しかし——」  中大兄は抗議しようとした。 「いいのです」  その通りだった。  自分の存在が気付かれたことを知った笠の男は、馬に一鞭くれて去った。  その馬の速さに、一同は瞠目した。 「竜馬《りようば》じゃ、あれは」  そんな声がした。 (せめて虫麻呂が近くにいたら、後を追わせるのだが)  この晴れの儀式に、しかも身を隠す場所のない宮廷の庭に、虫麻呂を控えさせておくことは不可能だった。 (父上、今度はいつお会いできるのですか)  万感の思いを込めて、大海人は父の去った方角を見ていた。      四  有間が反乱を起こした。  中大兄が都を留守にした隙を狙ってのことだった。  盟友として全幅の信頼を置いていた蘇我赤兄が、これこそ好機と反乱をそそのかしたのである。  もちろん、それは中大兄の仕掛けた罠だった。  赤兄は中大兄の意を受けて、有間のふところに入り込んでいたのである。  有間は兵を召集する直前に捕えられ、中大兄のもとに引きずり出された。  都を留守にしたはずの中大兄は、冷やかに有間を見下ろして言った。 「朝廷に反旗をひるがえすとは、天も許さぬ所業であるぞ。申し開きがあるか」  事ここに至っては、有間も自分が罠にはめられたことを悟らざるを得なかった。 「——このことは、天と、それから赤兄が知っている。わたしの知るところではない」  有間はそう言って、あとは一切口を開こうとしなかった。そして、有間は「自殺」という形で処刑された。  大海人は中大兄の酷薄なやり方に慄然とした。  その中大兄のまだ少女《おとめ》といっていい娘が、大海人のもとへやってくることになった。正式な妻としてである。  初めこの話を聞いた時、大海人は顔色を変えて辞退した。 「なりませぬ」  母の帝は厳しく言った。 「わたくしには既に額田《ぬかた》と申す妻がおります。子もいます」 「わかっています。だが、これは、おまえと中大兄との長いむつみのためなのですよ」 「——」 「わらわもそう長くない」 「何をおっしゃいます」 「気休めは言わなくともよい。わらわはもう六十を越えています。いつこの世を去っても不思議はない」 「——」 「だからこそ、おまえたち兄弟の長いむつみを願うのです。そのためには、これが一番いい」  大海人は反論する言葉を失った。 「何を黙っているのです。おまえも妻は一人ではないはず。額田の他にも子を生ませた女がいると聞いていますよ。ちがいますか」 「それは、仰せの通りですが」  額田との間には十市《とおちの》皇女《ひめみこ》、その他に高市《たけち》皇子を別の女に生ませている。  男の子は、いまのところ高市皇子だけだ。 「十市はいずれ中大兄の息子の大友皇子に嫁がせるがよい」  母の帝は、また意外なことを言った。 「そこまでせねばなりませんか」 「そうしなさい。それでこそ、わらわも安心して目をつぶることができます」  否も応もなかった。  こうして、大田《おおた》・|※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野讃良《うののさらら》の姉妹が大海人のもとへ嫁いできた。  といっても妹の※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野はまだ十一歳だった。姉の大田は十四歳である。  二人はまったく違う性格の持ち主だった。  二人が初めて大海人のもとに来た時、大海人は二人に引出物を与えた。  姉の大田には絹布を、妹の※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野には鞠《まり》を。  だが、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野はすぐに姉におねだりした。 「姉上、これを頂けませぬか」  大海人が大田に与えた絹布は、新羅渡来の極上の品であった。  大田はちょっと困った顔をしたが、すぐに微笑《ほほえ》んだ。 「いいわ、あげましょう」 「わあ、うれしい」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は、まるで引ったくるようにして、それを奪い、小さな胸に抱きしめた。 「よいのか」  大海人は大田に言った。 「はい」  大田はきっぱりと答えた。 「そんなことでは、何もかも妹に取られてしまうぞ」  大海人は笑った。 「いいのです。可愛い妹なのですから——」  大田は、喜んでいる※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野を目を細めて見ていた。  額田の方は心中おだやかでなかった。若い、身分の高い娘が、二人も妻としてやってきたのだ。 「どうして、お断わりなさらなかったのです」  そう言って額田は何度も大海人を責めた。 「やむを得なかったのだ」  大海人はうんざりしていた。  自分も乗り気ではなかった。  しかし、母の言い分はもっともなのである。 「兄君は、わたしをこころよくは思っていない。こうでもしない限り、この身が危ないと御心配くだされたのだ」  そんなことはわかっている。  額田も理屈ではわかっているのだが、現実に夫が若い娘と楽しげに談笑しているのを見ると、頭に血がのぼってしまうのであった。 「ならば、もっと嫌な顔をなさいませ」 「嫌な顔?」 「そうです、もっと邪険になされば」  額田は眉をつりあげて言った。 「馬鹿な」  大海人は嘆息した。 「そんなことをしたら、母上の御厚志が無駄になるではないか」  中大兄との長い友好のために、二人は来たのである。  それをいじめたりしたら、せっかくの縁が無駄になる。 「御厚志ですか、よろしいわね、殿方は」  額田は、なおも言った。 「いい加減にせよ」  大海人は怒鳴りつけた。  今度は、額田はわっと泣き出した。 (女とは困ったものだ)  大海人は邸を出た。馬で遠乗りでもして気を晴らそうと思ったのである。  飛鳥の村に春が訪れようとしていた。 (ようやく皇族の仲間入りをすることができたか)  考えてみれば長い道のりであった。  帝の血を引きながら、皇族の礼遇は受けられず、かといって平民としての自由な暮らしもままならぬ不自由な日々。  その重苦しい日々から、一気に解放されたのだ。  もっとも額田の嫉妬という余分なものは増えたが。 (どこへ行くかな)  あてのないのが遠乗りの醍醐味である。  女のところといっても、額田以外には、高市を生んだ尼子娘《あまこのいらつめ》しかいない。しかし彼女は高市を生んだばかりで、まだ回復はしていない。子供の顔を見るのもいいが、何となく億劫だ。 (槍を持ってくればよかったな)  槍があれば鍛錬はできる。  しかし、遠くへ行くなら槍は邪魔になる。  邸を出るときに、鍛錬をするのか遠乗りだけにするのか、はっきりと決めてくればよかったのだ。 (虫麻呂に命じて、持って来させるか)  それほどのことも無い気がした。  それなら邸に帰り、庭でやった方がましだ。 (あの娘たちに、槍の稽古などを見せたら、恐ろしさのあまり泣き出してしまうかもしれんな)  大海人は苦笑した。 (さて、どうする)  足の向くまま、大海人は駒を二上山《ふたかみやま》の方へ進めた。都からは少し離れるが、眺めのいい場所である。  だが、大海人は二上山までは行くことができなかった。  都を一歩出たところで、数人の男に取り囲まれたのである。  男たちは手に手に刀や矛《ほこ》を持っている。中には投網《とあみ》のようなものを持っているのもいる。 「何者だ」  答えはなかった。  その代りに、騎乗の大海人を取り囲むようにして、包囲の輪をじりじりとせばめてきた。 「物|盗《と》りか!」  そう叫んだ大海人自身、これは野盗の類いではないことに気がついていた。  得意の槍はない。腰の長剣の柄に手をかけた。 「名乗る名はないようだな」  大海人が冷やかに浴びせると、一人の男が斬りかかってきた。  その刃風の強さに、大海人は戦慄した。 (こやつら、わたしの命を狙っている)  大海人は手綱を左手で握り、右手で剣を抜いて、血路を開こうとした。  馬が突然、鋭く嘶《いなな》いた。  暴漢の一人が、大海人の馬の尻を刺したのだ。  馬は棹立ちになった。 (いかん)  片手に剣を握っているのだから、どうしようもなかった。大海人は放り出され、強く腰を打った。  激痛に気が遠くなった。 「命をもらう」  暴漢たちは口々にそう叫び、殺到してきた。  その最初の攻撃を、大海人はかろうじて自らの剣で受けとめた。だが、その隙を狙って、矛が大海人の右の二の腕を傷付けた。  大海人は、たまらず剣を落とした。 「もらった」  目の前の男が喊声をあげて刀を大上段にふりかぶった。 (だめだ、やられる)大海人は観念して目を閉じた。      五  突然、その時に、刀を振り上げた男がけものじみた声をあげた。 (——!?)  一旦は死を覚悟した大海人だが、その頭上に刺客の刃はついに振り下ろされなかった。 (何が起こったのだ!?)  その疑問は、すぐに解けた。  刺客は前のめりにゆっくりと倒れてきた。  大海人は体を動かした。  大地に倒れ伏した刺客の背中には、太い矢が深々と突き刺さっていた。  他の刺客たちが驚きに我を忘れたところへ、矢が次々に飛来した。  たちまち二人が倒れ、三人が傷付いた。 「逃げろ!」  男たちは口々に叫んで、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。  大海人は剣を拾って立ち上がった。そこへ、武装し鎧を身につけた数騎の男たちが近付いてきた。  騎乗の男たちは、大海人の近くまで来ると先頭の男の指示で一斉に馬を降り、大地に跪《ひざまず》いた。 「何者だ」  指揮を取る男はまだ若かった。  頭を剃り立てている。  眉は薄く目は細い。が、全体に精気がみなぎっている。 「わたくしは道行《どうぎよう》と申します」  男は言った。 「道行? 法師か?」  大海人はもう落ち着きを取り戻していた。 「仰せの通りにございます」  道行は答えた。 「この者たちは?」  大海人は、道行の背後に控えている武装した男たちのことを問うた。  数えてみると七人いる。 「わたくしの配下にございます」  大海人は、ふっと笑って、 「近頃の法師には、剣や弓を持った配下がいるのか」 「——」  道行は顔を伏せた。  大海人はあらためて観察した。  道行たちの身につけている武具は、この大和のものとは微妙に違っていた。  そして弓の形に、大海人はかすかな記憶があった。 「そなたは新羅の者だな」  大海人は決めつけた。 「はい」  顔を上げて道行は認めた。 「帰化人か」 「いえ」  道行は大きく首を振った。 「——?」 「この国に住まいは致しておりますが、心は母の国にございます。したがって帰化とは申せますまい」  道行は、ほとんど抑揚のない声でそう言った。 「なるほど、心は常に新羅にあり、か」  大海人は次々に疑問がわいてきた。 「先程、わしを襲ったのは何者だ?」 「おそらくは百済の手の者、百済の者に雇われた者でございましょう」  道行は淀みなく答えた。 「百済? なぜ百済がわしを狙う?」  大海人は首を傾《かし》げた。  道行は大海人の目を正視して、 「おわかりのはずでございます」 「——」  大海人は言葉に詰った。ややあって、 「わしが新羅の血を引く者だからか?」  大海人の言葉に、道行は黙ってうなずいた。 「だが、それにしても、わしを狙うとは——」  やり過ぎではないのか、と大海人は言いたかった。  仮にも皇子の身である大海人を、異国人が討てば大問題になる。友好が損なわれるどころではない、下手をすれば戦争だ。 「それゆえ、この国の者を使ったのでしょう。物盗りの仕業に見せかければ、何事もうまく行くと踏んだのでございましょう」 「そうまでして、何故にわしを亡き者にしたい?」 「わが新羅と百済は長年の宿敵。今も海の向うでは戦《いくさ》が続けられております」 「だが、それは海の向うのことであろう」 「この国がどちらに味方するかで、勝敗は決まります」  道行は言った。 「それで、わしを狙ったというのか——」  大海人は嘆息した。  迷惑である。  大海人にとっては、新羅が勝とうが百済が勝とうが、どうでもいいことである。 「兄」の中大兄は百済を好み新羅を嫌っているが、大海人は正直どちらでもいい。  確かに父は新羅人かもしれない。  しかし、それだけのことで、大海人には新羅に対して深い思い入れはない。  だが、道行は次に思いがけぬことを言った。 「わが国王も、皇子様には格別の思し召しがございます」 「なにをたわけたことを」  大海人は、せせら笑った。 「——新羅国王ともあろう御方が、わしのことなど知るはずはないではないか」  そう思うのも当然である。  海の向うに住んでいる王が、皇族でもなかった自分のことなど知るはずがないだろう。 「いえ、仰せられております。——いつの日か桃樹の下で酒を酌み交したいものだ、と」 「なに」  大海人は愕然とした。  その言葉には、確かに覚えがあったのである。 [#改ページ]   第十章 新羅の男      一  その男が日本にやって来たのは、八年前の大化三年のことである。新羅の王族という触れ込みであった。  新羅は日本に朝貢している。したがって人質も寄こすべきだというのが、朝廷の主張であり、その主張を受ける形で男が「質」として来日したのである。  しかし、男は自分が「質」のつもりは毛頭なかった。  むしろ、日本という国が「改新」という革命のなかで、どのような道を歩もうとしているか、それが自国にとっていいことか悪いことか、それを見極めることを考えていたのである。  男の名は金春秋《きんしゆんじゆう》といった。  春秋は王族の一員ではあるが、王子ではない。背が高く均整のとれた身体《からだ》を持ち、顔には気品があふれ、そのおだやかだが明晰な話しぶりは、この国の宮廷でも賞賛のまとになったほどである。  現に、中大兄もこの春秋にはいたく魅せられ、帰化して朝廷に仕えることを勧めたほどである。  春秋は国際通であった。  北に高句麗《こうくり》、西に百済《くだら》という二大強国に圧迫され続けた春秋の頭にあるのは、祖国新羅をどのようにして救うか、ということである。  日本に来る前に、春秋は高句麗へおもむいた。  むしろ百済と仲のいい高句麗を、自国の方へ引き寄せるためである。  この試みは失敗した。高句麗は既に百済との同盟を固め、新羅を討つ方針が決まっていた。  高句麗は春秋を囚繋した。  その絶体絶命の危機を策によって見事に脱出した春秋は、今度は「質」の名目で日本を偵察に来たのである。  もちろん、中大兄も大海人も、当時はそんなことはまったく知らなかった。ただ、春秋と大海人は、何となく気が合ったことも事実である。 「漢殿《あやどの》、今度拙宅にお越し下さらぬか。桃の花が見事に咲いておりまする」  春秋から微笑を浮かべて誘われたこともある——。 「あの金殿が、王になられた、と?」  大海人は意外な面持ちでたずねた。 「はい」  道行は答えた。 「だが、金殿は確か王子ではなかったはず」 「仰せの通りにございます」 「その金殿が、何故、王になられた」 「奇《く》しき宿縁と申しましょうか。いえ、時があの御方を呼ばれたのでしょう」 「時が——」  新羅の国が高句麗・百済の圧迫を受け、亡国の危機にあることは、大海人とて知らないわけではない。 (そうか、まさに危急存亡の秋《とき》、その器量にふさわしい者が王となったのだ)  大海人は春秋をうらやんだ。  日本はそういうことはない。  ただ、前帝の濃い血縁の者が、次の帝になるだけだ。 「——王は、皇子様のことを懐かしげに思し召され、一度心ゆくまで桃樹の下で酒を酌み交したかったと、仰せられておりました」 「そなたは王に会ったのか」  大海人はたずねた。 「はい、それどころか、この国に拙僧を差し向けられたのは、あの御方なのでございます」  道行の答えに大海人は、はっと気付いた。 「そうか、そなたは新羅の諜者《ちようじや》なのだな」 「御明察にございます」  道行は頭を下げた。      二  大海人は道行らに守られて、館に帰ることができた。  ただならぬ気配に、虫麻呂があわててすっ飛んできた。 「いかがなされました。あっ、その傷は?」  虫麻呂は大海人の手を見て、顔色を変えた。 「大事ない、かすり傷だ」  大海人は言い、道行の方を振り返って、 「それより引き合わせておこう。新羅の道行殿だ」 「新羅の——」  虫麻呂は馬上の男を、油断なく見つめた。 「これは、わしの子飼いの者でな。目と耳と思っていただいてよい。虫麻呂だ」  大海人の言葉に、虫麻呂も頭を下げて、 「虫麻呂でござる」 「道行にござる」  道行は、わざわざ馬から降りて、あいさつした。配下の者もそれにならった。 「では、本日はこれにておいとま致しまする」  道行は頭を下げた。 「うむ、重ねて礼を言う。きょうはそなたのおかげで命を拾った」  大海人も馬から降りた。  虫麻呂が驚いて、大海人の顔を物問いたげに見た。  大海人はそれにはかまわず道行に、 「ところで、そなたの頭《かしら》はどこにいる」 「はあ?」 「頭だ。そなたの上に立つ者がおろう」 「それは海の向うの——」 「いや、この国にもいるはずだ。たとえば、笠の好きな御方とかな」 「そのような御方は存じませぬな」  道行は顔色一つ変えずに答えた。  大海人は笑みを浮かべて、 「よかろう、きょうはそういうことにしておこう」 「では、これにておいとま致します」  道行たちは去った。  その姿が辻を曲って消えると、虫麻呂はただちに言った。 「皇子様、一体どうなされたのです」 「それより、今の一行のあとを尾《つ》けろ」  大海人は別人のように厳しい表情で言った。 「道行殿をでございますか」 「そうだ。あの者の本拠をつきとめよ。そこにはおそらく、頭がいるはず。その者の正体をさぐれ」 「かしこまりました」  虫麻呂は走り去った。  大海人は館の中に入った。  手に傷を負っている。  それを見て、妻の額田《ぬかた》が悲鳴を上げた。 「大事ない」  大海人は再び言い、居室にそのまま入った。  額田は後を追ってきた。 「大事ないと言ったではないか。傷は既に新羅の——医師《くすし》が手当てをしてくれた」  医師と言ったのは安心させるためで、本当は手当てをしてくれたのは道行だった。  ただ、それは唐《から》渡りの金瘡《きんそう》の薬を使った見事なもので、朝廷に仕える医師に頼んだとしても、おそらくそれ以上の手当てはできなかったろう。  そもそも、仏僧は医師を兼ねることが多いし、朝廷にはべる医師も、ほとんどが海の向うから招かれた人々である。 「そんなことではありません」  額田は言った。 「傷も気がかりですが、そもそも、どうして傷を負われたのか、そのことを案じているのです」 「ならば、そんなきつい顔をするな」  大海人は笑ってたしなめた。 「きつい顔にもなります。あなた,一体どうなさったのです?」 「一人で遠乗りに出たところを襲われた、数人の男にな。——なんとか切り抜けたが、手傷を負った。それだけのことだ」  大海人は出来るだけおだやかに言った。  額田は一転して蒼白になり、 「まさか——」  と、思わず言いかけて言葉を呑み込んだ。 「まさか、何だ?」  大海人はけげんな顔をした。 「いえ、よろしいのです」  額田はあわてて首を振った。 「なんだ、気になるではないか。まさか、どうしたと申すのじゃ」 「——」 「かまわぬ、申せ」 「皇太子様が——」  額田は消え入りそうな声で、それだけ言った。 「皇太子様が?」  その名を口にして、大海人もようやく気が付いた。  額田は、中大兄が大海人を狙わせたのではないか、と疑っているのだ。 「それはあるまい」  大海人は自信をもって言った。 「どうして言い切れます」  額田はまだ疑いの目を向けている。 「それは——」  言いかけて大海人は、その可能性も少なくないことに、あらためて気が付いた。 (「兄」はわたしを憎んでいる。皇統に列することに最後まで反対したのも、あの「兄」だ)  腹立ちまぎれに自分を狙う。考えられないことではない。 (いや、あれは百済の手の者だ。現に、道行もそう言っていた)  大海人は心の中で打ち消しながらも、こみあげてくる不安をどうすることもできなかった。      三  虫麻呂は道行を追っていた。  道行らは道を北西にとった。  甘橿丘を越え、飛鳥川に沿ってしばらく走ったかと思うと、今度は道を西に転じた。  竹の内街道である。 (これでは二上山へ行ってしまうぞ)  だが、一行はその直前で北上し、近くの山に入った。  このあたりには、あまり人は住んでいない。だが、その山に、一行は騎馬のまま分け入っていく。  ちょうど馬の鞍のような形をした山で、しかも全山岩で出来ている。もちろん緑の木々もあるが、全体的には殺風景な山である。  ところが驚いたことに、その中腹に道が続き、たどっていったところに岩塊を背にした大きな寺が建っていた。 (いつの間に、こんなところに)  虫麻呂は自分の目を疑った。  山一つ越えれば河内国とはいえ、ここはまだ大和のうちなのである。  その大和の、しかも山の中腹に、このような建物があるとは信じられない。  だが、それは実在した。ここが、新羅人たちの巣窟であることは明かなことだった。  虫麻呂は夜になるのを待って、建物の中に忍び込んだ。  中は小規模ながら、都の寺院と比べても見劣りしない。  その本尊仏の前に一人の男が座って、道行たちと何やら話しこんでいた。 (あれは、もしや、大殿?)  天井裏からのぞきこんでいた虫麻呂は、首領の顔を確かめようと、一歩前へ出た。  その途端、鳴子《なるこ》がからからと鳴った。 (しまった)  まさか、こんな天井裏にまで鳴子が仕掛けられているとは、思いもよらぬことだった。  だいたい天井裏のある建物など、この国にはいくつもない。だから、当然なのだが、虫麻呂は、そこにはまったくの無警戒であった。  これほどまでに用心しているとは、虫麻呂は思わなかった。しかも、あとで気が付いたことだが、鳴子は人の毛髪をより合わせた紐につるされており、極めて目に見えにくくなっていた。  虫麻呂は逃げようとした。  だが、何という不覚だろう。  一歩前に出たところの天井板を、虫麻呂は踏み抜いてしまったのである。 (そうか、切り込みが入れてあるのだ)  気が付いた時は後の祭りだった。 「動くな、動けば矢を射かけるぞ」  道行の声がした。 「殺すでない。けがをさせてもならぬぞ」  太く、それでいて澄み切った懐かしい声だ。 (ああ、やっぱり)  虫麻呂は観念して、抵抗をやめた。  道行の配下によって、虫麻呂は縛《いまし》められ、首領の前に引き出された。 「これ、虫麻呂、この不覚は何としたことじゃ」  首領の声には、からかうような調子があった。  それでいて悪意はない。  虫麻呂は顔を上げて、首領の顔を確認した。 「——お懐かしゅうございます。大殿様」  道行たちが、びっくりしたように虫麻呂の方を見た。  首領は、この国の物ではない礼服を着ていた。ただし髪は総髪で、冠はつけていない。 「上で鳴子が鳴った時から、そうではないかと思っていた。しかし、足を踏み抜くとは、情けないのう、虫麻呂」 「はっ、何とも、面目次第もございません」  虫麻呂は赤面して頭を下げた。 「縛めを解いてやるがよい」  首領は道行に命じた。 「はっ? それでよろしいので」  道行は呆気《あつけ》にとられていた。 「この者はな、わしが初めてこの国に来た時、幼少の身で捨て子にされていたのを拾い上げ、諜者として手塩にかけて育てた者だ。——よいから、解いてやれ」 「はっ」  道行は縄を解いた。 「——虫麻呂殿、御無礼した」 「そちも不覚だぞ。そもそも後を尾《つ》けられることを、どうして考えなかった」  首領は今度は、真面目な口調で言った。 「はっ、申しわけありません。沙《さ》|※[#「冫+食」、unicode98e1]《さん》様」  道行は平伏した。 「それにしても、さすがに、わが子だ。すぐに後を追わせるとは」  首領の顔がほころんだ。  虫麻呂は首領の顔をながめていた。  虫麻呂にとっては師であり、育ての父でもある人なのだ。  その大殿がこんな近くにいたとは。 (お別れして、もう何年になるか)  あれは、今の女帝と、この首領の間に男の子がいることが露見した時である。  二人は泣く泣く別れさせられ、その子は帰化人の漢《あや》の一族に預けられた。  その時、唯一の臣として付いていったのが、虫麻呂である。もっとも臣とはいっても、まだ虫麻呂は少年だったのだが。 「怠りなく勤めておるようだな、礼を言うぞ」  首領は言った。 「いえ、とんでもございませぬ」  と、虫麻呂は手をついて、 「このたびは、わが懈怠《けたい》をこちらの道行殿に助けて頂き、お礼の申し上げようもございません」 「なに、気にするでない」  首領はその点にはかかわらず、 「ところで、虫麻呂。かの皇子殿はわしのことを知ったのか?」  と、膝を乗り出した。 「いえ、詳しくは御存じではございますまい」  虫麻呂は答えた。 「わしの名をたずねたりせぬか?」 「はあ、そういうこともございましたが、わたくし、幼い頃のこととて何も知らぬと申し上げております。——大殿様のお命じになった通り」 「そうか、それはよい」  首領は腕を組んで、 「だが、いつまでもその手はきくまい」 「——」 「わしも、ここ二十年近く、表には姿を現さぬつもりだったが、ここへ来てはやむを得ぬ」 「と、仰せられるのは?」  虫麻呂の問いに、首領は腕組みしたまま、 「虫麻呂、心得ておけ」 「はっ」 「ここ数年のうちに、韓《から》の国は一つになる」  首領は断言した。 「まことに?」 「うむ、まことのことじゃ」 「どういう形で、一つになるのでございますか」 「さて、そこよ」  首領はからからと笑った。 「わしは新羅の者、ゆえに新羅が韓をまとめればよいと思っておる。だが、世の中は思い通りにはいかぬ」 「百済、それに高句麗」  虫麻呂は国名を挙げた。 「そうだ。だが、そなたも知っての通り、新羅・百済・高句麗の三国がたがいに覇権を争っておった。ところが、その形が崩されようとしておるのだ」 「何故に?」 「唐よ」  首領は苦々しげに、 「あの国は、韓の国をすべて奪う気でおる。だが、あの恐ろしく強く大きな国を相手とするためには、こちらもよほどの覚悟をしなければならぬ」 「——」  虫麻呂は黙って、かつての主人の言葉を聞いていた。  道行たちも耳を傾けている。 「わが国の取るべき道は既に決した」  首領は宣言した。 「唐と手を組み、百済・高句麗を討つ。これがわれらが国王のお決めになった道なのだ」      四 (百済は必ず滅ぼす)  新羅王金春秋(武烈《ぶれつ》王)は心に誓っていた。  新羅は、西に百済、北に高句麗という強国に囲まれている。  このところ十数年も、新羅は百済と高句麗との連携に悩まされていた。  同盟というほどのことはないが、この二国が二つとも新羅に背を向けていることは、新羅にとって相当につらいことだった。  この状況を打開するため、春秋は高句麗へ行き、また日本へも行った。  高句麗へ行ったのは、かの国と百済の友好関係に終止符を打たせて新たに自国との友好関係を築くためであり、日本へ行ったのは、大化改新体制の偵察のためであった。  これは、見事に失敗した。  高句麗は、唐との長い戦いの間に、新羅が高句麗の南の領土を奪い取ったことを、恨みに思っていたのである。  春秋は監禁されたが、命からがら脱出した。  百済には、恨みがある。  国境の城大耶において、春秋の娘夫婦は百済兵に殺された。春秋はこの遺骨を都へ迎え、報復を誓った。  その憎しみは、ついに大国唐の力を借りて百済を討つというところまで昇りつめた。  もちろん、それが極めて危険な賭けであることはわかっている。  唐の高宗皇帝は、春秋の申し入れを喜んで受けた。もちろん、まず新羅を手先に使って百済を、そしてあわよくば高句麗を滅ぼし、最後は新羅を滅ぼして、韓の国をすべて唐の領土に組み入れようというのである。  それは、唐の常套手段である。  だから、唐の介入を招くことは、韓民族の存亡にかかわる決断なのだ。  それでも、春秋は決意した。  憎しみからばかりではない。このままでは、祖国が危ないからだ。  春秋は、このところ体の衰えを覚えていた。しかし、百済を滅ぼすまでは死ねないと思う。  唐の高宗は、左武衛大将軍として蘇定方《そていほう》に十三万の大軍を授け、新羅に派遣した。そして春秋は、最も信頼し妻の兄でもある金《きん》|※[#「广<臾」、unicode5ebe]信《ゆしん》将軍に五万の兵を与えて、唐軍と合わせ、百済を攻め立てさせた。  ※[#「广<臾」、unicode5ebe]信は期待にそむかなかった。  黄山の戦いで、百済の名将|※[#「土+皆」、unicode5826]伯《かいはく》を破り、全軍怒濤のごとく百済の首都|扶余《ふよ》に侵入した。  これに対して、百済の義慈《ぎじ》王は、かつては名君であったが、今や酒に溺れて忠臣を遠ざけ、佞臣を近付けていた。  佞臣たちの作戦は、愚策の連続だった。名将※[#「土+皆」、unicode5826]伯をむざむざ死なせたばかりか、やすやすと敵に首都への侵入を許した。  義慈王は、今はこれまでと、家族や後宮の美女たちを王城に残して、少数の家臣と共に山へ逃げた。  取り残された美女三千人は、王城の裏山から下を流れる白馬江《はくばこう》に向かって次々と身を投げ、死んだ。  義慈王は、命が惜しくなって、息子の太子|隆《りゆう》を新羅の陣中に送り、降伏を申し出た。  応対に出たのは、春秋の息子|法敏《ほうびん》である。  法敏は隆を土下座させ、その顔に唾を吐きかけた。 「おのれの父は、わが妹夫婦を策略によって死に至らしめた。もう二十年近くも前のことだが、わしもわが父も忘れていない。よいか、おのれの命はわが手中にあるのだ」  隆は大地に頭をつけて、じっと嵐の去るのを待った。  この屈辱は、予想されたことだ。  だからこそ父義慈王は、自身で行かず太子を差し向けたのである。 (耐えることだ。法敏はわしの命を奪うことはできない)  それには、確信があった。  唐が、それを許さない。  唐にしてみれば、百済の王族を捕虜として受け入れておくことは、何かの時に役立つという計算があるはずだ。  法敏も、それは知っていた。 「この、ウジ虫め、何とか言ったらどうだ」  法敏には、隆を挑発し、激高して抵抗したところを斬るという狙いがあった。  しかし、隆はひたすらに耐えた。  結局、義慈王と太子隆は、唐の首都長安へ捕虜として護送されることになった。 [#改ページ]   第十一章 決 断      一  百済、滅亡す。  その知らせは、大和朝廷を震撼《しんかん》させた。  皇太子|中大兄《なかのおおえ》は初め非公式にもたらされた凶報を、なかなか信じようとしなかった。  だが、九月になって、当の百済から滅亡を伝える使者がやってきた時は、さすがに信じないわけにはいかなかった。  中大兄は、母の帝、そして大海人《おおあま》や鎌子《かまこ》たちと共に、その報告を聞いた。 「おのれ、新羅め」  中大兄は、怒りに髪を逆立てた。 「きゃつらは、魂を唐に売った売国の徒と申せましょう」  驚きに顔を蒼白にしている母の帝に向かって、中大兄はきっぱりと言い切った。  その怒りのすさまじさに気押されて、誰一人、何も言おうとはしなかった。  母は黙って、息子の中大兄を見た。  ここで、帝としては何か言わねばならない。  百済の使者も来ている。  この国の王者として、何か言わねばならないのだ。  中大兄は、新羅を糾弾する一言を、母の、いや帝の口から言わせたかった。  とにかく、一言でも言わせてしまえば、日本の態度は固まるのだ。  母の視線は、鎌子から大海人へ移動し、そこで止まった。 (おまえはどう思います?)  その目は、大海人にそうたずねていた。  大海人はためらった。 (確かに百済の滅亡は悲しいことだし、新羅のやり口は許せぬ。しかし、だからといって、軽率に新羅を非難していいものだろうか)  そうすべきではない、と大海人は思った。  王者たるもの、贔屓《ひいき》によって動かされるべきではない。王者が判断を誤れば、それは国の存亡にかかわるのである。 (やはり、申し上げるべきだ)  大海人は口を開こうとした。その時、 「新羅贔屓だからな、そなたは」  中大兄だった。  有無を言わせぬ言い方だった。 「贔屓のある者は、正しく弁じることはできぬ」 「——」  大海人は沈黙した。 (兄上こそ、百済贔屓で物を見ておられるではないか)  そう言いたいのはやまやまだが、どうしても言えない。  それはやはり、長い間、日陰の身として育った大海人の気遅れというものだったろうか。 「百済は、悪の手によって滅ぼされた。ここは何が何でも百済を助けるべきではございませぬか」  中大兄は、女帝にせまった。 「——そのようだ」  女帝は、か細い声で言った。  その声は聞こえたが、あえて中大兄は言った。 「仰せがよく聞き取れませぬ。もう一度、お願い致します」  女帝は不快げに眉をひそめたが、もう一度言った。 「百済を助けるべきじゃ、と申したのだ」 「ははっ、まことにごもっともな仰せ」 「皇太子《ひつぎのみこ》様」  それまで黙って聞いていた鎌子が、たまりかねて前に出た。 「何だ?」 「難儀している者を助けるのは当然ではござりますが、このたびはその価値がありますかどうか」 「何、何を申す?」  中大兄は、不快そうに言った。 「百済を助ける、と仰せられますが、百済は既に滅び、国王、太子ともに唐の捕虜になったということではございませんか。いまさら助けると仰せられても、何をどう助けるのでございますか」  鎌子は、諄々と説いた。 「決まっておるわ。われらは、百済の復興を助けるのよ。亡国を再び建国しなおすのだ」 「その中心となる御方は、おられぬではございませんか」 「いる」  中大兄は叫んだ。 「どなたで?」  鎌子は首を傾《かし》げた。  百済の王族は、もういないのである。 「いるではないか、豊《ほう》どのよ」  一同は、あっと驚いた。      二  中大兄は、三輪山のふもとの余豊璋《よほうしよう》の館におもむいた。  余人を遠ざけると、中大兄は緊張した面持ちで、豊璋の祖国百済の滅亡を告げた。  豊璋は、驚きを見せなかった。  中大兄は、拍子抜けした。  驚愕し、泣き出すかもしれない。もしそうなったら、何と言って慰めるべきか、さんざん考えてきたのだ。  しかし、豊璋は、さすがに笑いはしなかったものの、たいして表情も変えずに二、三度うなずくのみだった。 「知っていたのか?」 「——はい、国の者から聞きました」 「そうか。何と言って慰めたらいいのか、わからないが——」 「いえ、わたくしは何とも思っておりませぬ」  豊璋は言った。  中大兄は目を丸くして、 「まさか、そなたの国が滅びたのだぞ」  豊璋は笑みすら浮かべて、 「わたくしの国、それはむしろこの日本でございます」 「ほう、そういうものか」 「はい、わたくしは幼い頃より、この国で暮しております。今では、百済の言葉すらあやふやになる始末。わたくしの故郷はここでございます」 「——」 「これは、あなた様ゆえ申し上げますが、わたくしは今、いっそせいせいした思いでございます」 「せいせいしたとな」 「はい」 「わからぬのう」  中大兄は首をひねった。 「なまじ国があれば、いつまでも縁は切れませぬ。国の人も何かと申します。しかし、国が無くなってしまえば、わたくしもそのことを気にせずともすむ」 「しかし、父上や兄上のことを思えば、心おだやかではあるまいに」  中大兄の言葉に、豊璋は少し目を伏せたが、 「確かに、そのことは気になります。気にはなりますが、殺されたわけではなし、国が滅びても身を全うしたのだから、むしろ喜ぶべきではないでしょうか」 「——」  中大兄は豊璋を見損なっていた、と思った。  なるほど、そういう心情は、会うたびに聞かされてはいた。  しかし、いくらなんでも、国が新羅と唐によって滅ぼされたと聞けば、怒りにふるえるだろうと思っていた。 (これではいかん)  中大兄は慌しく思案した。  ここへやって来たのは、単に百済の滅亡を告げるためだけではない。  他に重大な思惑があってのことだ。 「——豊どの」  中大兄は居ずまいを正して、 「ぜひ、聞いてもらいたい話がある。内々の話なのだが」 「はい、うけたまわりましょう」  けげんな顔をしながらも、豊璋は聞く姿勢を取った。 「百済の使者は、そなたを故国へ連れて帰りたいらしい」  中大兄の言葉に、今度は豊璋が目を丸くした。 「一体、何のために?」 「言うまでもない。百済王家を復興し、百済国を再建するためだ」  中大兄は身を乗り出した。 「——どうかな、豊どの、そなたの考えは?」  豊璋は目をみはり、そして力無く首を振った。 「わたくしには、そんな気はありません」 「——」 「その力もありません。わたくしは戦いなどしたことがない。国を再建するということは、あの唐や新羅と戦わねばならぬのでしょう」 「そうだ」  中大兄はうなずいた。  豊璋は再び首を振って、 「それは、わたくしの任ではありませぬ。第一、百済にはもはや兵はおらぬはず」 「いや、いる」  中大兄はそう言って、 「豊どの、百済が滅びたといっても、ただ都が落とされ、王が連れ去られたというだけのことだ。人民も兵も、ほとんど損ぜずに丸々残っている。この者どもは、唐と、その唐と手を組んだ新羅を憎んでおる。倒したいと思っておる」 「まことに?」  豊璋は疑心を抱いた。 「まことのことじゃ。ただ兵はおり民はおっても、それを束ねる者がおらぬ」 「束ねる者?」 「そうだ。百済王家の血を引く者、いや、もう少しはっきり言おう。そなた、だ」 「わたくし?」 「そうだ。豊どの、戻って百済王になられよ」 「このわたくしが王にですと」  豊璋は、じっと中大兄を見つめた。  中大兄も豊璋を見つめ返して、 「そうだ。王になるのだ」 「わたくしにはそのような資格は——」 「あるではないか。豊どのは、まごうことなき百済王の王子じゃ。王が唐へ連れ去られた今、百済王家を立てなおすのは、豊どのの他に誰がいる?」 「わたくしは、——だめです」  豊璋の喉は、カラカラに乾いていた。 「なぜだ」 「申し上げたではありませんか。わたくしは兵を用いることなど出来ませぬ」 「そなたは、兵を用いる必要はない」 「——?」 「王というのはな、何事も部下に任せて、どっしりとしていればいいのだ」 「それにしても——」  豊璋は、何とかこの話を無いものにしてしまいたかった。  いかに祖国とはいえ、国へ帰る気持ちはとうの昔になくしていたし、中大兄に言った通り、日本こそ自分の国だと思っている。  帰るのは億劫だし、戦うのはさらに億劫であった。  いや、億劫どころではない。下手をすると、命を失う危険すらあるではないか。 (わたくしは何も要らぬ。ただ、この三輪山の地で蜂を飼い、蜜をとるのが性に合っている。王となって戦うなど、とんでもない)  中大兄は、豊璋の心を見抜いていた。  しかし、それでも中大兄は豊璋に祖国への帰還を勧めたかった。 (この次は、日本の番かもしれぬ)  その思いがあるのだ。  唐が新羅を手先として日本へ攻めてくる可能性も、ないとは言い切れない。  それを防ぐには、海の向うになんとしても防壁が必要だった。  それにちょうどいいのが百済である。  いや、正確に言えば百済の遺民だ。  この数十万の人々が立ち上がって唐に抵抗してくれれば、唐の侵攻は、数年は遅れるだろう。  いや、あわよくば百済を再建出来るかもしれない。  そうなれば、百済の再建に最大の功があるのは日本だということになり、日本は百済を傘下におさめることが出来る。  そして日本は、ますます安全になる。  そのためには、どうしても豊璋を口説いてその気にさせねばならなかった。 「いえ、あなた様のお言葉とはいえ、これだけは従えませぬ」  豊璋は、きっぱりと断わった。  豊璋の最大の不安は、戦わねばならぬのに戦ったことなど一度もないという点にあった。  その不安がぬぐえぬ限り、祖国への帰還は有り得ない。  中大兄は熱誠を込めて説いたが、どうしても豊璋をその気にさせることは出来なかった。 「兵を束ねることの出来る者がおれば別ですが——」  豊璋は、最後はそういう言い方をした。 「わかった」  中大兄もついにあきらめた。  確かに、この豊璋を丸腰で国へ帰しても、すぐに敵の捕虜になるのがおちだろう。 (兵を束ねる者か)  中大兄は嘆息した。  そういう者が現われれば、話は変るかもしれない。  だが、いまのところは、あきらめるしかないのだ。  百済生まれの豊璋よりも、中大兄の方が百済復興への熱意があるという、何とも奇妙な状況ではあった。      三  情勢はまた変った。  新羅の唐を巻き込んでの征戦は、やはり激しい反発を招いた。  百済の遺民の抵抗が、各地で起こり、その勢いは正規軍にまさるとも劣らないものがあった。  しかも、そうした抵抗の動きは、一つのまとまりを見せた。  まとまりとは、一人の将軍である。  その男の名は鬼室福信《きしつふくしん》といった。  福信は、義勇軍を結成し、首都扶余を奪回する勢いを示した。  しかし、福信の軍には、一つの大きなものが欠けていた。  錦の御旗である。  それを、福信は日本に求めた。  唐との戦いで得た捕虜百余人を献上し、福信は日本の朝廷に、豊璋王子の返還と軍事援助を求めた。  中大兄は喜んだ。  豊璋が頑《かたくな》に拒んでいたものが崩れたのである。兵を束ねる者がいない、それが豊璋の拒否の理由であった。  中大兄は早速、豊璋の館におもむき、再び熱誠を込めて口説いた。 「豊どの、頼む。国へ帰って百済王となってくれ、この通りだ」  中大兄は頭を下げた。 「——左様に仰せられましても」  豊璋は当惑していた。  福信という男の出現は頼もしいが、豊璋自身会ったこともないのである。  その男に、身を託さねばならないのだ。 「福信の率いる軍勢は、泗《し》|※[#「さんずい+比」、unicode6c98]《ひ》城を奪回して、なかなかの勢いらしいぞ」  中大兄は、わがことのように喜色を浮かべて言った。  泗※[#「さんずい+比」、unicode6c98]城とは扶余にある王城である。 「はあ」  豊璋は生返事をした。 「どうした、豊どの、王になれるのだぞ。生涯にこのような幸運に恵まれる者が、いったいどれだけいようか」  確かにそうだな、と豊璋は思った。  王家に生まれても、次男以下はつまらない。皇太子が決まれば邪魔者にされるだけだ。  場合によっては、人質として遠い異国に送られることもある。 (ちょうど自分のように)  しかし、その豊璋にも運が回ってきたといってもいいのかもしれない。  こんなことでもなければ、自分に王位が巡ってくることなど、有り得ないのだ。  その好機をしっかり掴むことも、人生においては大切なことではないのだろうか。 「——日本は、助けてくれるのでしょうね」  つい、そんな言葉が口をついて出た。  中大兄は満面に笑みを浮かべて、 「もちろんだ。われらも数万の大軍を率いて海を渡る」 「えっ、まことですか」 「まことのことだ。母上が、いや帝《みかど》自らが九州までおもむかれる」 「しかし、帝は御高齢ではありませぬか」 「まもなく七十だからな」  それだけの老齢の身をもって都を離れようというのは、息子の中大兄の懇請もあるが、やはり根本的には百済が滅ぼされたことに対する危機感がある。  明日はわが身、という危機感である。  唐の野望を打ち砕くためには、この際、断固として戦う意志を示す必要がある、と母の帝も同意したのだ。 「それだけ、われらも本気になって百済を応援しておるのだ。豊どの、この志、買ってはくれぬか」 「——」  豊璋は長い間、黙っていた。  大勢力である日本の援軍が得られるということは、有り難いことである。 「豊どの、帝も豊どのが百済王になることを、このうえもなく喜んでおられる」 「帝が——」  実のところ中大兄が豊璋を百済王として即位させるという名案に熱中し、それを熱心に女帝に勧めたのである。 「やむを得ませぬな」  豊璋はついに言った。 「おおう、承知してくれるか」  中大兄は、豊璋の手を取った。 「めでたい、めでたいことだ」  中大兄は、いつまでも豊璋の手をにぎり、その決断を讃えた。      四  年が明けて、女帝は一族を連れ、大軍団を率いて九州へ向かうことになった。  これも、一つの大きな決断であった。  これは唐・新羅との全面戦争になる。  女帝は初め、消極的であった。  高齢でもあるし、動きたくない。  しかし、息子の中大兄はそういう母をなだめすかし、ようやく承知させたのだ。 「わかりました。しかし条件があります」 「何でしょう?」 「豊璋どのの位は、わが国が与えたという形をとらせて下さい」  さすがに、このしたたかさには、中大兄も脱帽した。  日本国が百済国王を任命するということは、勝利の暁には百済は日本の属国になるということだ。 (さすが母上、だてに年は取っておられぬ)  中大兄ですら思いもしなかった名案であった。  もちろん、こんな取り引きは、百済が百済のままであった一年前には、一切、成立する見込みはなかった。  しかし、今ならある。  百済軍も日本軍の力を強く求めているし、その代表者は豊璋になるのだ。  否も応もない。 「しかし、勝てるのでしょうね」  女帝は不安を口にした。玉座のまわりには誰もいない。  その誰もいないところだけで、口に出来る疑問だった。  中大兄は顔色も変えずに、 「勝てます」  と断言した。 「どうしてわかります」  女帝は納得しなかった。 「福信らには今、天の時、地の利、人の和が味方しております。国を支えるのも軍を支えるのも、所詮は人、人を大事にしてこそ国家は立ちゆくのであります」  中大兄は、淀みなく答えた。 「それは、その通りかもしれないが」  女帝はなおも不安の色を隠さなかった。 「福信らに加えて、われら日本の軍勢も豊璋どのを助けます」 「それで勝てましょうか」 「勝てますとも」 「——」 「母上、もっと自信を持って下さい。唐だの新羅だのといっても、所詮は人の集まりではありませんか」 「——」 「力を結束すれば必ず勝てます。それに今のわれわれは、天の時にも恵まれています」 「地の利もある」  ぽつりと女帝も言った。  これは、乗り気になってきた証拠だ。 「そうです、そうです」  中大兄は手を叩いた。 「もし勝てば、任那《みまな》を取り戻せるであろうか」 「取り戻せますとも」  任那——それは内宮家《うちつみやけ》ともいい、日本が半島に持っていた唯一の足がかりであった。しかし、これはいつの間にか、新羅に奪われてしまった。  それを奪った憎《に》っくき敵が新羅なのだ。 (いまに見ていろ。必ず吠え面かかしてくれる)  中大兄は強大な敵に対して、ますます意気軒昂であった。      五  百済が滅亡して、半年もたたぬうちに、女帝を総帥に仰ぐ大和軍は、出撃することになった。  目指すは百済の首都扶余である。  ここで唐・新羅に抵抗の狼火をあげている百済の遺将鬼室福信に加勢すると共に、現在日本にいる百済王子の余豊璋を送り届けるのが目的だ。 「おまえもついてくるがよい」  大海人は妻の一人である大田皇女に言った。 「はい」  大田はうなずいた。 「途中で生まれるだろうな」 「——はい」  妻はまもなく臨月であった。 「済まぬな。本当は連れて行きたくはないのだが」  大海人は言った。  それは本心だった。  皇族の親征には妻が同行するというのが、この国の掟だった。  言い伝えでは日本武尊《やまとたけるのみこと》の東征に妃の弟橘姫《おとたちばなひめ》が同行したし、近くは厩戸《うまやど》皇子(聖徳太子)の弟|当麻《たぎま》皇子が妻を連れて新羅遠征の途についている。ただし、この遠征は途中で妻が死亡したため、海を越えることなく中止されている。  臨月だからといって、辞退できるものではなかった。六十七歳という高齢の母の帝自ら西へ下るのである。  女帝は九州|那大津《なのおおつ》(博多)まで行き、そこから半島へ向かって船出する軍団を見送る予定だ。もちろん大海人も、「兄」の中大兄も、さらに遠くへ行かねばならない。  中大兄は総大将として、唐・新羅連合軍と戦うつもりなのである。 「わたくしのことは、どうか御心配なく」 「うむ」 「それよりも——」 「何だ」 「帝の御身の上が心配でございます」 「——」  大海人は黙った。  本来なら、皇太子の中大兄が無理にでも帝を都にとどめなければいけないのだ。 (だが、今、あの御方は自分を見失っている)  とにかく、新羅憎しに凝り固まっていると言っていい。  新羅を倒すために、あらゆる力をすべて結集しようとしている。  そのためにのみ心が集中して、母の帝の健康のことなど眼中にないのだ。 「わしも心配申し上げていないと言ったら、嘘になる。しかし、やむを得ぬのだ」  大海人は大田の肩に両手を置いた。 「よい子を生むのだぞ」 「はい」  その二人の様子を、柱の陰からじっと見つめる女の姿があった。  額田王《ぬかたのおおきみ》である。  大海人と額田の間には十市《とおち》皇女がいるが、それ以後、二人の間には子は生まれていない。  額田の目は猫のように光ってみえた。 [#改ページ]   第十二章 挫折の春      一  その年の十二月に、女帝は飛鳥《あすか》から難波宮へ遷った。  そして、年の明けるのを待って、正月の六日に、大船団を率いて出発した。  瀬戸内海を島伝いに進み、那大津に向かうのである。  途中、備前の大伯海《おおくのうみ》を通った時、産気づいた大田は女児を生み落とした。大伯海で生まれたので、大海人は、その子に大伯《おおく》という名をつけた。  航海はしごく順調で、八日後には、船団はいったん伊予の熟田津《にきたづ》に入港した。  ここには道後《どうご》の湯がある。  女帝にとっても、夫の舒明《じよめい》帝と共に過ごした思い出の地である。  ここで女帝は、しばらく時を過ごすことになった。  それは当初からの予定でもあった。 「母上には休んで頂き、足らぬ兵を募《つの》る」  中大兄は言った。  兵はいくらいてもいい。  東国の兵は充分に集めて来たが、西国でも兵を集め、それで戦うつもりなのだ。  中大兄は、道後の石湯《いわゆ》に仮宮を置いた。  女帝は、ほっとしていた。 「母上、ここでしばらくお休み下さい」 「どれくらい休めるのでしょう」  そう言った女帝の顔には、疲労の色が濃かった。 「まあ、四、五日は」  中大兄は、母がそれほど疲れているとは思っていない。 「——帰りたくなりましたよ」 「何を仰せられる」  中大兄は怒って、 「これから唐・新羅と大戦《おおいくさ》を始めようというのに、そんな弱気では困ります」 「——」 「さあ、湯に入ってお休みなされ。この湯は万病に効く湯だそうで」 「知っています。前にも来たことがありますから」  女帝は、思いやりのない息子の言葉に、腹を立てていた。中大兄は母をなだめると、宿舎に戻って、配下にあれこれ指図した。  戦争というのは忙しい。  やることは山ほどある。その日のすべての仕事が終わったのは、深夜のことだった。 (疲れた)  中大兄も人の子である。  これだけ働くと、やはり少しは息抜きがしたくなる。 (海へ行くか)  ふと、そう思った。  温泉は、ここからは少し遠くにある。本営は海岸近くにある。温泉に入るためには馬をとばして行かねばならぬが、海なら歩いて行ける。  ひさしぶりに潮騒を聞くのも悪くない。  きょうは十六日であった。  十六夜《いざよい》の月は大きく明るい。  そういう月が出ていなければ、中大兄は外へ出ることもなかったろう。  中大兄は唯一人で、波の打ちよせる浜に出た。  砂浜は広く、風はまだ寒い。  月明りの中で、中大兄は砂浜に女が一人たたずんでいるのに気が付いた。 「この夜更けに何をしておられる?」  海の方を見ていた女は、驚いて振り返った。 「——皇太子《ひつぎのみこ》様」 「おう、そなたは」  額田であった。 「何をしておられたのだ」 「皇太子様こそ、このような夜更けに、お供も連れられず——」 「いや、なに、海を見たくなってな。月も明るいしな」 「わたくしは、歌を詠んでおりました」 「ほう、歌を」 「はい」  額田は伏し目がちに答えた。 「それはぜひ聞かせてもらいたいな」 「いえ、皇太子様にお聞かせするほどのものでは——」 「かまわぬ、聞かせて欲しい」  額田は少しためらっていたが、海の方へ視線をそらすと、小さな声で詠じた。 「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕《こ》ぎ出でな」 (ほう)  中大兄は感心した。  実のところ、額田の歌を聞くのは、これが初めてだが、 (うまい)  と、感じた。 「お恥しゅうございます」  額田は頭を下げた。 「そなたは、何かから離れたがっておいでのようだ」  中大兄はずばりと言った。  内心の動揺を隠すように、額田は顔を伏せた。 「どうやら、当たりましたな」 「いえ、そんなことは」 「離れたいのは、かの君ではないかな」  額田はいぶかしげに中大兄を見た。  中大兄はにやりと笑って、 「かの君、すなわち大海人だ」 「いえ」  額田は首を振った。 「隠さるるな。わしにはわかっている」  そう言って、中大兄はいきなり額田のところへ歩み寄ると、その身体《からだ》を抱き締めた。 「何、何をなさいます」  額田は抵抗した。 「心に正直になることだ」  中大兄は力をゆるめずにささやいた。 「——」 「そなたの夫《つま》はどうした? この頃、若い娘に心を移しているような」 「違います」 「違うか。だが、身体はそうは言ってはおらぬぞ」  中大兄は額田をその場に押し倒した。  その手が額田の着衣にかかる。 「御無体な」  額田は叫んだ。 「無体なのは、そなたの夫だ。そなたほどの者を、ないがしろにするとは許せぬ」  中大兄は額田の唇を、自分の唇でふさいだ。  あまりのことに、額田の全身から力が抜けた。 「そなたが悪いのではない。悪いのは、あの者だ。そなたは、あの者に報いを受けさせておるのだ」  中大兄は額田を再び抱き締めた。  その言葉を聞いて、額田はもはや抵抗はしなかった。      二  募兵のため二カ月滞在した軍団は、熟田津を出港して海を渡り、那大津に上陸した。  中大兄は、ただちに仮宮を造らせた。  長津宮《ながつのみや》である。  しかし、それはあくまで仮のもので、ここに腰を据えて半島を攻めるためには、もう少し恒久的な施設が必要だった。それを、中大兄は朝倉という場所に建設することにした。  朝倉には土地の神を祀る古社が鎮まっている。中大兄が宮殿を造ろうとした場所は、この社地にあたっていた。 「かまわぬ、木を伐《か》って森を開け」  中大兄は命じた。  現地で徴発された人夫は、それを聞くと青くなって首を振った。 「できませぬ」  その言葉が役人を通じて中大兄に伝えられると、中大兄は烈火の如く怒った。 「なぜだ」 「祟りがあるからと、申しております」  役人はおそるおそる答えた。 「何が祟りだ」  中大兄は役人を怒鳴りつけて、 「われらは天津日継《あまつひつぎ》の皇軍だ。われらのなすことに、神々の祟りがあろうはずがない」 「——」 「かまわぬ、伐れ。伐ってしまえ。命令を聞かぬとあらば、聞かぬ者の首を伐れ」  中大兄の厳命に、社地の森はほとんど伐採され、新しい宮ができた。  五月のことである。  中大兄はここでも兵を募っていた。九州の兵は強い。その強さは東国の兵に優るとも劣らぬほどである。  また、船も新しく造っていた。  古くから大陸との交流があるので、船を造る技術も場所も事欠かない。  その準備期間であった。  中大兄は木の香りも新しい新宮へ、母の遷座を願った。 「悪い噂を聞きましたよ」  廷臣の並ぶ中で、女帝は中大兄に言った。 「なんでしょう」  中大兄は表情を変えずに言った。 「そなたが、新しい宮を築くため、古き神々の社地を犯したとか」 「根も葉もない噂でございます」  中大兄は言い切った。 「本当にそうかえ」 「——母上は、わたくしの言葉より、根も葉もない噂の方をお信じになるのですか」  中大兄は言い返した。  女帝は沈黙した。  証拠があってのことではない。 「ならば、そなたを信じましょう」  女帝は新宮に入った。  ところが、中大兄が予期もしなかった事態が起こった。女帝が病いの床についたのである。  中大兄は初めは甘く見ていた。  単なる疲労と見たのである。  しかし、病状は悪化の一途をたどった。  七月に入ると、このまま床を上げることはないと、誰の目にもわかった。  なにしろ六十八歳である。女性の方が長命とはいえ、この歳まで生きられたとは、むしろ幸運といっていい。  女帝はその月の十日を過ぎると、中大兄と大海人を枕頭に呼んだ。 「わらわは、もういけませぬ。後のことは頼みましたよ」 「母上、何をお気の弱いことを」  中大兄が心にもないことを言った。  女帝の顔は土気色で、もう長くないことは誰の目にも明らかだった。  女帝は中大兄をにらむように、 「葛城《かつらぎ》」  と、その幼名で呼びかけた。 「葛城、そなたは才はありますが、誠が少々足らぬようじゃ。国の主として、もう少し、そのあたりを考えなさい」 「——はい」  いつもなら反駁するところだが、相手が病人であることもあって、中大兄は一応はうなずいた。 「そなたには苦労をかけましたね」  と、女帝は大海人には優しい言葉をかけた。 「母上」 「そなたはこの世に生まれた時から、不運がつきまとっていた。その不運はこの母が招いたもの。許しておくれ」 「許すなどと、とんでもないことです」  大海人の目に涙があふれた。 「それから、それから——」  女帝は中大兄の存在など、もう眼中にないように、 「もし、かの君に会うことあれば伝えておくれ。——わらわは異国へ行くことも辞さぬ気であったと」 「母上」  大海人はたまらず前に出て、母の上にかがみ込んだ。  母は笑みを浮かべていた。  三日後、女帝は眠るように息を引き取った。  ただちに遺骸は棺に納められ、殯宮《もがりのみや》が造られた。 「皇太子様、この上はただちに都へ引き上げ、母の帝の大葬を行なうべきです」  大海人は、母の棺の前で、おだやかな口調ながら断固として言った。 「馬鹿な、何を申す」  中大兄は一笑に付した。 「——われらは百済救援のために来たのだぞ。ここで引き上げては、百済が今度こそ本当に滅びてしまう」 「ではございましょうが、ここはやはり子としての道を——」 「百済救援という大義の前には、すべて忍ばねばならんのだ」 「——」 「わしとて、本来なら即位の礼をあげねばならぬ。しかし、わしは勝つまでは、せぬつもりだ」 「では、どうなさる」  大海人は目を丸くして言った。 「このままだ」 「このまま?」 「そうだ、皇太子として指揮をとる」 「すべては、勝ってから、と仰せられますのか」 「その通りだ。そなたにも従ってもらうぞ」 「——」 「どうした、皇太子の言葉に逆らうというのか」 「いいえ」  大海人は苦いものでも飲み下すような顔をして言った。 「ならばよい」  中大兄は胸を張って去った。 (棺だけでは足らぬ。郭《そとばこ》を作らねば)  大海人は思った。  既に棺からは腐臭が漏れ出ていたのである。      三  中大兄は、母への弔意を示すため麻の衣を身にまとって政務を執った。  とりあえず為すべきは、軍団の編制であり、百済王子の余豊璋をいかにして故国へ送り届けるかであった。 (とりあえず軍兵五千をつけて、国へ送り返そう。将軍は誰をつければよいか)  いま、この国で、最も優秀な将軍といえば阿曇比羅夫《あずみのひらふ》と阿倍《あべ》比羅夫の両名であった。  しかし、この二人は手元に置いておきたい。 (狭井《さいの》檳榔《あじまさ》あたりがよいか)  中大兄はそう考えた。  檳榔は中堅どころの武将で、なかなかよく働く。戦いというよりは、むしろ守りに向いている。今度の任務は、無事に豊璋を送り届けることが第一で、戦う必要はない。 (よし、檳榔に決めた)  中大兄は決断した。  他にやることは山のようにある。 (母の遺骸は、やはり飛鳥へ返した方がいいかもしれぬ)  中大兄は、少し考えを変えていた。  場合によっては、この地に仮埋葬してもいいと初めは考えていたが、反発の声が耳に届くようになっていたのである。  親不孝という不評である。 (仕方がない、仮の葬礼でも行なうとするか)  大葬をするには、いろいろと仕度がいる。人数だけ揃えばいいというものではない。  内臣《うちつおみ》の鎌子《かまこ》でもいれば、相談に乗ってくれようが、彼は飛鳥に留守居役として置いてきてしまった。  八月に入って、中大兄は朝倉宮の傍らで、仮の葬礼を執り行なった。  日が沈む直前、棺は仮の霊屋《みたまや》に遷され、中大兄はその前に主だった臣を集め、弔辞を読み上げた。  大海人もその中にいる。  日の沈むのは、まだ遅かった。  暮れなずむ広場の中で、ふと大海人は目前の山を見上げた。  山というよりは丘といった方がいいのかもしれない。  その山の上に、黒い見事な馬にまたがった一人の武人が見えた。その面体は笠に覆われていて、よくわからない。だが、大海人には、それが誰かすぐにわかった。 (父上!)  大海人は、すぐにもそこへ駆けて行きたいと思った。しかし、葬礼の式を中座するわけにはいかない。 「——虫麻呂《むしまろ》」  大海人は小声で呼んだ。 「はっ」  虫麻呂は、たちまち影のように現われた。 「父上、いや、あの笠の御方のところへ行け。そして申し上げるのだ、母上の遺言があります。ぜひお伝えしたい、とな」 「——」 「何をしておる、早く行け」  大海人は叱咤した。 「はい」  虫麻呂は走り去った。  その頃になると、他の人々も丘の上の男の存在に気付いていた。 「あれは何者だ」 「鬼ではないか」 「違いない。大笠を着た鬼じゃ」  そんな言葉が聞こえた。 (鬼ではない)  大海人は、そんなことを口にする人間の胸倉をつかんで、訂正したい衝動にかられた。  あれはわたしの父なのだ。そして、ここに眠る母の夫《つま》なのだ、と。  しかし、それを言ってどうなるものでもなかった。 (母上、お許し下さい。わたしは何も言わずここに立っているばかりです)  大海人は母の霊に詫びた。  ふと、大海人は異様な視線を感じた。  振り返ると、中大兄が憎々しげに自分をにらんでいた。  大海人はにらみ返さずに、目を伏せた。      四  女帝の遺骸は結局、海路都へ帰ることとなった。  死穢《しえ》を嫌ったのと、中大兄に対する人々の不満が高まりを見せていたこともある。  仕方がない、ここはいったん都へ帰り、母の葬儀をより盛大に行なうことだ、と中大兄は決断せざるを得なかった。  本当は嫌だった。  これで都へ往復していたら、どうしても対百済支援作戦は遅れを取る。  その遅れが致命的にならないだろうか、というのが中大兄の心配の種なのである。  いよいよ出発という日、中大兄は大海人を呼び付けた。  大海人は妙な顔をした。  本来ならいるはずの廷臣が一人もいない。  お付きの者もいない。  二人きりである。  これは極めて異例のことだ。 「これから母上の棺をお守りして、都へ戻る。留守を頼む」 「はい」  大海人は頭を下げた。  中大兄はちょっと沈黙した。  大海人は不思議に思った。  これで用は済んだはずだ。  人払いするほどのことでもない。  いやむしろ、正式に後を託すなら、群臣の見守る中の方がいい。 「——何か?」  大海人の方から言った。  すると、中大兄はぷいと横を向くと、 「額田を連れて行くぞ」  と、独語《ひとりごと》するように言った。 「——?」  大海人は耳を疑った。  何を言っているのだとすら思った。  額田は大海人の妻なのである。 「わかったか」  中大兄は今度は大海人を正視した。 「どういうことです」 「わからぬか、額田はわしの元へ来ると言っているのだ」 「額田が、まことですか」  大海人は愕然とした。 「疑うなら、本人に聞いてみるがよい」  中大兄は冷笑を浮かべた。  大海人はきびすを返し、そのまま行こうとした。 「待て、もう一つ、申し渡すことがある」  中大兄はその背中に向かって言った。 「百済に行ってもらうぞ。わしの代理としてな」  大海人は振り返ることなく、そのまま走り去った。  額田は青白い顔をして、大海人の来るのを待っていた。  その表情を見て、大海人は中大兄の言葉が正しいことを知った。 「額田」  大海人はそれでも呼びかけずにはいられなかった。  額田は、座っていた椅子から立ち上がった。  無言である。 「どうした、何か申せ」 「——お世話になりました」  額田は頭を下げた。  大海人の頭に血が昇った。 「許せぬ」  大海人は剣の柄に手をかけた。 「お斬りになりますか、お斬りになるのならどうぞ」  抑揚の無い声で額田は言った。 「恐ろしくはないのか」 「あなたに斬られるなら本望でございます」 (斬るか)  大海人は一瞬そう思った。 (このまま、きゃつの手に渡すぐらいなら、いっそのこと、この手で——)  だが、大海人はどうしても剣を抜くことができなかった。 「おいとま致します」  額田は頭を下げて、外へ出て行こうとした。  その背中に、大海人は声をかけた。 「——十市《とおち》はどうするのだ」  二人の間に生まれた娘である。 「残していきます」  額田は振り返らずに答えた。 「いいのか、それで」  だが、額田は無言のまま静かに部屋を出て行った。一人残された大海人は、その時になって初めて剣を抜いた。 (おのれ)  その剣で、大海人は部屋の中央の卓子を叩き割った。  心の中に初めて、「兄」に対する殺意が燃え上がった。 [#改ページ]   第十三章 決 戦      一  中大兄《なかのおおえ》は飛鳥に帰ると、冬の風が冷たい飛鳥川の河原で、母の殯《もがり》を改めて行なった。 (これでよかろう)  既に悲しみは薄れていた。  中大兄の頭にあるのは、唐・新羅との大戦《おおいくさ》をいかにして行なうかということばかりである。  飛鳥の冬は寒い。  その中で、中大兄はひたすら春を待った。  余豊璋《よほうしよう》が故国へ帰ることになったのは、年が明けて、桜の季節になってからだった。  豊璋は宮廷に挨拶に来た。  中大兄は喜んでこれを迎えた。 「豊どの、いよいよだな」  中大兄は満面に笑みを浮かべて言った。  豊璋は緊張して、顔色がよくなかった。 「——これにてお別れです。長い間の御好誼、感謝の言葉もありません」 「何を他人行儀な。われわれは兄弟も同然ではないか」  中大兄は玉座を立つと、百済の正装をした豊璋の手を取って、 「百済国の回復を祈っておるぞ」 「ははっ」  豊璋は深く一礼した。 「いろいろ考えたのだが、やはり豊どのを送るのは阿曇比羅夫《あずみのひらふ》に命じることにした」 「それは、ありがたきお言葉」  豊璋の顔に赤味がさした。  中大兄も初めは阿曇比羅夫を遣わす気はなかったのだが、豊璋王子の身に万一のことがあっては、日本の百済救済計画が根本から崩れると思い直し、手持ちの駒の中で最も有力なものを使うことにしたのである。 「必ず祖国を回復させよ。祈っている」  別れにあたって、中大兄はもう一度言った。  それは本心だった。  百済が復興すれば、日本の守りは万全になる。  もし万一、これが失敗するようなことになれば、日本はただちに超大国唐による侵略の危険にさらされるのである。  正直言って、豊璋は軍事指揮官としては物足りない。蜜蜂を飼うのが取柄のおだやかな人物である。  しかし、百済には鬼室福信《きしつふくしん》という戦《いくさ》巧者がいて、百済復興軍の指揮を執っている。福信は唐・新羅の連合軍に対してよく戦い、なかなかの戦果をあげているらしい。 (戦いは福信に任せておけばよい。豊璋は玉座について、どんと構えていればよいのだ)  中大兄はそう考えていた。  そう考えれば、豊璋の頼りなさそうな顔も、気にならないというものである。  豊璋は阿曇比羅夫率いる一万の軍勢と共に、飛鳥を旅立っていった。      二  大海人皇子は相変らず筑紫《つくし》の那大津《なのおおつ》にとどまっていた。  ここは、朝廷の前進基地である。 (中大兄は何を考えているのだ)  大海人は苛立ちを抑えることができなかった。  豊璋が飛鳥からこの那大津に寄港し、韓半島へ向かった時も、大海人には何の指令も届かなかった。 (とりあえず、様子を見るつもりなのだろうか)  しかし、福信の要請によって、日本が軍勢を付けて豊璋王子を送り帰した以上、明らかに唐に敵対する行動に出たことになる。 (ならば、一気に攻めた方がよくはないか)  大海人はむしろそう思う。  福信の率いる百済復興軍の勢いは、なかなか侮り難いというが、なにしろ相手は日本の数倍、数十倍の国力を持つ唐である。戦うなら、初めから徹底的にやった方がいい。  もちろん、大海人は本心では唐・新羅に対して事を構えるのは反対である。  それは、父が新羅出身だという親近感からではない。  中大兄の戦略は、結局は国を誤るのではないかという危惧からである。  確かに、百済に味方するにしても新羅に味方するにしても、この決断は非常に難しい。  いずれにしても唐は、すべての国を併呑しようとするはずだ。その激流のような力に対抗するのは容易なことではない。  ただ、大海人はむしろ新羅と手を組んだ方がいいと思っていた。  中大兄は、新羅は唐の手先ではないかと、そんな考えを一笑に付すだろう。  確かに、新羅は唐と手を組み、いま百済を滅ぼそうとしている。  しかし、それは新羅が百済に滅ぼされそうになったからだ。新羅としては止むを得ない処置である。  そして、この唐と新羅の蜜月関係は、いつまでも続かぬものと、大海人は見ていた。  唐は新羅を友として見ているのではない。単に「道具」として考えているだけだ。だから半島の統一に目処《めど》がつけば、新羅とは必ず敵対する。唐は新羅を滅ぼし、すべてを自分のものにしようとするだろうし、新羅はそうはさせじと全力を挙げて反抗するに違いない。  そうなれば勝機はある。  だが、そのことを献策しても、受け入れないことはわかっていた。  中大兄は新羅憎しの感情にとらわれている。しかも「異父弟」である自分に対する憎しみの情が、それを増幅させている。  やりきれぬ思いがした。  大海人は妻の大田皇女のところへ行った。  額田が去った今、この大田皇女と妹の※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野皇女だけが、大海人の心の安まる対象なのである。 「これから、どうなりましょう」  大海人が椅子に体を預け溜め息をもらした時、大田がそう尋ねた。 「——唐と大戦だ。それはもう動かぬ」  大海人は目を閉じて言った。  疲労感が全身からにじみ出ていた。 「勝てるのでしょうか」  大田は思い切って言った。 「——」  大海人は目を開くと、大田をまっすぐに見据えて言った。 「わからぬ」 「もしも——」  そう言いかけて、大田は言葉を飲み込んだ。さすがに不吉だと思ったのだろう。 「負けたら、どうなるか、ということか」  大海人はこだわりもせずに言った。  大田は生唾を飲み込んだ。 「百済では、国王、太子が捕虜とされ、長安へ連れて行かれた」 「殺されたのですか」 「いや」  大海人は首を振った。 「あの国は、いきなり殺すようなことはせぬ。生かしておいて、とことん利用するというのがやり口だ」 「そうですか」  ほっとしたように大田は言った。  大海人は笑って、 「命さえ助かればいい、というものではあるまい」 「いえ」  大田は頑固に首を振った。 「命あってこそではございませぬか」 「そこが女子《おなご》と男の違うところだ」  大海人は言った。  その時、部屋の外から声がした。 「皇子《みこ》様、飛鳥よりの使者でございます」 「なに」  大海人は立ち上がって、扉を開けた。  廷臣に連れられた使者の男が、大地に平伏していた。 「皇太子《ひつぎのみこ》様からの書状でございます」  使者は廷臣に向かって、それを差し出した。  廷臣は受け取って、それを大海人に渡した。  大海人は封を切ると、それを読み出した。  中味はそれほど長くはない。  すぐに読み終えた大海人の顔色は変っていた。 「どうなさいました」  大田が心配そうに言った。 「ただちに海を渡り、百済軍と力を合わせよ、との命令だ」  大海人は言った。 「あなた」  大田は蒼白になった。  皇族である以上、この九州にとどまっていればいいと思っていたのである。  しかも、最前線に出ろという。  出れば、戦死という最悪の結果も有り得るのである。      三  海の向うでは、とんでもないことが起こっていた。  日本軍に送られ即位した百済の新国王余豊璋が、救国の英雄鬼室福信を殺してしまったのである。  豊璋と福信は、初めて会った時から、どうにもそりが合わなかった。  福信は、どちらかというと乱暴者で、乱世でなければ頭角を現わすことはなかっただろう。  礼儀知らずで横紙破り。鬼室氏は百済では名の通った家柄だが、福信のことは、はじめ誰も知らなかった。  根っからの武人で、官僚ではない。  一方、豊璋はこれまで武張ったことには、まったく無縁の文人であるが、自分は王の子であるという強烈な貴族意識だけはあった。  しかし、福信には、自分が迎えてやったからこそ、嫡男でもない豊璋が王になれたのだという思いがある。  それが、豊璋に対する侮りを生んだ。  まして、豊璋は兵のことは何も知らない。その割には口を出すので、福信はことごとに豊璋を無視する態度を取った。  これにつけ込んだのが、先代からの生き残りである宦官《かんがん》たちであった。  唐の捕虜になることを巧みに免れた宦官たちは、自分たちの保身しか頭になかった。それはひたすらに豊璋の意を迎え、取り入ることである。  彼らは、福信が前線に出ているのをいいことに、あることないこと告げ口した。  そういう連中を御した経験のない豊璋は、簡単にそれに乗せられた。ついには、福信が謀反を企てているという讒言《ざんげん》を信じた。  冷静に考えてみれば、豊璋あってこその福信であり、この大看板を失っては、福信の勢威は有り得ない。  豊璋にとって代り得る王族がいれば、また話は別なのだが、福信にはそんな手持ちはない。  いかにそりが合わないとはいえ、豊璋をかつぐしかない。  このことが、にわか国王の豊璋には全然わかっていなかった。  幼い頃から宮廷にいれば、このあたりの機微はわかったはずだが、あいにく豊璋には世捨人としての経験しかない。  新生百済国はついていなかった。  豊璋は、側近の讒言を信じ、福信を宮廷に呼びつけ、一言の釈明も許さず欺し討ちにした。  百済軍の士気は大いに低下した。  一部だが、脱走者も出た。  そして、最大の失敗は、これによって百済軍を完全に掌握する者がいなくなったということであった。  福信は、その人柄には問題があるとはいえ、武人として、大将としては、一流中の一流の才を持っていた。  だからこそ、強大な唐・新羅連合軍に対して、ここまで勝利を収めることができたのである。  そして、このことはさらに悪い結果を招いた。  福信暗殺に怒った百済軍の兵のうち、唐に投降する者がでたのである。  投降者は、福信殺さるの事実を唐に告げた。  唐側は狂喜した。  早速、三万の大軍を百済にさし向けたのである。  中大兄は、飛鳥で福信粛清の知らせを聞いた時、耳を疑い、使者を怒鳴りつけた。 (豊どのも、何という間抜けな)  中大兄は怒りを鎮めると対策を考えた。  唐の立場に立てば、必ずこの機を逃さず、攻勢に転じようとするだろう。  百済軍の士気は低下しているはずだ。  ここで応援しないと、百済軍は大敗走の危機すらある。 (大海人を韓半島にやろう)  中大兄が決意したのは、まさにこの時だった。  中大兄は大海人を嫌っていたが、武人としての能力は評価している。  ここで、すべてをつぎ込む形で、百済を後押ししないと大変なことになる。  豊璋の命もあぶない。 (唐は勇んで攻めてくるに違いない。一刻も早く援軍を出して、何とか迎え撃つのだ。それしかない)  中大兄は命令を下した。  二万にものぼる大軍を編成し、ただちに百済に向かわせた。  同時に、大海人ら那大津に駐留している派遣軍にも合流を命じた。  総計二万七千の大軍である。  軍勢は対馬《つしま》を通って、半島の南岸沿いに、その西側に回った。  半島の西側、海を隔てて向い側には唐がある。また東側には新羅がある。  百済の拠点|泗《し》|※[#「さんずい+比」、unicode6c98]《ひ》城は、海から少し内陸に入ったところにある。  当然、泗※[#「さんずい+比」、unicode6c98]城にたどりつくためには、海に流れ込んでいる大河白馬江をさかのぼっていくしかない。  その河口の白村江《はくすきのえ》に、唐・新羅の連合軍は待ち伏せていた。 「倭船の造りは稚拙だ」  このことは百済の降兵からも、新羅の軍からも情報が入っていた。  日本の船団はそうとも知らずに、白村江に近付いていた。      四  大海人は皇族でありながら、軍の大将ではないという奇妙な立場にいた。  日本軍は三軍編成で、前将軍阿曇比羅夫、中将軍|巨勢神前臣訳語《こせのかんさきのおみおさ》、後将軍阿倍比羅夫である。  しかし、三人のうちで総大将は誰かということは、はっきりしなかった。  そのうえ、各軍団も急いで掻き集められたため、指揮系統もうまくいっていなかった。  大海人は後将軍阿倍比羅夫と同じ船に乗っていた。 「まもなく白村江が見えてきます」  阿倍は、甲板で半死半生になっている大海人に声をかけた。 「そうか」  大海人は長槍を抱きかかえるようにして、座っていた。  船酔いにやられたのである。  こみ上げてくる吐き気と戦うために、大海人は乗船中の時間のすべてを費やした。  だが、吐き気には、武術の修業も精神の集中も、何の効き目もなかった。  空は晴れている。  海の彼方に、半島がくっきりと見える。  八月の空である。  海の風は強く、心地よかった。  しかし、大海人はそれどころではない。 「まだ、慣れませぬかな」  阿倍は笑みを浮かべて言った。  船酔いには、慣れるしかないということを、阿倍はよく知っている。  大海人だけではなかった。  兵士のうちの大半は、これまで船に乗ったことのない者たちである。  阿倍が指揮する後軍は、まだ経験者が多い方だ。  これが前軍・中軍になると、関東から召集された兵もいて、経験者はまったくいないといってもよかった。  兵士の一人が吐くと、それにつられて吐き気をこらえていた者が吐く。また、それにつられる者がいるという悪循環である。  早く陸地に上がりたい——それが大半の兵士の願いだった。  海から白村江に入れば、河岸に上陸して少し兵を休ませようと、誰もが考えていた。  ところが、そんな思惑は、船が河口に近付くに従って、あっという間に吹き飛んだ。 「敵だ!」  兵士たちが口々に叫んだ。  河口の少し奥に数百隻にものぼる船団がいた。  船団には色とりどりの旗が、おりからの強風になびいている。 「戦に備えよ」  各船団に軍令が発せられた。  しかし、兵たちは泡を食っていた。  海の上で戦うなど、考えたこともなかった。  その上、船酔いで、ほとんどの兵士が万全な体調ではなかった。  本来なら、ここでいったん敵との衝突を避け、近くに上陸するという手もあった。  しかし、ここで日本軍の致命的な弱点が出た。指揮系統が一本化されていないため、そう判断しても、誰もその命令を全般に徹底させることはできなかったのである。  結局、船団は当初の方針のまま、陣形も整えずに、逐次白村江に突入することになった。  もう、流れを誰も止められない。  しかも、唐・新羅連合軍は、いきなり攻め寄せようとはせず、むしろ河口の奥に引いて日本船団を引き込む作戦をとった。 (まずい)  大海人は船の上から河口を見ていた。  敵の考えを見抜いたのである。 (火攻めにする気だ)  風は陸から海に向かって吹いていた。  敵は風上にいる。  味方の船団が河口に入り、船と船との間隔がせばまったところへ、火をかけるつもりだろう。  火矢を飛ばせばいいのだ。  船は密集している。  一隻でも燃え上がれば、火の粉が飛んで次々に類焼するだろう。  この晴天である。  雨の降る様子はまったくない。  火攻めは確実に成功する筈だ。 「将軍!」  大海人は叫んだ。  阿倍がやってきた。 「今、引き返すか、それとも一気に敵の懐ろに飛び込むか」  いわば死中に活を求める策であった。敵との距離が縮まれば、敵はうかつに火は放てない。さらに近付けば、敵を直接叩くことができる。 「手遅れです」  阿倍は絶望的に首を振った。 「なぜだ」  血相を変えて大海人は詰め寄った。 「船は猪と同じ、前には進むが、後ろへは容易に動けませぬ」 「では、突っ込め」 「それもなりませぬ」 「——?」 「敵の船は速い。われらの及ぶところではございません」  一斉に銅鑼の音が鳴り響いた。  それを合図に、おびただしい火矢が敵から射られた。  まるで悪夢を見ているようだった。  日本側の箱型の船が次々に燃え上がった。まるで紙を燃やすように、簡単にである。敵を討つどころではなかった。  敵と遭遇した瞬間から、日本側は消火に追われ、矢を放つ暇もなかった。  勝敗の帰趨は既に明らかだった。 「将軍」  大海人は、吐き気も忘れて、再び阿倍に呼びかけた。 「どうにもならんのか」 「どうにもなりません」  阿倍は冷静だった。  このまま突っ込んでいっても、味方船団に前方をさえぎられて身動きが取れず、攻撃は出来ない。  しかし、射程の長い敵の火矢は届くかもしれない。そうなったら、手も足も出ないうえに一方的に焼き討ちされることになる。 「では、どうする」  大海人も冷静になった。  どう見ても、この戦は勝てない。 「焼け出された者を助けましょう。助けたら引き上げるしかなさそうですな」  阿倍は河口を見た。  いまや日本側の船は、その大半が燃え上がっていた。      五  百済王余豊璋は、日本軍とは敵軍を挟んで対照的な位置に、全軍を待機させていた。  陸側である。  本来なら、敵軍の日本軍に対する攻撃を邪魔するために、軍を動かし背後を襲うべきだった。  そうすれば、敵も日本軍だけに集中して攻撃することができず、力をそがれることになるはずだ。  しかし、豊璋は動かなかった。  動けなかったのではない。いつでも軍は動ける態勢にあった。ただ、戦機を判断して、命令を下す者がいなかったのである。  もし、いるとしたら、それは福信であり、その部下だったろう。  ところが、豊璋が無実の罪で福信を殺してしまったため、部下たちも豊璋を見限り、あるいは逃げ、あるいは投降した。  その結果、百済軍には、まともな指揮官が一人もいなくなってしまったのである。  豊璋の機嫌をとるだけしか考えていない宦官には、軍の指揮など出来ない。  百済軍は戦わずして敗れた。  目の前で日本からの援軍が、なす術《すべ》もなく倒されるのを見て、脱走者が相次いだ。残った者の士気も地に落ちた。  こうなる前に突撃すべきだったのだ。だが、もうすべては遅い。 (戦は負けだ)  そう思ったとたん、豊璋の膝はがくがくと震えていた。 (殺されるかもしれん)  あの唐に逆らったのである。父や兄は命を助けられたが、自分はどうなるか、わからない。一度、国としては降伏したあと、再び兵を挙げたのだ。  これは唐に対する反乱と認定されるかもしれない。  叛逆者に対する刑は死罪、それも極刑と決っている。  豊璋の脳裏に、自分の首が台の上にさらしものになっている光景が浮かんだ。  ぞっとして豊璋は腰を浮かした。 「陛下、落ちのびなされませ」  すかさず宦官の一人が言った。  初めから、それを言う機会を狙っていたのだ。 「どこへじゃ」 「高句麗でございます」  宦官は言った。  日本へはもう行けない。  日本の船団に合流するためには、目の前の敵を突破しなければならない。それは到底不可能なことだ。  後ろに逃げるしかない。  とすれば、残るは高句麗しかないのである。 「よかろう」  豊璋は立ち上がった。  豊璋の頭の中には、自分を盟主にして戦っている民のことも、故国百済のこともなかった。  あるのは、我が身の安泰ばかりである。  豊璋は、家臣たちに身を任せた。意志さえ決めれば、あとは家臣たちがはからってくれるのである。 「陛下、こちらへ」  豊璋は導かれるまま乗物に乗った。  ふと、中大兄の顔が浮かんだ。 (やはり蜂を飼っていればよかった。恨みますぞ)  豊璋は高句麗へ去った。      六  大海人は結局、敵と一度も戦うことなく、引き上げることになった。  大海人と阿倍比羅夫率いる後軍がしたことと言えば、船から焼け出され必死になって泳いでくる兵士や、百済人を助け上げたことだった。  助け上げたのは千人近くに及んだ。  敗残兵を収容した船団は、ただちに反転して日本へ向かった。  追撃はなかった。  皮肉なことに、河口で炎上している味方の船が、防壁となって敵の動きを封じたのである。  これが大敗北の中で、唯一日本側が得をした点だった。  しかし、それだけである。  多くの兵と船を失い、一つも得るところがなく引き上げるのである。  百済は完全に滅びた。  日本の野望も潰えた。  そして、残ったのは超大国唐へ反抗したという事実である。  唐に、日本侵攻の絶好の口実を与えたといってもいい。  ただでさえ、唐は周辺諸国を併呑しようという野望を持っている。  その大国に対し、先手を打とうとしたのが、今回の作戦であった。  しかし、失敗したのである。 (日本はこれからどうなるのだ)  大海人は、船の上から半島を見ていた。  確かに、唐は、今は追ってこない。  しかし、十数万の兵を動かすことができる超大国が、ひとたび本腰を入れて日本侵攻に乗り出せば、日本はひとたまりもない。 (日本はこれからどうなるのだ)  大海人はもう一度、自問自答した。  ようやく夕日が西の海に沈もうとしていた。  長い一日は終わったのである。 [#改ページ]   第十四章 夢魔のとき      一 「負けただと」  中大兄《なかのおおえ》の顔から血が引いていった。 「——はい」  使者の鵜足《うたり》は目を伏せてうなずいた。 「それで、どのように負けたのだ」  中大兄は、思わず玉座から腰を浮かせて言った。 「白馬江河口の白村江にて、唐と新羅の船団に待伏せを受けまして——」  鵜足は、戦の状況を逐一報告した。  中大兄は、なかば茫然として、その言葉を聞いていた。 「——それで、阿倍比羅夫《あべのひらふ》、阿曇《あずみの》比羅夫はどうした?」 「無事でございます。——大海人《おおあま》皇子様も」 「きゃつもか——」  中大兄は吐き捨てるように、 「役に立たぬ男だ」  と、付け加えた。 「——皆様も、そろそろ筑紫《つくし》に着く頃でございましょう」  鵜足が言うと、中大兄は怒りを鎮めて言った。 「苦労であった。下がって休め」 「ははっ」  鵜足が退出すると、中大兄は中臣鎌子《なかとみのかまこ》を呼んだ。  鎌子は事態を察し、緊張した面持ちで入ってきた。  中大兄は黙って鎌子を見つめた。 「何やら良からぬ事態が出来《しゆつたい》致しましたようで——」  鎌子は言った。 「その通りだ」  中大兄は、鵜足の報告の内容をかいつまんで話した。  鎌子は顔色一つ変えなかった。 「それで、このことを他の者にお漏らしになりましたか——」  鎌子が聞いたのは、そのことである。 「いや、そちだけだ」  中大兄は言った。  その点に抜かりはなかった。  使者のただならぬ様子から、異変を見てとった中大兄は、近臣すらさけて単独で接見したのである。 「それは、よろしゅうございました」  鎌子は一礼して、 「まず、今度の戦《いくさ》、当方に利がなかったことを極力伏せることに致しましょう。兵が筑紫に戻れば人の口に戸は立てられませぬが、それにしても噂が伝わるのは、まだまだ時がかかりましょう。その間、国を固めることでございます」 「何を為《な》すべきか?」 「さしずめ、城をいくつか造らねばなりませぬな」 「どこに造る?」 「対馬《つしま》、壱岐《いき》そして筑紫でございます」  それは、唐の侵攻に備えてのものだということは、中大兄も充分にわかっている。 「やはり来るか」 「今度の敗戦で、百済はまったく滅び去ったと申せましょう。あとは高句麗が、どれだけ持ちこたえられるかでございましょうな」 「そのあとはわが国か——」  中大兄は唇を噛みしめた。 「いずれにせよ、時を稼ぐことでございましょう。城を造り、兵を養うためには、時がかかります。そこで、この鎌子に一つ案がございます」 「何だ?」  中大兄は身を乗り出した。  鎌子がこういう言い方をする時は、必ず名案があるものだ。 「百済|人《びと》をお使いなされませ」 「百済人?」 「はい、このたび国を失った者どもでございます。かの者たちには帰る国とてございませぬ。百済人の中には、兵もおれば、城造りの巧みな者、あるいは作物を育てるのに巧みな者もおりましょう。わが国のために、役立てることができるはずでございます」 「なるほど」  中大兄は感心した。  百済の遺民が多数日本に押し寄せてくることは必至だが、その処理をどうすべきかという観点でしか、中大兄は考えていなかった。  難民を積極的に利用するということは、思案の外にあったのである。 (さすが、鎌子)  中大兄は改めて鎌子を見直した。 「——さらに、もう一つお考え頂きたく存じますことが」  鎌子は遠慮がちに言った。 「何か」  中大兄はうながした。 「——」  鎌子は珍しく言い淀んだ。 「どうした、早く言え」 「この際、新羅の国とも、話をつけておいてはいかがでしょう」 「なに」  中大兄は目をむいた。 「使者を出すのでございます」 「なぜ、左様なことをせねばならんのか」  声が既に怒っていた。  鎌子はひるんだが、それでも言った。 「新羅とは、話し合う道を残しておかねばなりませぬ」 「鎌子、そちは頭がおかしくなったのではないか」  中大兄は怒りを押えて、 「新羅は我等にとって不倶戴天の敵ぞ」 「いえ、決して狂うてはおりませぬ」 「では、なぜ、たわけたことを申す」 「新羅と唐はいずれ仲違いを致します」  鎌子は必死に訴えた。 「なに」  中大兄は意外な顔をした。 「唐が新羅と手を組んだのは、韓《から》の国すべてを手中に収めるために、新羅を走狗《そうく》となすためでございます。既に百済が滅び、敵は高句麗のみとなりました。いずれ、高句麗も滅ぼせば、新羅は唐と獲物を争って、仲違いすることになりましょう」 「その勢いで、わが国を攻めるかもしれぬではないか」  中大兄は言った。 「いえ、そもそも新羅には、わが国を攻めようという意図はありませぬ。唐と手を組んだのも、百済に攻められ亡国の危機に陥ったからでございます」 「だから、裏切り者だと言うのだ」 「でもございましょうが、本心から唐に屈してのことではありませぬ」 「そなたは新羅の国王か?」  冷やかな口調で、嘲けるように中大兄は言った。 「いえ、とんでもない」  鎌子は首を振った。 「ならば、なぜ新羅の心がわかるのか」 「——」  誰にでも予想がつくことだ、とは言えなかった。そんなことを言ったら、中大兄はますます激高するに違いない。  新羅が唐と共に高句麗を滅ぼしたとしても、その後、手を組んで日本まで攻めてくるとは思えない。  もし、それをやれば、新羅はその日本遠征によって力を消耗させられ、結局は唐に漁夫の利をしめられることになるだろう。すなわち新羅滅亡である。  そんなことを、新羅の指導者が許すはずがないのである。  共通の敵である高句麗を滅ぼせば、唐と新羅は敵同士になる。  その日に備えて、新羅との間に「友好」の道を確保しておく。もちろん、新羅も日本の使者をむげに追い返すはずがない。そういうことの読める人間が、新羅の宮中にもいるはずだからだ。  顔に微笑を浮かべながら、相手の肚を探り合う、それどころか場合によっては、片手でなぐり合いながら、片手で握り合う——それが外交というものだ。  だが、中大兄はそういう考え方を頭から認めようとしない。 「むしろ高句麗に使いを送るべきではないか」 「仰せの通り、送らねばなりません。しかし、新羅にも——」 「言うな」  中大兄は怒鳴りつけた。 「ははっ」  鎌子は首をすくめた。 「よいか、もう二度と言うな。余の目の黒いうちは、新羅と手を結ぶことはない」  中大兄はきっぱりと言い切った。 (これは、だめだ)  鎌子は絶望した。      二  鎌子は、大海人が都にもどったのを知ると、すぐに、その館を訪れた。 「——というわけでございまして、皇太子《ひつぎのみこ》様は新羅と誼《よし》みを通じることを、断固として拒まれたのでございます」  と、鎌子は大海人に言った。 「なぜ、わしのところへ」  大海人はけげんな顔をした。 「わたくしは、あなた様が新羅との絆《きずな》になって頂ければと思っておりましたのです」 「わしが?」 「はい。新羅との仲を保つには、あなた様ほどふさわしい方はおられませぬ」 「わしが、新羅の血を引くからか?」  大海人は落ちついた声で言った。  そのことを恥に思ったことは一度もない。  鎌子は頭を下げて、 「むろん、そのこともございます」 「だけではないのか?」 「はい、何よりも、あなた様は偏《かたよ》りのない目で物を見ておられます」 「——」 「この未曾有の国難にあっては、偏りのない目で物事を見ることが何よりも大切でございます。憎しみや贔屓目で物事を判断することは、国を誤るもととなりまする」 「わしに、その偏りのない目があると申すのか」 「はい」 「それは買いかぶりだ」 「いえ、あなた様は、新羅の血を引かれておりながら、必ずしも新羅贔屓ではございませぬ」 「そうかな」  大海人は、胸に手を当てて考えてみたいと思った。  自分は、新羅人の血を引いている。しかし、日本人として育ってきた。  新羅、百済、高句麗の三国のうち、どこが好きかといえば、新羅である。だが、百済、高句麗も、特別嫌いというわけではない。  その点、「兄」の中大兄とは違う。 (それが偏りのない目と言えるのかどうか)  大海人は自問自答した。  鎌子は、そんな大海人の様子をじっと見つめていた。 「——そなたは、これからのわが国をどのように考えている?」  我に返った大海人は、鎌子にたずねた。  白村江の敗戦以来、そのことをぜひ語り合いたいと思っていたのだ。  鎌子ほど物の見える男は、この国に他にはいない。 「——わたくしは、そのために、新羅との絆が必要だと思っておるのでございます」 「いずれ、唐と仲違いすると見ておるのだな」 「はい、かの国は、そもそもわが国を狙ったことは一度もありませぬ。唐と結んだのは止むに止まれぬことで、百済に続いて高句麗がなくなれば、おそらく獲物の取り合いを始めるでしょう」  と、鎌子は中大兄に言上したことを繰り返した。 「その時のために、今から手を打っておけと申すのだな」 「はい、今のうちに手を打つべきと考えております」  鎌子は身を乗り出して、 「あなた様御自身に、新羅に行って頂くのが最もよいと思っておりました。しかし、皇太子様のお許しがない以上、それも叶いませぬ。このうえは、ぜひともこの国のうちで新羅の方々との縁を固めて頂きたいと思っております」  大海人は鎌子が何を言いたいのか、よくわかった。 「——父上のことか」  鎌子はうなずいた。 「——それでは、ますます皇太子様の憎しみを買うことになるな」  大海人は苦い笑いを浮かべた。  新羅嫌いの中大兄が、もしそんなことに気が付いたら、ますます嫌われることになる。 「申しわけございませぬ」  鎌子は頭を下げた。 「やらねばなるまいな」  逃げる気はなかった。  捨て石になるかもしれない。しかし、これは誰かがやっておかねばならないことなのだ。      三  都が燃えていた。  宮廷も、兵舎も、何もかもが燃えている。  異国の軍が都を侵したのだ。  女は犯され、男は殺されている。  逃げ場はなかった。 (どうした、わが兵はどこへ行ったのだ)  中大兄は血走った目で、周囲を見回した。  生きた兵はいない。屍《しかばね》ばかりである。 (こんなことがあっていいのか、こんなことが)  中大兄は敵兵に捕らえられ、引ったてられた。  唐の将軍がいる。  その前に引き据えられた。  ——おまえはこの国の王か  と、将軍が言う。  ——だとしたら、どうだと言うのだ  中大兄は、昂然と顔を上げて言い返した。  将軍は、銅像のような顔で、冷やかに中大兄を見下ろしていた。  ——首をはねる  将軍はおごそかに宣言した。  ——待て、待ってくれ。首をはねるとは、どういうことか  中大兄は絶叫した。 「いかがなされましたか」  舎人《とねり》の声で目が覚めた。  気が付くと、中大兄は寝台の上に半身を起こしたところだった。  全身が汗でぐっしょりと濡れている。 (夢か)  中大兄は荒い息を整えた。  舎人が呆気《あつけ》にとられて、こちらを見ている。 「何でもない」  中大兄は怒鳴った。  あわてて舎人は拝礼した。 「もうよい、下がれ」  だが、舎人は下がらなかった。 「大宰府《とおのみかど》より、鵜足が使者として参りました」 「何?」  中大兄は寝台から下りた。 「それを早く申せ」  ただちに着替えると、中大兄は鵜足を接見した。  鵜足が来るのは、この前、敗戦を知らせに来て以来のことだ。  もう、あれから八カ月近くたっている。 「どうした?」  今度も、近臣を遠ざけてあった。 「唐の使者が大宰府まで参りました」 「どんな奴だ?」 「それが、軍船《いくさぶね》三隻に乗り組んだ兵《つわもの》どもで、大将は郭《かく》|務※[#「りっしんべん+宗」、unicode60b0]《むそう》と申す将軍でございます」 「なんじゃと、兵はどれくらいだ?」 「少なく見積っても千五百はおりましょう」  鵜足の言葉に、中大兄は蒼白となった。  いよいよ唐が攻めて来たのか。 (しかし、それにしては兵千五百は少な過ぎる)  中大兄は気を取り直して、 「使者の口上は何だ」 「それがはっきり致しませぬ」  鵜足は首を傾《かし》げて、 「とにかく入京を許せ、都にのぼって帝に会いたい、と申すのみにて」 「入れてはならぬ」  中大兄は大声で叫んだ。  鵜足は驚いて、まじまじと中大兄を見た。 「いや、入れてはならぬ」  中大兄は声の調子を落とした。  鵜足はほっとしたように、 「では、何と申して追い返しましょうか。御下知を賜りたく存じます」 「手荒な真似もならぬ」  中大兄はあわてて言った。  唐兵を挑発するような行為は、是非ともつつしまねばならなかった。 「とにかく口上だけは聞いておけ。その上で、都では帝が病いに臥せておられるゆえ接見はあいならぬと言うのだ」 「かしこまりました」 「それから、この際だ。唐がどういうつもりなのか、唐の軍船とはどのようなものか、つぶさに見ておけ。よいか、いずれ戦うかもしれぬのだからな」 「ははっ」  鵜足は頭を下げた。 「すぐに行け。返事が遅れれば、唐の者はしびれを切らすかもしれぬ」 「それでは参ります」  鵜足は、本当は休みたかった。  大宰府からここまで、苦しい思いをして駆けて来たのである。すぐに戻らねばならぬことを頭で理解しても、身体《からだ》の方が嫌がっていた。  せめて労をねぎらう言葉をかけてくれぬものか、鵜足はそう思った。 「どうした、早く行かぬか」  中大兄はいらいらしたように言った。 「——はっ、ただちに」  鵜足は割り切れぬ思いで外へ出た。  中大兄は急いで奥に入った。 (城を、もっと造らねばならぬ)  目が血走っていた。  既に壱岐、対馬には巨大な朝鮮式山城を築き始めている。  その地を守る防人《さきもり》の数も大幅に増やしている。主に精強な関東の兵を回す態勢ができている。 (大宰府にも城を造らねば——)  それについては、百済亡国にあたって日本に帰化してきた鬼室《きしつ》一族の提案があった。  鬼室氏は、福信《ふくしん》は殺されたが、他にも優秀な軍人がたくさんいる。  その鬼室一族は既に壱岐、対馬で城を築いていたが、大宰府防衛についても綿密な計画を立ててきた。  それは今の大宰府を海沿いから内陸に移して、その前方、つまり大陸寄りのところに防衛線を築こう、というものだった。 「いわば水城《みずき》というものでございます」  提案者は言った。 「水城?」 「はい、このように——」  と、提案者は絵図を広げた。  中大兄がのぞき込むと、それはむしろ堤防のように見えた。 「これは堤《つつみ》ではないのか」 「はい、こちら側に水を貯めます」 「水を貯めてどうする?」 「堀となすのでございます」 「なるほど、それで防ぐのか、——だが、これだけの土を盛り上げるのは大変ではないか」  その「水城」は、現在の大宰府がある那大津《なのおおつ》と、内陸へ移った新大宰府の二点を結んだ直線上を横切る形の長大なものなのである。 「土は掻《か》き揚《あ》げと致します」 「掻き揚げ?」  中大兄は、その聞き慣れぬ工法に首を傾げた。 「はい、堀のために掘った土を、そのまま土塁用に積み上げるのでございます。さすれば、堀を深く掘れば掘るほど、堤も高くなるというわけで——」 「なるほど、道理じゃの」 「もしも、敵軍が筑紫に上陸してきた時は、まず、この水城で防ぎます。これを突破されては——」 「突破とは、どういう意味だ」  中大兄は口を挟んだ。 「これは申しわけございませぬ」  提案者の百済人は頭を下げた。 「突破とは、突き破ることでございます」  中大兄はうなずいた。  帰化人は、唐の言葉にも巧みな者が多いので、ときどき言葉の中に漢語が混じるのである。 「なるほど、では、その『突破』の時はどうする」 「はい、そのおりは大宰府を捨てて山城に籠ります。その位置はこことここにございます」  と、百済人は絵図上の二点を指さした。  この戦法については、中大兄も知識があった。  都市の全面を城壁で囲い、いざという時は都市がそのまま城塞と化すのが、中国式である。  これに対して、戦時には都市を放棄し、非常用に築かれている山城に住民と共に逃げ込む、というのが朝鮮方式である。  それぐらいの知識は、中大兄にもあった。 「よし、急いでこの通りに造るがよい」 「かしこまりました」  百済人は頭を下げ、遠慮がちに言った。 「人も金も、これまでよりも多くかかりますが——」 「かまわぬ。そのことは案じるな」  中大兄は事も無げに言った。      四  圧政が始まった。  何もかもが、唐の侵攻に備えての軍事費に転用された。  税が重くなっただけではない。一家の働き手が徴兵されるようになって、農作業の人手が足らなくなった。それなのに、年貢は重くなったのである。それをこなすためには、朝から晩まで働かなければならない。  怨嗟《えんさ》の声は世に満ち満ちていた。  そんななか、大海人は都を離れていた。  大宰府移転および水城などの城の築造を監督することを、中大兄から命じられたのである。  大海人は労役に狩り出された人々と共に、額に汗して働いていた。  皇族の身ではあるが、生まれてから数十年間平民として育った大海人には、ただ人が獣のように使役されるのを見るに忍びなかったのである。  人々は大海人に服した。  都なら、皇族の身分をわきまえぬ下卑たふるまいという悪評もたっただろうが、ここは九州である。  うるさいことを言う連中はいない。  大海人はその日も炎天下、上半身裸になって鍬《くわ》をふるっていた。  見渡せば、この筑紫平野の出口にあたるところが急に狭くなっている。  水城はそこに築かれつつある。  総勢数千人もの人間が、大地に蟻のように取りついて働いていた。 「御精がでますな」  声をかけられて、大海人が顔を上げると、そこには、四十過ぎのやや小太りの男が、陽に焼けた顔に微笑を浮かべていた。 「これは、栗隈《くりくま》殿」  大海人は汗をふいて、会釈した。  大宰府の副官として派遣されている栗隈王だった。 「王」は天皇の孫以下を表わす称号だから、大海人よりは身分が下なのだが、大海人はこの栗隈王に好意を持っていた。こんな辺地に来た皇族は、みんな顔が都の方を向いているものだが、栗隈王は違っている。 「皇子《みこ》様の陣頭に立ってのお働き、いつも感服致しております」  栗隈は言った。 「なに、育ちが悪いのでな」  大海人も笑って、とりあえず鍬を置いた。 「また、唐使が来るようですな」  栗隈王は言った。 「また?」  大海人は緊張した。 「郭という男か」 「いえ、それより上の大使|劉徳高《りゆうとくこう》という男だそうです」 「早耳だな」  大海人は感心した。 「それがつとめでございますから」 「何をしに来るのだ?」 「やはり、この国の様子を探りにでございましょうな」 「攻める前の瀬踏みというわけか」 「事と次第によっては、そうなりましょう」  大海人は溜息をついた。  日本は、中大兄の方針により新羅との友好の道をすべて絶った。  あとは高句麗に頑張ってもらうしかない。  しかし、高句麗との友好の道も閉ざされていた。  日本から使者を送るには、半島を縦断するか船で直接行くかしかないが、その途中には新羅がでんと構えている。  ここを巧みにすりぬけて行くことなど不可能である。  しかし、高句麗は北に唐、南に新羅の挟みうちを受けながら、何とか持ちこたえている。  だからこそ、日本は防備態勢を固める暇があったのだ。  しかし、再び唐の使いが来たということは——。 「まさか、高句麗が敗れたのではあるまいな」  大海人は、この真夏に冷汗をかいて言った。 「いえ、まだでございます。そう聞きました」 「そうか」  大海人は、ほっとした。 「——で、皇太子様は、今度の使者は接見なさるおつもりか」 「さあ、それが——」  栗隈王は言葉を濁した。 (何かあるな)  大海人は嫌な予感がした。      五  間人太后《はしひとたいこう》が突然この世を去ったのは、年が明けて春のことだった。  呆気《あつけ》ない死だ。 「死んだのか——」  中大兄は実のところ、彼女の存在を忘れていた。 「はい、朝おめざめの後、胸が苦しいと仰せられ、水をお取り寄せになったのですが、そのまま呆気なく」  女官の樟葉《くずは》は涙ながらに言上した。 「そうか」  中大兄は別に涙が出て来なかった。  樟葉は、中大兄がそれ以上何も言わないので、不審な顔をした。 「——あの」 「何だ。もう帰ってよいぞ」 「——皇太子様は、お出ましにならないのでございますか」 「多忙なのだ」  中大兄は言った。  実際そうであった。  唐との戦《いくさ》に備えて、やることは山積していた。  内政の充実、軍備の拡張、唐との折衝——私事に時間を割いている暇はない。  樟葉は怒りの色を浮かべた。 「皇太子様、太后《おおきさき》様がお隠れになったのでございますよ」  それがどうした、という眼で中大兄は樟葉を見た。 「お別れなさるのが作法ではございませぬか」 「葬《とむら》いはする。立派な陵《みささぎ》も造ってやる」  中大兄は面倒臭そうに言った。  そんなことではございません。喉元まで出かかった言葉を、樟葉はかろうじて呑みこんだ。 (なんと情の無い御方であろう)  中大兄はそのまま席を立ち、奥に入った。 (おかわいそうな、太后様)  樟葉は流れる涙をぬぐおうともせず、その場を去った。  戻ってみると、大海人が館にいた。 「まあ、あなた様は」  樟葉は目をみはった。 「このたびは突然のことで、お悔み申し上げる」  大海人は頭を下げた。 「いつ、筑紫《つくし》からお戻りに」 「つい、先程な。館に帰ってすぐに、知らせを聞いた」  樟葉は、大海人の姿が旅塵にまみれているのに、気が付いた。  旅装も解かずにここへ来てくれたのだ——樟葉は、中大兄のところでとは違う涙を流した。 「では、これで失礼する」  大海人は言った。  死者と対面するのは近親者に限られる。  大海人も異腹の兄だから、会う資格があるが、相手が皇后の位に昇った女性でもあり、遠慮したのである。  樟葉も強いて対面を勧めなかった。  大海人は辞去した。  樟葉は死者の永眠する部屋に戻った。  太后は、なにかほっとしたような表情をしていた。  それを見て樟葉は、また涙がこぼれてならなかった。      六  中大兄が大海人を九州から呼び返したのは、ある意図があったからだ。 「唐使を、都へ招くぞ」  中大兄は、大海人を呼び出すと、いきなり決定を伝えた。  大海人は黙って頭を上げた。  そのことは、栗隈王から聞いていた。  中大兄は、この前やって来た唐使郭務※[#「りっしんべん+宗」、unicode60b0]は大宰府で応対し、畿内に入るのは許さなかった。  それは、恐怖のためだ。  唐は侵攻のために、日本を偵察に来たのではないかと、中大兄は疑ったのである。  そういう使者を、国内に入れ、国土を縦断させるなど、とんでもないという思いがあった。  しかし、唐は再び郭の上官である劉徳高を派遣して来た。  こうなると、中大兄も大宰府で応対するというわけにはいかない。 「唐使はどこまで来ている?」  中大兄はたずねた。 「おそらく、明日は熟田津《にきたづ》あたりかと」  大海人は答えた。  那大津《なのおおつ》を出た唐の軍船は、四国の熟田津を経由して、難波の港に入るはずだ。  大海人はその経路を先行して都にやって来たのだ。  熟田津で、唐使は接待にかこつけてしばらく足止めを食らうはずだ。  その間に、中大兄は、あることを準備していた。  それは畿内の軍団の大動員である。  畿内だけではなく、東国からも兵士が徴発され、続々と集結しつつあった。  それを中大兄は山背国の宇治郡に導いた。  山科《やましな》から宇治にかけての地は、川沿いに平地が多く、大軍が集結するには適している。  中大兄は狩りが好きで、山科方面には何度も行っているので、そのあたりのことはよく知っていた。 「きゃつらが来たら、宇治へ招く。あのあたりに桟敷を設け、わが国の力を見せつけてやるのだ」 (やはりそうか)  大海人は嫌な予感が適中したのを知った。  中大兄は、唐使を都に入れるにあたって、軍団を動員し示威しようとしているのだ。 「どうした、浮かぬ顔だな」  大海人の表情を見て、中大兄はすかさず言った。 「——いえ、別に」 「そなたには槍の舞いを見せてもらわねばならぬぞ」  中大兄は言った。 「槍の舞い——」  大海人は思い出した。  初めて中大兄が自分の館に来た時、槍の演武を見せたことを。  このために、中大兄は大海人を「利用」しようという気になったのだ。  今度も利用されるらしい。  唐使へ、日本にはこんな武勇の士がいると、見せるつもりなのだ。 「よいな。しかと頼んだぞ」  それだけ言うと、中大兄はもうそっぽを向いていた。  舎人が決裁を求める書類を持ってきたのだ。 「どうした? 下がってよいぞ」  中大兄は冷やかに言った。  大海人は一礼して外へ出た。 (本当にこれでいいのだろうか)  馬に乗って館に戻る途中も、大海人の心は晴れなかった。  中大兄は、いま日本を危険な道に導こうとしているのではないか。  白村江では負けた。  唐の力に、日本は史上初めての大敗北を喫した。  その唐を恐れるのは理解できる。  確かに、唐の力を無視しては、これからの日本は立ち行かない。しかし、だからといって、その巨大なる力に対して子供のように背伸びをして見せて、一体何になるというのだろう。  むしろ、場合によっては、唐に恭順する姿勢を見せることすら必要ではないか。  もちろん万一の場合、唐が侵攻してきた時には、徹底抗戦も止むを得ないかもしれない。  そういうことにならないように、ある程度軍事力を見せておくことは必要には違いない。  だが、刺激してはまずい。  この先、大陸と半島の情勢はどう転ぶかわからない。 (唐とも、手切れになってはまずい、というのに)  大海人はそのまま帰る気がしなかった。 (鎌子のところにでも寄ってみるか)  ふとそう思った。  そう言えば、都に戻ってまだ一度も鎌子と顔を合わせていない。  大海人は馬首をめぐらせた。      七  鎌子は病いに伏せっていた。 「どうしたのだ?」  大海人は顔色を変えた。 「いえ、大したことではありません」  鎌子は病いの床から、あわてて身を起こしたが、大海人は進み出てその肩に手を置いた。 「休むがよい」 「いえ、このままで」  鎌子はそう言ったが、すぐに激しく咳き込んだ。 「病人は身体《からだ》を大切にせねばならぬ」  大海人は鎌子を寝かせた。 「この危急の秋《とき》に申しわけもございませぬ」 「なに、今は身体をなおすことだ」  大海人は帰ろうと思った。  病人の心を乱しても始まらない。 「お待ち下さい」  鎌子は呼び止めた。 「何だ? 休むのが一番だぞ」 「いえ、ぜひ申し上げておきたい儀が——」  鎌子がまた身を起こそうとしたので、大海人はあわてて歩み寄った。 「そのままでよい、申してみよ」 「——こちらも唐へ使いを出すべきでございましょう」  鎌子は言った。  その表情には、病いの苦痛が現われている。 「それはもうそなたが何度も言ったことではないか」  大海人は、それを耳にしていた。  鎌子は、中大兄に、唐との連絡をつけるため、使者を出しておくべきだと、提言していたのである。 「いえ、今度の唐使の入京を迎えてのことでございます」 「うん?」  大海人は首を傾げた。  鎌子の言う意味がよくわからない。 「答礼でございます」 「答礼?」 「はい。はるばる唐からの使いが、わが国の都まで来てくれたのですから、当方も当然、答礼使を差し向けなければなりません」 「——そうか」  大海人は合点した。  鎌子は、答礼使にかこつけて、唐へ使者を出し、そのことによって唐との誼《よし》みを通じろ、と言っているのだ。 「わかった。——だが、納得されるかな」  大海人が言ったのは、もちろん中大兄のことである。 「——説得のやり方によっては」 「どうする?」  大海人はたずねた。  こういう時には、なまじ考えるより鎌子の知恵に頼るのが最もいい。 「——皇太子様は、唐の力を見たいと思し召されておるはず」  鎌子は苦しそうに、 「それゆえ、答礼使を出すことは、唐の出方を探る格好の手段となることを、申し上げればよいと存じます」 「なるほど」  大海人は感心した。  つまり、中大兄には、唐へ「答礼」するのではない「偵察」するのだ、と言って説得しろというのだ。  これなら、中大兄も話に乗るだろう。  中大兄は、唐と一戦を交えることも辞さないつもりなのだから。 「では、これからすぐにでも参内致そう。善は急げと申すからな」  大海人は大きくうなずいた。 「申しわけもございませぬ」  鎌子は謝った。  本来なら、大海人の手をわずらわせずに、自分が行くべきところなのだ。 「よく気が付いてくれた。安心して休め」  大海人はそう言って、再び馬上の人となった。 「何だ、また何か用か」  中大兄は大海人の顔を見ると、不快そうに言った。 「ぜひとも申し上げたき儀がありまして、無礼を省みず参上致しました」  大海人は中大兄の顔を直視して言った。 「言いたいことがあれば、早く申せ。わしは忙しい」 「では、申し上げます」  中大兄は、大海人の方を見ずに書類に目を通していた。 「今度、唐使が帰る時に、こちらも答礼使を派遣すべきだと存じます」  それを聞いて、中大兄は意外な顔をして目を上げた。 「答礼じゃと」 「はい」 「何を申すか」  中大兄は怒って、 「かの国は敵国だ。敵の国に答礼など要らぬ」  と、大海人をにらみつけた。 「答礼ではございません」  大海人はあくまでも冷静な声で言った。  だが、その態度に中大兄はますます怒って、 「なんだと、いま、その口で答礼と申したではないか」 「答礼は仮の姿ということでございます」 「仮?」  中大兄は、今度はけげんな顔をした。 「はい。答礼にかこつけて、かの国の動向を探って参るのでございます」 「——」 「答礼使とあれば、かの国も歓迎しないわけにはいきますまい。すなわち、様々なことが探り出せるのではございますまいか」  大海人は言った。  中大兄は書類を置いて、しばらく考えていたが、 「——名案だな」 「答礼使には、ぜひわたくしを」  大海人は熱意を込めて言った。  本心である。唐の都をこの目で見てみたいという思いもある。だが、最も強いのは、この国のために唐の人々と交わっておきたいということだ。 「それは、だめだ」  にべもなく中大兄は言った。 「なぜです」 「そなたはいつもわしの側近くにいて、わが身を守ってもらわねばならぬ」  中大兄はむりやり笑みを浮かべ、 「そなたは槍の名手だからな」 「行ってはいけませぬか」 「ならぬ」  中大兄は大声で決めつけると、声を落として、 「そのような使いには、罪を得た者でも送っておけば充分であろう」 「罪人を?」 「そうだ。罪を許してやるといえば、死にもの狂いで働くだろう」  中大兄はそう言って、 「守君大石《もりのきみおおいし》などよかろう」 「大石でございますか」  その名は、大海人も知っていた。小錦《しようきん》の位にあったが、罪に連座し拘禁されているはずだ。 (だが、適任ではない)  大海人は秘かに思った。  罪人が赦免を条件に働くとなれば、中大兄の意を迎えることに、全力を注ぐはずである。  だが、この役目は、冷静に公平に物を見て、諫言することも恐れてはならない。  そんな役目が、大石につとまるはずもない。 「どうした? 何か不満があるのか」  中大兄は言った。 「いえ」  大海人は言葉を呑み込んだ。 「不満があるなら、言え」  中大兄は催促した。  またか、と大海人は思った。  その言葉に従って、不満を言ったところで、中大兄には改める気は毛頭ないのだ。  ならば、言うだけ無駄というものである。  しかし、大海人はそれでも言った。  大石が適任でないこと、そして、その理由をである。  再び中大兄は怒った。 「下らぬ心配をするな」 「はっ」  大海人は頭を下げた。 「きゃつらの相手は、罪人がちょうどいいのだ」  中大兄は言い切った。  大海人は失望の念を新たにした。      八  唐使劉徳高は、いかにも大官らしく、太っていて落ち着き払っている。  目は大きく鼻も唇も厚い。そして、大官には珍しく日焼けしているのが、人目を引いた。 「ようやく陛下にお目にかかることができ、光栄至極に存じます」  中大兄は、その丁重な言葉に込められた皮肉に気付いていた。 「ようやく」というところに、なかなか入京を許されなかった、という意味を込めているのだ。  中大兄も、そのくらいの唐語なら理解できる。 「——わしはまだ陛下と呼ばれる身ではなくてな」  それは通辞を通して言った。 「これは失礼致しました」  劉は頭を下げた。 「殿下とお呼び致すべきでしたな」 「とにかく、よくぞ参られた」  中大兄は一行に都を念入りに見せた。  劉はもちろん一人ではない。武官らしい男の他に、お付きの者が何人もいる。  その者たちには、まるで品定めをするように、都の施設を見ている者がいた。 (攻めるための準備に違いない)  中大兄に近侍している大海人は思った。  不可解だった。唐の侵攻をあれほど警戒している中大兄が、どうして首都のすべてを見せるのか。  軍団を動員して示威行動をするならわかるが、都を詳細に見せるのは合点がいかない。  大海人がそう思うのは当然である。  中大兄は中大兄で、思惑があった。 (いずれ、この都は捨てる)  そのことだった。  難波京は海に面している。  貿易や交通には便利だが、防衛上は極めて不利だ。敵の軍船もするすると入って来られるからである。  だから、いくら見せてもいい。  詳細に記憶して帰ったところで、そんなものは役に立たなくなるのだ。 「明日は宇治という景勝の地に御案内致そう」  一日中、劉ら一行を引っ張り回した後、酒宴の席でそう言った。 「御配慮かたじけなく存じます」  劉は答えた。  その陶器のような、なめらかで血色のいい顔からは、何を考えているのか読み取ることは難しい。  これは相当の食わせ者だぞ、と大海人は思った。  翌日、午後から、唐使のために設けられた特別席の前で、大規模な閲兵が行なわれた。  この日のために集められた三万人の兵が、入れかわり立ちかわり現われ、行進し演武し、劉に力を見せつけた。  中大兄も大海人も、それぞれ思いは異なるものの、劉がどのように反応するか、気を配っていた。  大海人は、劉の隣にいる武官も気になっていた。  実際に闘うとなれば、武官がその先頭に立ち、劉のような文官はまず出てこない。  劉付きの武官は、背の高い男で、軍団の行進を身じろぎもせずに見ていた。 (あの男も相当できる)  大海人は武人としての直感で、それを見抜いた。  軍団の行進は、うんざりするほど続けられた。  これでもか、これでもか、と中大兄は軍団を動かした。まるで、そうすればするほど唐の侵攻が防げると思い込んでいるかのようだ。  だが、それも夕刻には終わった。  中大兄は軍団を正対する形で並べ、その前に少し余裕を取った。少し空いたところを作ったのである。 「これより、わが弟の演武をごらんに入れる」  中大兄は言った。 「わが弟」とわざわざ言ったのは親愛の情ではない。王族にも「これぐらいの使い手はいるんだぞ」と示すためだ。  大海人は槍を取った。  それはまさしく蝶のように軽やかな、そして龍のように力強い舞いだった。  軍団の大行進にも眉一つ動かさなかった劉も、目を見はっていた。  大海人の技量も境地も、昔よりは一段と進んでいる。  父との対決が、その技量をさらに深めたのである。  この間は、槍の穂先で蜂を刺し貫いた。  だが、大海人は、きょうはそれをするつもりはなかった。  蜂がいないのではない。  武術というものは、こういうものだ、と少しずつわかってきたのだ。  中大兄は、大海人がそれをせぬことが不満であったが、劉以下の唐人も、日本側の人間も感嘆の声を上げた。  大海人は一礼して席に戻った。  呼吸はいささかも乱れていない。 「お見事でした」  通辞を通して劉は言った。 「おそれ入ります」 「見事な業ですな。あれはこの国伝来のものですか」 「さあ、もとは海の向うから来たものかもしれませぬが——」  大海人は正直に答えた。 「なるほど、なるほど」  劉は満足げにうなずいて、今度は中大兄の方を向いて一礼した。 「いかがでございましょう。この見事な演武の返礼に、わたくしどもの武官が同じく演武をお見せいたしたいと存じますが——」 「ほう、それは面白い」  中大兄はただちに受けた。 「では、この朱堅《しゆけん》が、剣舞をお見せする」  朱と呼ばれたのは、先程から大海人が注目していた男だった。  朱は剣を取り寄せると、大海人に向かって会釈して、空地に出た。  剣を抜き、呼吸を整えたあと、朱は剣を背に隠して一礼した。 「きえーっ」  鋭い気合いを発したかと思うと、朱は剣を自在に操り、前後左右に動いた。  大海人は見た。  中大兄も見た。  朱を取り囲む数十人の見えない敵を。  その敵に対して、朱はまったくひるむことはなく、立ち回っていた。 (斬った)  大海人は斬られた相手の数をかぞえていた。  朱の剣にはいささかの隙もなかった。  とうとう最後まで、朱は乱れを見せず、敵をすべて倒した。 「いや、見事、見事」  中大兄は賞讃した。  しかし、その声にはどこか口惜しげな響きがあった。  劉は満足していた。  朱の剣舞は、大海人の槍の舞いに対して、唐帝国の意気地を示した形になった。 「お褒めに預かり光栄です」  劉が朱に代って頭を下げた。 「いや、大した武人をお抱えになっておられるな」  中大兄は言った。 「ありがとうございます」 「どうであろう」  中大兄は身を乗り出すようにして、劉に話しかける前に、ちらりと大海人を見た。  大海人は嫌な予感がした。  それは正しかった。 「双方、見事な業を持つ者がおる。この二人に試合をさせるのも一興ではないか」  中大兄はそう言ったのである。      九  中大兄皇子の言葉を聞いて、大海人皇子は苦い顔をした。  大海人と朱堅が試合をするとなれば、座興では済まなくなる。  劉は一瞬、とまどいの色を見せた。 「気がすすまぬのか」  中大兄は軽く挑発するように言った。  劉は朱の方を見た。  朱は無表情でうなずいた。 「お受け致しましょう」  劉は言った。 「そうか、受けられるか。さすが大国の使者じゃのう」  中大兄は笑みを浮かべて、大海人を見た。 「では、一手教えてもらえ」  そう言った目は、まったく笑っていなかった。 (——勝手なお人だ)  大海人は文句を言いたかった。  この試合、勝っても負けても、具合が悪い。  勝てば唐使の一行は機嫌を悪くするだろうし、負ければ日本の恥だ。どちらに転んでも、いいことはない。それなのに、中大兄はやれという。  勝つことを望んでいるのだろう。  しかし、勝てばいいというものではないし、第一、勝てると決まったものでもない。  朱堅という男はかなりの使い手である。  一般に剣と槍では、槍の方が有利とされているが、その利を生かせるものかどうか、大海人は自信がなかった。  が、やらねばならない。  大海人は広場に進み出た。  朱も進み出た。  両者はまず上座に一礼すると、今度は面と向かって一礼した。  その時、大海人は初めて朱の眼光を見た。  深い海の底を見たように思った。  ぎらぎらするものはない。だが、それだけに得体の知れぬ不気味さがある。 「いざ」  大海人は声をかけた。 「応《おう》」  朱は短く言った。  そのまま動かない。  大海人が仕掛けるのを待っているのだ。槍を相手にする場合、これは決してまずいやり方ではない。 (ではお手並み拝見といくか)  大海人はわざと大声を張り上げ、槍を少し加減して突き込んだ。  朱が、にやりと笑ったように見えた。 (——!)  気が付くと、朱はそこにはいなかった。  大海人はあわてて、槍をはらうようにし、左に飛んだ朱の足を狙った。  穂先を使えば、相手に怪我を負わせてしまう。血を流さずに勝つには、この手しかない。  だが、朱はそれを予期していたのか、今度は飛び上がった。 (おのれ)  大海人は手加減する必要がないのを知った。  それどころか、このままではとても勝つことなど覚束ない。 (よし)  大海人は思い切って本気で突いてみた。  もちろん、急所ははずした。  がつん、と初めて手応えがあった。  朱が剣で受けたのである。  受けた時、目と目があった。  朱が何か言ったように、大海人は感じた。 「それではこちらからも参りますぞ」とでも言ったのか。  朱の鋭い一撃が来た。  大海人は槍の柄でこれを受けた。  受けると同時に肝が冷えた。  大海人は、槍の柄には丈夫な樫を使い、鉄の鎖を巻いている。  それがなければ、朱の一閃に柄は両断され、大海人は脳天を斬り割られていただろう。  朱はつづいて、左と右から二回攻めて来た。  大海人は、なんとかこれをかわした。  そこで斬撃が止まった。 (そうか)  大海人は、その理由《わけ》を悟った。  こちらの攻撃回数に合わせて、向うも攻撃をしてくるのだ。 (それならば——)  大海人は一度撃ち込み、相手の攻撃を待った。  朱も大海人の考えを理解した。  わざと声を出して、朱は一回だけ撃ち込んできた。  こうなれば、話は決まった。  大海人と朱は交互に撃ち合いを始めた。  傍目には、両方が真剣に戦っているように見えただろうが、実は二人は演武を見せていたのだ。  打ち合わせなしの演武であった。  十合以上撃ち合うと、さすがに両者とも息が切れてきた。そして、どちらからともなく離れて見合った。  機をうかがっていた劉が立ち上がった。 「これまでと致しませぬか」  その言葉は、通辞から中大兄に伝えられた。 「よかろう」  中大兄はうなずいた。  勝負は引き分けとなった。 (よかった)  大海人はようやく肩の力を抜いた。  朱も初めて笑みを浮かべた。 [#改ページ]   第十五章 近江新京      一  中大兄は、母|斉明《さいめい》女帝と妹|間人《はしひと》太后の陵《みささぎ》を造った後、しばらく新都の候補地を探していた。  新都に最も適した地について、中大兄は百済人の意見を大いに参考にした。  内陸で、敵が上陸しても、しばらく持ちこたえることができる地。そして、いざとなれば再起をはかるために脱出しやすい地でなければならない。  琵琶湖のほとりの大津こそ、その地にふさわしいと、中大兄は思った。  だが、廷臣は反対した。  都は畿内を出ないという不文律がある。  近江は畿内ではない。廷臣は前例のないこととして、猛反対したのである。 「そなたはどう思う」  大海人は鎌足《かまたり》に聞いた。つい先頃、鎌子は鎌足という名に改めていた。 「——畿内を出る出ないは、どちらでもよいことかと存じます」  このところ鎌足は健康を損ねていた。顔の色もよくない。 (力の無い声だな)  大海人は答えより、そちらの方が気になった。 「いかが思われます」  大海人が反対を示さないので、鎌足は逆に聞いてきた。 「うむ」  大海人はうなずいて、 「わたしもそう思う」 「やはり、左様思われますか」 「畿内を出るかどうかなどは、ささいなことに過ぎない。大切なのは、今、都を遷すことが正しいか否かだ」 「その通りでございましょう」  鎌足は頭を下げて、 「確かに、唐と事を構えるならば、あの地に遷すことは悪くございません。大軍を防ぐことも出来ましょうし、いざとなれば湖《うみ》に舟を浮かべ東国に逃れることも出来ましょう。されど、そもそも、唐との大戦《おおいくさ》を避けるべきだというのが、わたくしの考えでございます」 「わたしも同じだ」  大海人は、わが意を得たとばかりに、うなずいてみせた。 「この国の行く末が案じられてなりませぬ」  鎌足は暗い顔をして言った。  中大兄に対する怨嗟《えんさ》の声は、さらに厳しいものになっていた。  新都造成には金がかかる。都には新しい官衙《かんが》が必要だ。  そればかりではない。中大兄は寺も建立した。  崇福《すうふく》寺という大寺を、都の北に建てたのである。旧都の寺から無理矢理に仏舎利を召し上げ、崇福寺に収めさせた。寺の権威を上げるためだったが、取られた側は当然中大兄を憎み、他の寺々もこれに同情した。  そんな中、信貴山《しぎさん》では、新羅《しらぎ》の間諜|道行《どうぎよう》法師が配下を集めていた。 「皇太子は来年正月、いよいよ即位するらしい」  道行は全員を見渡して言った。  全員の顔に緊張が走った。  これまで中大兄は、あくまで皇太子のまま政務をとっていたが、新しい都へ遷ったのを契機に、帝の位に即く決意を固めたのだ。  それは中大兄が即位の礼のための様々な準備をしていることから、既に明らかであった。  道行は配下の間諜を使い、探り出していたのである。 「さて、そこでだ」  道行はもう一度全員を見渡すと、 「中大兄の即位は、われら新羅にとっては良いことではない。中大兄は、百済《くだら》贔屓だ。われらの国を敵と見ておる。そこで、われらは為さねばならぬことがある」  配下の者たちは、食い入るように道行の口元を見つめていた。 「中大兄の即位を妨害するのだ」  道行は低い声だが、はっきりと言った。  配下の者たちは、驚いて顔を見合わせた。 「頭《かしら》、一体どうやって?」  沙摩《さま》が尋ねた。  沙摩は道行配下のうちでは、最も手練《てだれ》である。 「日本に三種の神器というものがある——」  道行は言った。  このことは多くの者が知っていた。  道行の配下は、いずれも三年以上日本に住んでおり、日本語が達者な者ばかりである。 「鏡と剣と玉だ。この三つが揃わねば、正統な王者とは言えぬ」 「——では、頭?」 「そうだ。その一つを盗み出す」  道行の言葉は、また全員を驚かせた。  神器は都の王宮の奥深くに、厳重な監視のもとに保管されているはずである。  それを盗み出すというのか。 「安心しろ。わしの調べでは、剣だけは尾張の国の熱田《あつた》という社に保管されている。それが即位の礼に使うために、熱田から都へ運ばれる。その道中を狙うのだ」  道行は自信たっぷりに、 「この国の者は、まさか神器が狙われるとは夢にも思っておらぬ。祟《たた》りがあると信じておるからだ。したがって護衛の兵もわずかだ。寝込みを襲えば、まちがいなく奪うことができる」 「で、その後は?」  今度は別の配下の者が聞いた。 「知れたこと。この国から持ち出し、われらの王に献上するのだ。神器の剣はこの国の兵《つわもの》の力を示すもの。なくなればあわてるぞ」  道行は、にやりと笑った。 「で、いつやります?」 「それはな——」  道行が膝を乗り出した時、背後から声がかかった。 「待て」  道行は驚いて振り返った。  そこには、笠の武人が立っていた。  もちろん、きょうは、笠はとっている。  総髪の堂々たる偉丈夫である。 「これは、沙《さ》|※[#「冫+食」、unicode98e1]《さん》様」  道行はあわてて、そちらを向いて頭を下げた。 「わしは左様なことを命じた覚えはないぞ」  沙※[#「冫+食」、unicode98e1]と呼ばれた男は言った。  沙※[#「冫+食」、unicode98e1]とは新羅の貴族の位の一つである。 「——ははっ」  道行は床に頭をすりつけた。 「何を考えておるのだ、そちは」 「——」 「われらがこの国の王権の象徴たる剣を盗み出したりすれば、この国とわれらの国はもはや二度と友誼を結ぶことはかなわぬぞ」 「——」 「どうした、何か言いたいことあらば、言ってみよ」 「——では、申し上げます」  道行は肚《はら》をくくって頭を上げた。 「中大兄は、われらの国とは永遠《とわ》に友誼を結ぶつもりはございません」 「だから、どうした」 「ならば、早いうちに中大兄の力を失墜させ、その没落をはかるのが、上策でございます」 「それで神器を盗むというのか」 「はい」 「たわけ者」  沙※[#「冫+食」、unicode98e1]は怒鳴りつけた。  道行は縮み上がった。 「神器の一つや二つ盗んだところで、皇太子の力は衰えぬぞ。われらの仕業とわかれば、かえって、ますます厄介なことになる」 「われらの仕業とはわかりません」 「なぜだ」 「われらはあくまで正体を秘し、そのままわが国へ持ち帰るのですから」 「わかったら、どうする?」 「けっして、わかりませぬ」 「この、強情者め」  沙※[#「冫+食」、unicode98e1]は呆れて、 「なぜ、そこまで強硬な手を使わねばならぬのだ」 「沙※[#「冫+食」、unicode98e1]様、われらの国は今、存亡の危機に瀕しております」 「左様なことは、わかっておる」 「いや、わかっておられませぬ。いずれ、唐は日本と誼《よし》みを通じ、わが新羅を挟撃せんとはかるでしょう。ならば、今のうちに新羅嫌いの王を廃し、新羅に好意を持つ者が王位に即くよう計らうべきと存じます」 「そのような者の心当りがあるのか」  沙※[#「冫+食」、unicode98e1]の問いに、道行は見返して、 「——大海人皇子様、あなた様の御子息にございます」 「——」 「あの御方がこの国の王となれば、わが国にとっても、これほど好ましいことはございませぬ」 「——」 「いかがでございましょう」 「——それはわからぬでもない」  沙※[#「冫+食」、unicode98e1]は、うめくように言った。 「わしとて、人の子の親だ。わが子の栄達を望む心はある」 「ならば——」 「いや、待て。だが、神器を盗むことが果たして、あの者のためになるであろうか」 「——?」 「そちは、われらの仕業であることを隠すと言った。だが、それでは逆に、あの者が疑われるかも知れぬ。今、ここで皇太子を刺激することは、かえって国内の新羅を好む者の立場を悪くせぬか」  道行は黙っていた。  確かに、道行はそういう考え方をしたことはなかった。 「では、どうせよ、と仰せられる」  道行は改めて聞いた。 「ここは静観するのが一番良いとみた」 「静観?」 「左様、何事もなさず、ただ待つのも兵法のうちじゃ。なまじ動くことによって、かえって立場を悪くすることがある」  沙※[#「冫+食」、unicode98e1]は、さとすように言った。 「それでは、中大兄は倒れませぬ」  道行は叫んだ。 「いいや、倒れる」 「何故でございます」 「皇太子の無理な施策により、民の怨嗟の声は満ちているではないか。道琳《どうりん》のことを思い出せ、道行」  道琳とは高句麗《こうくり》の間者で、この世界では伝説的な存在だった。道琳は罪を得たと称して百済へ流れて行き、特技の碁をもって百済王に仕えた。そして碁好きの王のお気に入りとなった道琳は、ある日献言した。  宮殿も諸陵も、国の繁栄に比してあまりにみすぼらしいから大修復をすべきだ、というのだ。  王はこれを受け入れ、本当に大工事を起こした。  そのためには、重税を課し、人民を徴発せねばならなかった。  数年後、確かに国の施設は整えられたが、人々は重税に疲れ、王を怨む声は世に満ちた。そこで道琳は、このさまを故国高句麗に告げ、軍を手引きした。首都は呆気なく落とされ、王は高句麗軍の手によって殺された。道琳というたった一人の諜者の働きで、百済は一時亡国寸前まで追い込まれたのである。  これは何十年も昔の話だが、韓半島では誰もが知っている有名な話でもある。  もちろん、道行もこのことは知っていた。 「道琳の如くせよ、それこそがわれらの取るべき道だ」  沙※[#「冫+食」、unicode98e1]は言った。  道行は抗弁しようとしたが、沙※[#「冫+食」、unicode98e1]の堂々とした態度に気押され、黙り込んだ。 「よいな」  沙※[#「冫+食」、unicode98e1]は去った。  配下の者たちも、道行を気の毒そうに眺めながら、一人また一人とその場を去った。 (だが、わしはやる)  一人残された道行は、決行の決意を固めていた。      二  神器の一つの剣とは、草薙剣《くさなぎのつるぎ》である。  昔、ヤマトタケルが賊に襲われ火攻めにあった時、この剣をもって野の草を切り払い、火勢の方向を変えて助かったことから、この名がある。  この剣は、収められていた尾張の熱田の社を出た。  神官による荘重な渡御《とぎよ》式が行なわれた後、剣は箱に収められたまま長持に入れられ、棒をわたして前後で人がかつぎ上げた。  行列は全部で十人ほどで、日の出から日没まで歩き、そのあとは泊る。行列を見た人々は道をあけ、頭を下げた。  この長持を奪おうとする賊などいない。  そんなことをしたら、草の根を分けても探し出されて極刑に処せられることは目に見えているからだ。  だから、警護の責任者の武麿《たけまろ》も、安心しきっていた。  第一、長持には厳重な錠がかかっている。そして、この鍵は武麿が懐に抱いているのである。  盗まれるはずがなかった。  道行は、その油断をついた。  初めの頃は、寝る間も不寝番を付けていた武麿は、都が近付くにつれ警戒をゆるめ、長持は宿舎の奥に放り出されたままのことが多くなった。  道行は宿舎に忍び入った。  相手が人間なら目覚めぬように用心せねばならないが、物言わぬ長持なら、その心配はない。  道行はやすやすと近付いた。  そして手燭をともして、見ることすら出来た。  錠を見た途端、道行は薄笑いを浮かべた。 (これが神器の錠か、他愛もない)  道行は、懐から太い釘のようなものを出すと、鍵穴に差し込み、数瞬後にそれを開けてしまった。  中には、つづらのような草で編んだ箱が入っており、さらにその中味は白銅の剣だった。  両刃《もろは》の剣で、長さは八握《やつか》ぐらいであろうか。 (これが神器か)  道行は手に取った。  確かに、質のいい銅は使っているが、海の向うに渡れば、いくらでもあるような剣である。  この程度の剣を「神器」とあがめたてまつるこの国の仕組みに、道行はあらためて軽侮の念を抱いた。 (さて、行くか)  道行は剣を布に包み、背に負うと、すばやく手燭を消し闇の中に消えた。  鍵は元通りかけておいた。  それでも中味の重さが違ったはずだが、武麿一行はまったく気が付かずに、そのまま都に入った。  中大兄は早速、一行を引見した。 「御苦労」  中大兄は笑顔で言った。これで三種の神器が揃い、めでたく即位の礼を挙げることができるのだ。 「箱を開けてみよ」  中大兄は言った。  まだ、神剣なるものを見たことがないのだ。 「ははっ」  武麿はかしこまって、長持の錠を開けた。  そして、一瞬の後、その表情は蒼白となった。 「どうした?」  声も出ない武麿を見て、中大兄は不思議そうに問うた。 「——ご、ございませぬ」 「何? 何がないというのだ」  武麿は、それは言えなかった。  中大兄は玉座を下りて、箱の中を見た。  その表情が変った。 「たわけ者」  中大兄は大喝した。  武麿は首をすくめ、床にはいつくばって詫びた。 「申しわけもございませぬ。臣の罪は万死に値します」 「そうか、万死に値するか」  中大兄は怒りで真っ赤になり、剣を持ってこさせた。 「ならば、死ね。死して罪をつぐなえ」  中大兄の剣が武麿の頭上に振り下ろされようとした時、割って入った男が止めた。大海人であった。 「何をする」  中大兄は大海人をにらんだ。 「お腹立ちでもございましょうが、ここは一つ、私に免じてお許し下さいませ」 「なんだと」 「それにこの者を斬ってしまえば、盗人を詮議する手だてがなくなります」 「——」  中大兄もこの理屈には参った。  確かに、今一番大切なのは、武麿を斬り殺すことではなく、神剣を取り戻すことである。  剣を引いた中大兄に、大海人は、 「では、よろしいのですね。この者は、わたくしがお預かりします」 「勝手にせい」  中大兄は吐き捨てるように言った。 「さあ、来い」  大海人は中大兄の気が変らないうちにと思い、武麿を引き立てて退出した。  庭まで来ると、武麿は再びその場にひれ伏した。 「——皇子様、かたじけのうございます。この御恩は一生忘れませぬ」 「よいのだ、武麿」  と、大海人は武麿の体を起こしてやり、 「それよりも聞きたい。神剣はどうやって盗まれたのか」 「それが皆目見当がつきませぬ」  武麿は首を振った。 「わからぬのか」 「はい、面目なきことながら、いつ盗まれたのかもわかりませぬ」 「錠には不審はなかったようだな」 「はい、鍵は肌身離さず持っておりました」 「では、鍵なしで開けたのであろう」  大海人が言うと、武麿はポカンと口を開けて、 「そのようなことが出来ましょうか」 「出来る。この国の者には出来ぬとしても」  大海人はうなずいた。 「では、唐の?」 「唐とは限らぬ。新羅もな」  大海人はそう言ったが、心の中では新羅の方がずっと怪しいと思っていた。 (だが、父上がこんなことをするだろうか)  今、中大兄を刺激することは、日本と新羅の将来にとってもまずいことだ。それがわからないのだろうか。 (いや、父上ならするはずはない)  大海人はそう確信していた。 (だとしたら、唐の仕業だろうか)  それもおかしい、と大海人は思った。  唐ならば、そんな姑息な手段はとらないはずだ。 (わからぬ)  大海人は首をひねった。  動機はやはり新羅の方にあるのだが、思慮深い父がこんな軽挙妄動をするはずがないのである。  しかし、唐でもないように思える。  詮議といっても、初めから暗礁に乗り上げたも同然だった。大海人はとりあえず中大兄に、あたりさわりのない報告をした。  中大兄は機嫌が悪かった。  怒鳴りつけられたが、仕方がない。  大海人も不快な思いを抱いて、宮殿を出た。  だが、犯人は思いもかけぬことから、白日の下にさらされた。道行の乗った新羅行きの船が嵐で難破し、道行は神剣と共に、日本の浜辺に打ち上げられたのである。      三 (かの者が——)  大海人は、神剣を盗み出したのが道行の仕業だと知らされた時、愕然となって椅子に座って天井を仰いだ。 (愚かなことをする)  今度は、大海人は怒りが込み上げてきた。 「これでは、皇太子がまた新羅を憎まれてしまうではないか」  虫麻呂がいた。知らせをもたらしたのは虫麻呂である。 「そうは思わぬか」  大海人は言った。  虫麻呂は無言でうなずくと、目を伏せた。  事はあまりに重大だった。  道行は、神剣と共に筑紫の浜に打ち上げられた。  間の悪いことに、神剣と共に、である。  道行だけ、あるいは神剣だけなら、まだましだった。道行も一緒だったために、これが新羅の犯行だということが、白日の下にさらされてしまったのである。  大海人は、かつて一度だけ会ったことのある道行の顔を思い出していた。  いかにも間諜らしく抜け目の無さそうな、捕まえようとしても捕まえ切れないような何かを持つ男だったが、それが一番間の抜けた形で捕まるとは、一体どういうことなのだろう。 「道行殿は、足を折っていたようです」 「足か——」  大海人は溜息した。  一方、中大兄は、事の次第を知ると大いに笑った。 「たわけめが」  確かに神剣を盗まれたことは不快だが、盗んだ者が脱出できずに捕まったことは、これ以上ない痛快な出来事であった。 「汚らわしい新羅の悪党に、神罰が下されたのじゃ」  中大兄はひとしきり哄笑すると、急いで命令した。 「その男を一刻も早くここへ連れて参れ。わしが直々に調べてくれよう」  足の骨を折り半死半生の道行は、馬にくくりつけられ都へ戻された。  中大兄は、宮殿の前庭まで、道行を連行させた。 「そちが、神器に手をかけた大悪党か」  中大兄は決めつけた。  道行は全身をきびしく縛《いまし》められ、前庭に座らされていたが、それを聞くと顔を上げて中大兄をにらみつけた。 「こやつ」  中大兄は怒り、舎人の手から杖《じよう》をひったくるようにして、道行を打ち据えた。  道行は激しい苦痛に耐えて、うめき声ひとつ漏らさなかった。 「しぶといやつめ、名を言え」 「——」 「どうした、臆《おく》したか」 「新羅の法師、道行にござる」 「道行か、では首領の名を言え。仲間は何人いる」  道行は再び沈黙した。  中大兄は再び狂ったように道行を打った。  道行はたまらず失神した。 「水をかけよ」  中大兄は舌打ちして命じた。  大海人もその場にいた。  同情はするが、助けるわけにはいかなかった。  道行は罪人である。神器を盗むという大罪を犯している。これではどうしようもない。  失神から覚めた道行を、中大兄はさらに問い詰めた。 「首領は誰だ」 「——」 「こやつ」  中大兄は、杖では普通打たないことになっている顔を、横から打った。道行の顔が血まみれになり、みるみるふくれ上がった。舎人が止めようとしたが、中大兄の見幕にあわてて引っ込んだ。  代って大海人が進み出た。 「おやめ下さい」  中大兄は怒りの表情で振り返った。 「なぜ、止める」 「それでは死んでしまいます。死ねば元も子もありません」  中大兄は、しばらく交互に二人の顔を見ていたが、 「——そうか」  と、深くうなずいた。  大海人は嫌な予感がした。 「わかったぞ」  中大兄は言った。 「何がおわかりになりました?」  大海人がたずねると、中大兄は無気味に笑って、 「おまえが、今度の一件の黒幕なのだな」 「何をおっしゃいます」  大海人は、あきれて叫んだ。 「いや、そうだ、そうに違いない」 「とんでもありません」 「では、そちは、この男のことを知らぬと言うのだな」 「——」  大海人は一瞬、答えをためらった。  道行は知らない仲ではない。それどころか、命を助けてもらったことすらある。 「どうした?」 「いえ、知りませぬ」 「嘘をつけ、この——」 「お鎮まり下さい」  それまで黙って見ていた鎌足が、見かねて止めに入った。 「皇子《みこ》様が新羅に通ずるなど、根も葉もないことでござります」 「なんだと、証拠があるのか」  中大兄は怒鳴った。 「皇子様が新羅と通じた確たる証拠がございましょうか?」 「それは——」  中大兄は返答に窮した。 「ならば無用の詮議はおやめ下さい。無実の者を罪に落とすことは、国の乱れのもとでございます」  中大兄は言い返せなかった。 「それより、新羅の諜者の口を割らせることが先決でございます」  鎌足は冷静な口調で、なだめるように言った。  気が付くと、道行は縛られたまま前に突っ伏していた。 「これ、目を覚ませ」  鎌足は道行の肩に手をかけ、その身を起こそうとして、驚いて前に回った。 「いかがした」  中大兄が言った。 「——事切れております」  鎌足は首を振った。  中大兄も驚いて道行に近付いた。 「おそらく、舌を噛み切ったのでございましょう」  暗然とした面持ちで、鎌足は言った。  道行の口の端から、確かに赤い血が流れていた。      四 (なんとかせねば)  鎌足はこのところ、そればかり考えている。  中大兄と大海人の不仲を、である。  中大兄は即位の式を挙げれば天皇となる。  その力は絶対だ。そして、その力をもって大海人を亡き者にしようとするかもしれない。 (いま、大海人皇子様に万一のことがあれば、この国は滅びるやもしれぬ)  それが鎌足の危惧であった。  中大兄は、強大な唐帝国と事を構える方向へ、この国を導こうとしている。その流れを押しとどめることのできる人間は、大海人しかいない。  だからこそ、なんとしてでも、大海人の地位を安泰たらしめたいのだ。 (わしも、もう長くはない)  鎌足はそう感じていた。  このところ、体が疲れやすく、ちょっとした傷がなかなかなおらない。  これは寿命が尽きかけたことのきざし[#「きざし」に傍点]ではないかと、鎌足は思っている。  体が壮健な頃は、野心に満ちあふれていた。  欲望も人一倍あった。  しかし、今は、ひたすらこの国が平和であることを願っている。  子孫のことを考えれば、そう思うのが当然かもしれない。この国が異国《とつくに》の軍隊に侵略されれば、多くの犠牲が出るし、国土は荒廃する。  その事態だけは、何としても防がねばならない。  どうすればいいのか。  中大兄と大海人の仲を保つためには、両者がより深い結び付きをすればいい。それには婚姻政策が一番だが、大海人には既に中大兄の娘が二人も嫁いでいる。あと一人を嫁がせるにしても、それだけでは万全とは言えぬ。 (そうだ)  鎌足は膝を打った。  そして、その足で大海人を訪ねた。 「どうした、何か変事でも?」  大海人は鎌足の思い詰めた顔を見て、そう言った。 「いえ。ただ、重大なお願いがあって参じました」 「ほう、何か」 「十市《とおちの》皇女《ひめみこ》様と大友皇子《おおとものみこ》様の、末永きお睦みの件でございます」 「なんと申した」  大海人は耳を疑った。  十市皇女は自分と額田王《ぬかたのおおきみ》との間に生まれた娘だし、大友皇子は中大兄の唯一の男の子ではないか。 「こう申せば、おわかりのことと存じます」 「わかる。だが——」  中大兄と自分との和を保つため、そこまでせねばならぬのか。かつて母の帝もこのことを言った。しかし、母が亡くなって以来、そんなことは忘れていた。あまりにも無理な話だからだ。 「ぜひとも、このお話は進めさせて頂きます」 「皇太子《ひつぎのみこ》様のお許しは出たのか」  出るはずはない、と大海人は思った。  もしもそうなら、話の切り出し方が違うはずだ。 「お察しの通り、まだ、お許しを頂いてはおりません」 「では、うまくいくまい」  大海人は初めから乗り気ではない。  要するにこれは、人質として十市を差し出すことになる。 「いえ、私が一身に代えましても、必ずまとめてみせます」 「——」  大海人は沈黙した。  むしろ、鎌足の健康が気がかりであった。  このところ鎌足は、いつも顔色が悪い。 「わが君、この話はお進めになるべきだと存じます」  突然、部屋に入ってきた女がそう言った。  |※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野《うの》皇女である。  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は姉の大田皇女と共に大海人に嫁いできた。共に中大兄の娘だ。  しかし、性格のおとなしい姉に比べ、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は激しい気性で、ときどき大海人も持て余すほどであった。 「聞いていたのか」  大海人は眉をひそめた。 「あれほどの大声を出されれば、どこにいても聞こえます」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は笑みを含んで言った。 「それほどの大声だったかな」  大海人は苦虫を噛みつぶしたような表情を見せて、鎌足に同意を求めた。  鎌足は、そうではないことはわかっていたが、あえて同意しなかった。自分の目的のためにその方が好都合と考えたのである。 「お妃様も御賛同下されて、幸甚に存じます」  次妃といっても、姉の大田皇女の方は最近病気がちだから、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野が事実上の正妃と言っていい。その正妃の賛同を得られたのだから、鎌足にとっては都合がよかった。 「おまえはよいのか。十市を手放すことに、何も感じぬのか」 「娘はいずれ嫁に行くものです」 「しかし、十市はまだ幼い」 「わたくしだって、その頃、わが君のもとに参りました」 (それはそうだが——)  十市は額田の生んだ娘で、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野とはそれほど年が離れていない。自分の腹を痛めた子でないから、そう言えるのだろう。  大海人はそう思ったが、口には出さない。  代りに、次のように言った。 「よいのか。十市が嫁げば、また若い娘がここへ来るかも知れぬ」 「——」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は黙った。  若い娘が来るとは、大海人の妃がもう一人増えるということなのだ。 「どうした?」  大海人がからかうように言った。 「——やむを得ませぬ」 「ほう」  大海人はむしろ感心した。  女といえば、妬心で物を言う者が、ほとんどすべてといってもよい。それが※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野だけは、そんなものを越えて広い視野で物を見る。  大海人には、妃・夫人が何人もいるが、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野の聡明さに優る者はいない。胆力もある。 「わたしにとっては、若い娘が来るのはうれしいことだがな」  大海人の言葉に※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は唇を噛んだ。 「——皇子様、それはあまりにむごいお言葉かと」  鎌足は注意した。 「そうか」  大海人は別に悪いとも思わなかった。  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野が、あくまでも十市の縁談に固執するのは、なさぬ仲の娘を体《てい》よく追い払いたいという意図があると、あくまで疑っていたからだ。 「わたくしが十市を嫌っているとお思いでしょうか」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は言った。  大海人は図星を刺されて、返す言葉に詰まった。 「——そのようなことはありませぬ」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は大海人に詰め寄った。 「ない、とは?」  大海人は※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野を正視した。 「十市を嫌っているのではない、ということです」 「では、なぜ?」 「おわかりでしょう。これは、わが家の繁栄のために大切なことなのです」 「——」 「ぜひ、お進め下さるよう」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野も大海人を正視した。 「わかった」  大海人は、しぶしぶうなずいた。 「——だが、肝心の十市が、どう思うか」 「父上、わたしは参ります」  突然、声がした。  大海人も※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野も、鎌足も驚いて振り返った。  顔に決意をみなぎらせた少女が立っていた。  鎌足は中大兄も見事に説得した。  初めは反発した。 「どうして、大友に十市を迎えねばならぬのだ」 「これから先、どういうことが起こるかわかりませんが、いずれにせよ、かの君のお力はいずれ必要になると存じます」  鎌足は上目使いに言った。 「——何が起こると申す」  中大兄は冷やかに言った。 「御承知のことと存じます」 「唐が攻めて来て、この都も焼かれるとでも申すか」 「不吉な。左様なことはございますまい」  鎌足はおだやかに否定した。 「では、何だ」 「左様なことはございますまいが、やはり、身近に、いざという時に頼りになる方がおられるのは心強きもの」 「ふん、うまいことを申すものだ」  そう言われて、中大兄はその気になった。  何といっても、あの槍の妙技は捨て難い。 (それに、大友の妃に、かの者の娘が入れば、大友には手出しは出来まい)  中大兄はうなずいた。 「よろしゅうございましょうか」 「許す。——だが、かの者が承認するか?」 「これから、伝えて参りましょう。もちろん喜ばれるに違いありませぬ」  鎌足は、既に大海人の承知を得ていることは、伏せた。  それを言えば、中大兄はヘソを曲げてしまう。 「承知せねば、どうする?」  中大兄は、からかうように言った。 「一身に代えましても」  鎌足は一礼して退出した。  大友は二十一歳、十市は四つ年下である。大友は詩文をよくしたが、線の細い、どちらかというと弱々しげな印象のある貴公子であった。これに対して、十市は父と母譲りの、強い気性を持った少女であった。  鎌足は久し振りに肩の荷を下ろす心地がした。  この国の将来に対する深い悩みが消えたわけではなかったが——。      五  中大兄は大津宮で正式に即位して帝《みかど》となった。皇太子には大海人を立てた。皇太弟というわけである。ただ皇太弟といっても名目に過ぎなかった。そういう形で帝は大海人を祭り上げようとしたのである。  新帝天智天皇は即位するや、さらに強引なやり方で、新都建設を着々と進めていった。  大海人は黙ってそれを見ていた。  とりあえずは、帝のやることを見守ろうという気持ちだった。  諫言はいつでもできる。いや、それよりも、どうせ諫言をすれば帝の機嫌を損ねるのだから、いつか本当に必要な時まで、取っておこうという考えでもあった。  伊吹山から吹く冷たい風がおさまり、池の氷も溶けた頃、帝は即位以来初めての若菜摘みを行なった。  蒲生野《がもうの》というところがある。ここは、よい若菜や薬草が摘めるので名が知られていた。  帝は、大友や大海人以下の諸皇子、諸臣を従えて、行幸《みゆき》した。  あたり一面、春の花が咲きこぼれ、遠く山々が霞に隠れていた。  大海人は久しぶりに解放感を味わっていた。  空には薄い雲はあるが、よく晴れている。  空気もうまい。  大海人ばかりではなく、日頃宮中に閉じ込められがちの官女たちも、楽しそうにはしゃいでいた。  大友と十市の姿もある。  だが、大海人はあえて近付かなかった。  十市も父の方を見ようとはしない。 (娘も嫁に行けば婚家の者か——)  別に寂しくはなかった。  それよりも、十市が夫の大友とうまくいくことの方が大事である。  大海人は、しばらくあたりの景色を見て、ぼんやりとしていた。 (——?)  ふと、気が付くと、はるか向うで手を振っている者がいる。 (あれは誰だ)  大海人は目をこらした。  女のようであった。  しきりに手を振っている。 「額田か」  大海人はようやく気付いた。  自分を捨てて中大兄、いや帝に走った額田ではないか。 (女は勝手なものだ)  大海人は苦笑した。  しかし、額田は相変わらず、手をちぎれるように振っていた。さすがに、大海人も無視できずに、手を上げて儀礼的に手を振った。  それを見て、ようやく額田は手を振るのをやめた。  大海人は、ほっとして目をそらした。  ところが、それで終わらなかった。  舎人が文《ふみ》を届けてきた。  いぶかしげに見ると、そこには次のようにあった。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]   あかねさす紫野《むらさきの》行き標野《しめの》行き [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]    野守《のもり》は見ずや君が袖ふる [#ここで字下げ終わり] (そんな馬鹿な話があるか——)  大海人は怒るより驚いた。  ちぎれるほどに袖を振っていたのは額田の方ではないか。それなのに、これでは自分が野守の目もはばからずに、手を振っていたことになってしまう。 (女とは勝手なものだ)  再び苦笑した。  気が付くと、舎人がそのまま跪《ひざまず》いている。 「どうした?」 「はっ」  舎人は黙って筆と墨壺と紙を差し出した。  大海人は気付いた。  返歌を求めているのだ。  歌を贈ってくれば、返歌するのが礼儀である。  大海人は呆れたが、同時に悪戯心がわいた。  筆を取ると、さらさらと返歌をしたためた。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]   紫の匂へる妹《いも》を憎くあらば [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]    人妻ゆゑに我恋ひめやも [#ここで字下げ終わり] 「持っていけ」  大海人が紙を渡すと、舎人はかしこまって、それを持ち帰った。  別に深い意味があってのことではなかった。  もちろん額田に対する愛情は、とうの昔に消え失せている。十市の母といえば母なのだが、十市に対する愛情はあっても、額田に対する愛情はない。  座興である。  だが、その座興がとんでもないことになった。  蒲生野での遊宴が終った後は、都に帰って湖を見下ろす高殿の上で酒盛りとなった。  初めはにぎやかな宴であった。  快い疲労が酒を進める。  あちこちで談笑が起こり、大海人もくつろいだ気分で酒を楽しんでいた。  ところが、一人だけ、おだやかならざる表情で、暗い酒を飲んでいる男がいた。  帝である。  帝は、人々のざわめきを、うるさそうにしていたが、盃をいくつか重ねるうちに、だんだん目が座ってきた。  その様子に真っ先に気付いたのが、大海人である。 (どうなされた)  その大海人の目と、帝の目が合った。  帝は盃を置いて立ち上がった。 (来るな)  大海人は直感した。  果たして帝はやってきた。  座っている大海人の前に、仁王立ちになった帝は叫んだ。 「あの歌はどういうことだ」  大海人は何のことかわからなかった。 「何がです」 「とぼけるな」  帝は言った。 「とぼけてなどおりません。わからないからお聞きしているのです」  大海人は盃を伏せて、律義に答えた。 「わからぬなら、教えてやる。——このことだ」  帝は懐から紙を取り出して、大海人に投げつけた。  大海人はそれを拾って広げてみた。  それは額田に返した歌であった。 「これが何か」  大海人は顔を上げた。  帝は本気で怒っていた。 「人妻ゆえに我恋いめやも、とは何事だ」 「ははは」  大海人はわざと声を出して笑って、 「それは歌です。座興というものではありませんか」 「何を申すか」  逆効果だった。  帝は愚弄されたと取ったのである。 「おまえのような下らぬ男はいない。人の妻を盗むとは男の風上にも置けぬやつだ」  大海人の顔色が変った。  人の妻を盗んだのはそちらではないか。それを棚に上げて人を非難するとは、何ということだろう。  だが、それは口には出せない。  ただ、大海人は帝を強くにらみ返した。 「こやつめ」  帝は自ら席に戻り、剣を取ってきた。 「何をなさいます」 「斬ってやる」  悲鳴があがった。  大海人は身をよじって、その場を逃れると、自衛のために槍を取った。 「おのれ、朕に反抗する気か」  反抗する気はなかった。  ただ身を守ろうとしただけだ。  帝は容赦なく斬りかかってきた。  大海人は槍の柄で受けた。  あしらうことは難しくない。  まして相手は酒に酔っている。  だが、狂気のような攻撃を受け続けるうちに、大海人は段々腹が立ってきた。 (どうして、ここまで我慢せねばならないのか)  いっそのこと、刺してしまおうか。  大海人は次の瞬間、帝の剣をはじき飛ばしていた。  帝の顔に恐怖が走った。      六 (殺す)  大海人は槍を帝に向けた。 「お待ち下さい!」  両者の間に突然、盃が投げられた。陶製の盃は、宮殿の床に叩きつけられ微塵に砕け散った。  その様を見て、大海人は冷静さを取り戻した。  槍先に込められていた殺気が消えた。  すかさず鎌足は、両者の間に割って入った。 「酒の上のこととはいえ、ちと荒っぽい所業でござりますな」  鎌足はおだやかに言った。  大海人は槍をおさめた。  帝は腰を抜かしたまま、何か叫ぼうとした。 「こ、こやつは——」 「はい、陛下も酔っておいでのようで」  鎌足はみなまで言わせず、舎人を呼んだ。 「これ、帝はお疲れのようじゃ、奥へお連れ申せ」  かねてから舎人たちに、鎌足は鼻薬を嗅がせていた。こういう時のためである。  舎人たちは進み出て、あらがう帝をかつぎ上げると、寝所へ運んで行った。 「皇子様も、お帰りなされませ」 「だが——」  よいのか、という視線を大海人が向けると、鎌足はうなずいて、 「はい、あとのことはお任せ下さい」  鎌足は頭を下げた。  結局、このことは鎌足の奔走で不問に付されることになった。  自分に刃を向けたと怒る帝に、初めに手を出したのはそちらだと厳しく諫言したのである。  鎌足の言葉に、帝はしぶしぶうなずいた。  だが、帝も大海人も、心に大きなしこりを残すことになった。 [#改ページ]   第十六章 逆潮の日々      一  新帝即位早々の近江朝廷は、外交に明け暮れることになった。  まず高句麗《こうくり》から使者が来た。  使者は高《こう》といったが、一国の使者にはふさわしくない貧相な、上目使いで人の顔色ばかりうかがうような男だった。献上された品物も、昔に比べて著しく見劣りするものだった。 「貧すれば鈍するとはこのことか」  大海人は愚痴を漏らした。 「何のことでございますか?」  妻の|※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野《うの》が言った。 「——いや、高句麗のな」 「はい?」 「使者のことだ。進物もな」 「悪いのでございますか」 「ああ、一時に比べれば信じられぬ」 「どうして、そのようになったのでございましょう?」 「国が衰えたからよ」 「高句麗は、それほど悪いのでございますか」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は眉根にしわを寄せた。 「悪いな。間もなく滅ぶ」 「——まあ、お気の毒に」 「気の毒か」  大海人は苦笑して、 「対岸の火事ではない」 「えっ」 「もうすぐ高句麗は滅ぶだろう。そして、滅べば、唐は今度は矛先をわが国へ向けるかもしれぬ」 「——」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は息を呑んだ。 「そうなれば、今度はこのあたりが戦場になるかもしれぬ」 「おたわむれを」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野はそう言ったが、顔は笑っていない。真顔である。 「そうならぬことを祈るばかりだ」  大海人も真顔で言った。  続いて新羅《しらぎ》からも使者が来た。  高句麗の使者とは違い、豪華な進物を持参した金東厳《きんとうげん》という男だった。  風采も立派で、態度も堂々としている。  これを迎えた帝も、意外なことに東厳を歓迎した。  新羅といえば目の色を変える帝が、なぜ東厳には笑顔を見せたか。  大海人は、初めは理解できなかった。  初め帝は、東厳に会おうとすらしなかった。新羅からの使者だからである。  しかし東厳は、上奏文を帝に提出した。その上奏文が帝の心を動かしたのである。 (どういうことか)  東厳を謁見した帝を、大海人は脇に立って見ていた。 「このたびは殊勝な心がけだな」  帝はまずそう言った。 「ははっ」  東厳は宮殿の床に額をすりつけて礼をした。 「前非を悔いておるとは、なかなかよい心がけだ」 「ひとえに、陛下の広き御心におすがり申すだけでございます」 「うむ」  帝は満足そうにうなずいた。 (そうか)  大海人は合点した。  新羅は、帝に対して、白村江《はくすきのえ》で敵対したことを詫びるという手に出たのだ。 (帝も、甘い)  大海人は、心の中で秘かに嘆いた。 「詫びる」などというのは勿論、本心ではない。  とりあえず日本とつなぎをつけるために、外交の端緒を開くために、下手《したて》に出たのだ。  新羅の本心は、日本の出方を探るにある。  高句麗が滅べば、唐はこれまで通り新羅と友好関係を保ち得ない。共通の敵を失った者同士は、これまで通り仲良くやっていくというわけにはいかないのである。  しかも、そもそも唐が新羅と結んだのは友好のためではない。唐は半島の敵国を倒すため、新羅は当面の敵国を倒すためであり、百済・高句麗が滅んだあとは、唐は新羅を滅ぼしたいのである。  一方、新羅は、その唐の思惑に対して、日本がどう動くか見極めたいのである。 (そのために、卑屈なことを言ってみせたのだ)  だが、帝はそのことに気付いているのだろうか。 「そなたには褒美がある」  帝は上機嫌で、舎人《とねり》に命じて目録を渡した。  東厳はありがたく押し戴いた。 「新羅王にも褒美を取らそう」  帝は目録を読み上げさせた。  なんと船一隻である。 (これは、だめだ)  大海人は落胆した。  褒美を取らす、などというのは、新羅の「謝罪」を真に受けている証拠である。  帝に進言する気は、とうに失せていた。  いや、いくら進言してもわかるはずがない。 (そもそも帝には外交は無理だ)  その感覚が、いかにもまずい。  外交は、時に頭を下げ、頭を下げられ、そのどちらにも偏せぬ冷静な目というものが必要なのだ。  帝は決して暗愚ではない。  だが、そこのところがどうしてもわからない。  特に、新羅に対する判断がおかしい。  それは新羅が嫌いだからである。気に食わないからだ。  それゆえに、冷静な目で見ることができない。向うが卑屈な態度に出てくれば、手放しで喜んでしまうのもそのためだ。  大海人は、儀式が終り帝が奥へ入ると、東厳に直接声をかけた。 「御使者殿、本日は、わが邸にお招きしたいのだが」 「これは皇太弟様」  東厳は丁重に頭を下げた。 「名誉なことでございます」 「お受け下さるか」 「もちろん、喜んで」 「お待ちしている」  大海人は急いで自邸に戻った。      二  邸での歓迎宴は、東厳一人をもてなす簡素なものだった。もちろん東厳にも従者はいるが、それは別室でもてなし、東厳だけを奥に招いたのである。  東厳は使者に選ばれるだけあって、日本語を巧みに話し、会話には不自由はなかった。  大海人は、唐からの使者の贈物である葡萄《ぶどう》の酒を、白瑠璃の盃に注いで、東厳に与えた。 「これは珍なる酒ですな」  東厳はうれしそうに盃を見、ゆっくりと味わうように酒を飲んだ。 「お国では珍しくもあるまい」 「いえいえ、このような酒、われらの口に入るものではございませぬ」 「そうかな」  大海人は、盃にさらに酒を注いでやり、 「貴国は唐の方々と随分と仲良うされておる。かの国の友人も沢山おられよう。こんな酒など、いつでも手に入るのではないかな」 「なかなか」  と、東厳は首を振り、 「近頃はいろいろときしみもございましてな」 「ほほう、きしみとは」  大海人は東厳の目を見た。  東厳も上目使いで見返した。  両者の視線がぴたりと一致した。 「——それはおわかりでしょう」 「いや、わからぬ」  と、大海人は盃を干して、少し間を置くと、 「酒の飲み過ぎか、最近とんと勘がにぶくなってな」 「それは御謙遜でございましょう」 「いやいや」 「皇太弟様は、唐という国のことをどのようにお考えになっています?」 「——」 「さしつかえなくば、忌憚のないところをお伺いしたいものですな」 「使者殿、それは貴国と同じだ」  大海人は微笑をふくんで言った。 「同じ?」  東厳は、けげんな顔をした。 「隣家が自家より大きく乱暴ならば、誰もが迷惑するであろう」 「迷惑ですか、なるほど」 「使者殿も、万一のことあらば、この国へ逃げて来られよ。よき官に推挙致す」 「これはこれは、かたじけない」  東厳も笑った。 「ただ、そのようなことが無いように祈っている」 「そういえば、この国では百済人《くだらびと》の官が多くなりましたそうな」 「その通りだ。百済人にはなかなか優れた者が多い」 「それはよろしゅうございました」 「貴国のおかげだな」  大海人は言った。 「はて?」  東厳は首を傾げた。 「貴国が百済を滅ぼしてくれなければ、これほど優れた者たちを受け入れることはできなかったろう」 「これは、おたわむれを」  東厳は苦笑した。 「もっとも、よきことばかりではない。多くの百済人は、いまだに不倶戴天の敵として貴国を見ておる」 「——」 「やむを得ぬことだがな。——ここだけの話だが、わしは百済人どもが早くこの国に落ち着き、故国のことを忘れてくれぬかと思っている」 「その方が、この国のためだと?」 「まさにな」  大海人はうなずいて、 「憎しみは人の心を狂わせる。どうしても、偏りのない目で物を見ることはできなくなる」 「帝はいかがです」 「——」 「帝は、百済人に格別の思《おぼ》し召しがあるやにうかがっておりますが」 「それを探りにこの国に参られたか」 「これはこれは——」  東厳は再び苦笑して、 「賢者の前では隠し事はできませぬな」 「使者殿、わたしの存念を言おう」  大海人は意を決して切り出した。 「これはあくまでわたし一人の考えだ。よいな」 「ははっ、謹聴致しまする」  東厳は頭を下げた。 「貴国とわが国は確かに戦った。敵同士であった。しかし、貴国が唐と手を結んだのは止むに止まれぬことと、わたしは思っている。唐という化物のような国がこの世に生まれ出たのがすべて悪いのだ」 「恐れ入りまする」 「だから、単に新羅憎しだけで、世の中を考えてはいけない。わたしは、この先も、唐の出方を物事の真ん中に据えて考えていきたいと思っている」 「なるほど」 「そこで、使者殿。今度はわたしから聞きたい。そもそも新羅は今後は、唐とどのように付き合うていこうとお考えなのかな。——先程は言葉を濁されたようだが、本音を聞きたいものだ」 「あははは、これは手厳しい」  東厳の目は笑っていなかった。  すぐに真顔に戻ると、東厳は、 「では、申し上げまする。一言で申さば、和戦両様ということでございましょうな」 「和戦とは、戦もするのか」 「はい、和議だけで済めばこれほど目出たいことはござりませぬが、唐という国はそんな甘いところではございませぬ」  東厳の言葉に大海人はうなずいた。  下手《したて》に出て、頭を下げれば許してくれるというものではない。唐は朝鮮半島すべてを己れの物にしたいという欲望がある。  その欲望がある限り、単なる恭順ではまずい。  しかし、あの超大国である唐と戦って勝つことも困難だ。局地戦では何とか勝利を収めることができたとしても、そもそも国土も人口も国力も違い過ぎる。最終的に勝つなど不可能だ。  東厳もその点は充分にわかっている。 「まず戦って、いざとなれば人種《ひとだね》が尽きるまで戦うという気概を見せまする」 「そのうえで、有利な条件で和を結ぼうというのだな」 「仰せの通りにございます」 「綱渡りだな」  大海人は溜息をもらした。 「まさしく」  東厳はうなずいて、 「それにしても皇太弟様、わたくしは貴国がうらやましい」 「ほう、どこがだ」 「あの唐と、陸続きでないということでございます」 「なるほどな。陸続きであるがゆえの苦労か」 「はい。御先代も、それで御寿命を縮められました」  東厳が言ったのは、来日したこともある金春秋武烈王のことだ。武烈王は、つい先年、まだ壮年なのに亡くなっていた。後を継いだ金法敏は即位したばかりである。  今回の使者は、その代替りの挨拶ということも含まれていた。 「先代には、わたしもお会いしたことがある。立派な御方だった」 「左様でございましたか」  東厳は、この皇太弟である大海人に好意を持っていた。  あの尊大な帝とは比べものにならない。しかも、東厳は大海人の出生の秘密も知っていた。 「それにしても、もし貴国が唐と事を構える時、われらの軍船が攻め入ったら厄介なことになるな」 「厄介どころではございません」  東厳は真面目な顔で首を振り、 「さような事態になれば、わが国は滅亡の淵に立たされることになります」 「北から唐の大軍、南からわれらの水軍——なるほど挟み撃ちということになる」  大海人は大きくうなずいて、 「それだけは避けねばならぬな、使者殿」 「まことに」 「使者殿は、わが国がそうする気があるか無いか、いや、その前に少しでも貴国に対する憎しみの心を和らげようと参られた、そうだな?」 「皇太弟様には、かないませぬな。何もかも御眼力で見通される」 「世辞はよい、使者殿、そこで貴殿はどう見られた。わが国は唐と結ぶ気があるのかどうか」 「——さて」  と、東厳は慎重に言葉を選んで、 「帝は、わが国も憎いが、唐も憎い。そのように見えました。すると、その憎い唐と手を結ぶことは、まず有り得ない——」 「ははは、使者殿、心にも無いことを言うでない」 「——」 「残念だが、わが帝は、そもそも唐と貴国が仲違いをすることすら、あまり考えてはおられぬ。したがって、唐と結ぶか結ばぬかは、まだ考えておられぬと見るべきであろう」 「——」 「それゆえ、危ない」 「どうされます?」 「わたしのことか、それともこの国のことか?」  大海人は反問した。 「両方でございます」 「ならば決まっておる。わたしは貴国と手を結んで、唐に抵抗するしかないと考えている」 「ありがたきお言葉でございますが、もし帝が許さぬと仰せられたら、いかがなさいます」 「——」  大海人は声を潜《ひそ》めて答えた。 「使者殿、世の中にはどう答えていいものか、わからないこともあるぞ」  そう言う大海人の顔には苦渋の表情が浮かんでいた。      三  東厳は深夜になって供を一人だけ連れ、宿舎を忍び出た。  都から少し離れた山中に、廃屋となった館がある。  そこに東厳は導かれた。いつの間にか、案内役の男が東厳らを先導していたのだ。 「よく参られた」  奥の部屋に燭台がともされ、総髪の男が東厳を迎えた。  大海人の父であった。  東厳は一礼した。 「お初にお目にかかる。金東厳でござる」 「——わしは国を捨てた名も無き者。こうして冠すらかぶっておらぬ。御無礼の儀は許されたい」 「何を申されます」  東厳は腰をおろして、 「無礼などとはとんでもない。沙《さ》|※[#「冫+食」、unicode98e1]《さん》様のお働きによって、わが国がいかに助けられているか、あらためて申し上げるまでもないはず」 「——いや、失敗《しくじり》ばかりよ。道行《どうぎよう》のことといい」  沙※[#「冫+食」、unicode98e1]と呼ばれた男は答えた。 「道行は不運でしたな」 「言い訳めくかもしれぬが、わしは止めたのだ」 「存じております」 「神器一つ盗んだところで、今の帝はびくともせぬ」 「帝と申せば、本日拝謁の栄を賜わりました」 「どうであった?」 「——なかなかに、難しいことになりそうですな」  東厳はそう答えて、 「皇太弟様、いや、御子息様にもお会い致しました」 「——」 「なかなかの人物とお見受け致しました」 「左様か」 「冷汗をかきましたな。実は、今日は皇太弟様の御屋敷にお招き頂いたのですが——」 「いかがされた?」 「わが国の意図は見抜かれるわ、釘は刺されるわでござったが、帰りしなに、こう申されました。——あの御方によろしく、と」  東厳は言った。  男は表情を変えない。 「こうして、あなた様とわたくしが面談することもお見通しだったのでございましょうよ」 「——金殿、そんなことはどうでもよい。それより、われらはこれからどう動くべきかということだ」  照れ隠しか、少し語気を荒げて男は言った。 「いえ、これから先のことは、あの皇太弟様にも大きなかかわりがございます」 「というと?」 「これは、王の御意向にもございます」 「——まさか」  男は唾を呑み込んだ。  東厳はうなずいて、 「この国が、唐と手を結ばぬように、あらゆる手を尽くせよ、とのお言葉でございます」 「もし、今の帝が唐と結ぶと言い出したら」 「——それはおわかりのことと存じます」 「消せと言うのか」 「はい」 「そんなことをして、さらに新羅が憎まれることとなったら、何とする?」 「相次ぐ普請、労役、重税によって、民心は帝から離れつつあります。その有様をわたくしは九州から京へ入る途中に、つぶさに見て参りました。今の帝がいなくなれば、この国の民は喜びます」 「しかし、皇太弟が位を継ぐとは限らぬぞ。今の帝には、年若いが一人子の皇子がいる」 「そこのところをどうするか、あなた様のお働きにかかっているのでございます」 「王がそのように仰せられたか?」 「はい」 「それはいつ?」 「——まだ時期尚早でござりますな。まだ、唐は何の働きかけもしておりませぬゆえ」 「だが、ここ一、二年のうちには、唐は必ず日本と結ばんとするであろうな」 「仰せの通り、それゆえにわれらは、唐とこの国の動向をしかと見張らねばなりませぬ」 「もし、唐がこの国に新羅への出兵を求める使者を出したら?」 「その時は、すぐにお知らせ致しますゆえ、何とぞ善処されたい、とのことでございます」 「善処のう、とんでもない善処だ」  男は言った。  善処とは、要するに邪魔者は消せということなのだ。 「それが、王の御意向か」 「左様でございます」 「かしこまった」  男は一礼した。  東厳にではない、海の向うにいる新王に対してである。 「まだお若いはずだが、智略に長じた御方らしい」 「武人としても、大変な力量をお持ちです」  東厳が言葉を添えた。 「まずは目出たいことだ。暗主が出れば国は危うくなる」 「この国はいかがで?」 「そなたは会ったかな、内臣《うちつおみ》の中臣鎌足という男に」 「内臣殿は、このところ病いがちで、伏せっておるとうかがいましたが」  東厳は答えた。  謁見式の時も、鎌足は出席していなかった。 「この国が唐と結ばぬことは、新羅のためにもよいが、この国のためにもよい。そうではないか?」 「その通りですな。もし日本が唐と手を組み、わが国を滅ぼしたと致しましょう。すると、次は日本が滅ぼされることになる」 「そのことは、皇太弟も知っておる。もう一人、わかっているのが内臣殿だ」 「なるほど」 「先頃、帝と皇太弟が酒席で剣を抜き争ったことがあった。この時、見事仲裁したのも、内臣殿だった」 「そのようなことがございましたか」 「帝も、内臣殿の言うことなら聞く。それゆえ、内臣殿があと何年生きるかに、帝の命運が、いや日本という国の命運がかかっていると言っても、あながち言い過ぎではあるまい」 「なるほど」 「ところが、ままならぬのは世の中よ。内臣殿の病いは篤い」 「悪いのでございますか」 「命にかかわる病いだな。——あの男はな、少々の病いなら、それをおして出て来る。必ず、そなたにも会う」 「——」 「それが出て来ぬとは、よほど悪いのだろう」 「もし、内臣殿が亡くなられれば?」 「帝を抑える者が誰もいなくなるであろうな」 「皇太弟様は?」 「いや、皇太弟は今は帝と対立しておる。内臣殿がいなくなれば、その対立は深まるだけだ」 「すると、一触即発ということにも——」 「ああ、成りかねぬな」 「となると、内臣殿の寿命には、わが国の命運もかかっていることになるのでしょうか」 「そうかもしれぬ」 「いずれにせよ、ここ二、三年のうちに大乱が起こるかもしれませぬな。この国でも海の向うでも——」  東厳は言った。 (そんなことにならねばよいが)  と、男は思っている。しかし、そうなる可能性が大きいことも、また認めざるを得なかった。      四  初夏になって、帝は大規模な狩りを催した。  憂さを晴らすためである。  唐との関係、国内の様々な混乱、民百姓の不平不満、帝は苛立ちで爆発しそうになることがある。  それを、唯一、晴らしてくれるのが狩りである。  帝は、このところ頻繁に狩りに出る。  気に入りの狩り場は、山科の野だ。  ここで弓矢を使って、猪や兎を獲《と》るのである。  しかし、帝は一人で狩りをするのは好まなかった。  できるだけ大勢参加するのがいい。  かといって、自分の獲物が一番でないと、駄々をこねる。大勢の参加者の中で、自分より良い獲物を取った者がいると、露骨に嫌味を言う。それがわかっているものだから、このところは、誰もが帝に遠慮して、目の前を大きな獲物が通り過ぎても見逃すようになっていた。  まさに、阿諛《あゆ》と追従の場になってしまっているのだ。  大海人は、この雰囲気を嫌っていた。  だが皇太弟ともあろうものが、帝の催す行事に常に欠席していては、痛くもない腹を探られることになる。  そこで、三度に一度はしぶしぶ出る。  今度は、久しぶりの大狩りだというので、大海人は愛馬に乗って参加した。  宮中の大官が揃って自慢の馬に乗り、従者や勢子《せこ》も含めると、二百人以上が出ていただろうか。  その中で、大海人は意外な人物を発見して、驚いて馬を寄せた。 「病いは癒《い》えたのか」  大海人は、その言葉を挨拶の代りにした。  鎌足である。  鎌足は馬上で礼をすると、顔を上げた。  それとわかるほど、青ざめている。 「——なんとか、馬には乗れるようになりましてな」  その声はかすれていた。 「だが、本復というには程遠かろう」  大海人は心配そうに言った。 「いえ、もうこれで大事ございません。いずれ快方に向かうものと存じます」  鎌足はそうは言ったが、本心ではなかった。  実は少々めまいがする。耳鳴りもする。  それに夏なのに、きょうは少し寒い。  病いの身には暑さより、寒さの方がこたえる。 (無理をして出て来たのだ)  大海人は鎌足の立場に同情した。  ひょっとしたら、鎌足はこの間のように自分と帝との間に深刻な対立が起こるのを恐れて、不測の事態を防ぐために、病いをおして出て来たのかもしれない。 「きょうは、よいお日和《ひより》でございますな」  鎌足は言った。 (よいものか)  大海人は、そう思った。  日はかげって、あたりは薄暗い。森の中は特にそうだ。大海人は、木々の間からの木漏れ日が大好きなのだが、きょうはそれもない。  体の調子が悪いのに、必死に場を盛り上げようとしている鎌足に、大海人は同情より怒りを覚えた。 (なぜだ。なぜ、あのような帝のために、そこまでせねばならぬ)  鎌足は、大海人の心中がわかったのか、力無く微笑んだ。  大海人が何か言おうとした時、突然、鬨《とき》の声が身近に聞こえた。  それから先は、あっという間のことだった。突然、草むらから猪が飛び出し、こちらへ突進して来た。  大海人はただちに避けたが、鎌足は一瞬遅れた。  その猪突におびえた馬が棹立ちとなり、鎌足は落馬して地面に叩きつけられた。 (いかん)  大海人はあわてて馬を降り、仰向けに倒れている鎌足を助け起こした。  鎌足は半ば意識を失っていた。血は流れていない。だが、腰の骨が折れているようだった。  そうだとすると、命にかかわる。 「医者はおらぬか、医者は」  大海人は叫んだ。  帝が馬で駆けつけて来た。 「どうしたのだ。落馬するとは、だらしがないぞ」  帝は笑っていた。  単なる落馬と思い込んでいるのだ。 (馬鹿、何だと思っている)  大海人は帝をにらみつけた。  事態の深刻さを悟った帝は、あわてて馬から降りた。  鎌足は、そのまま立つことが出来ない体になってしまった。      五  落馬して以来、鎌足は寝た切りの生活になり、体力が徐々に衰えていった。  秋になると、もはや誰の目にも判るような死相が浮かんで見えた。  大海人は足繁く見舞いに行き、何度も元気付けたが、鎌足は体力のみならず気力も衰え果てたようだった。 「この国の未来は、皇子《みこ》様の双肩にかかっておりまする。何卒、よろしくお願い申し上げます」  鎌足は、半身を起こすこともならず、枕に頭をつけたまま言った。 「何を申すか、気の弱いことを」  大海人は励ました。 「いえ、このようなざまでは、もはや国のお役には立ちますまい」 「——」 「何卒、何卒、お願い申し上げます」 「だが、この国には帝がおわす」 「帝は頼りになりませぬ」  鎌足は、はっきりと言った。  大海人は思わず、あたりを見回した。 「滅多なことを言うものではない」 「いえ、死に行く者には、もう怖いものはありませぬ」  淡々とした口調で鎌足は、 「もう、お会い出来ぬかもしれませぬ。このことは、わたくしの遺言としてお聞き下され」  大海人は慰めの言葉を失った。  鎌足は遠くを見るような目をして、 「思えば、いろいろなことがございました」 「そうだな」 「大極殿で、蘇我入鹿めを討ち取った時は、御活躍でございました」  大海人は笑って、 「そなたもな」 「いえ、わたくしは——」 「隙あらば、蘇我に味方して、われらを討ち取ることも考えていたであろう」 「——」 「どうした、この際、本音を言ってしまえ」 「かないませぬな」  鎌足は弱々しく笑った。 「やはり、そうか」 「お許し下さいますか」 「許すも許さないもない。そなたの功績は比類がない」 「おそれ入ります」 「——では、わしは帰るぞ」 「お体には、ぜひともお気を付け下さい」 「それは、こちらの言うことだ」  大海人は目頭が熱くなった。  帝が見舞いに来たのは、病いがますます篤くなり、危篤状態に入ってからだった。 「汝の功績は、類いない。よって、大織冠《たいしよくかん》と藤原の姓を授ける」  帝はいきなり言った。 「かたじけのうございます」  鎌足はか細い声で言った。 「どうじゃ、満足であろう」  帝は得意そうに鼻をうごめかした。 (相変らずの御方じゃ)  鎌足は、あらためて帝の人物に失望した。  人の心というものが、全然わかっていない。確かに褒美もうれしいことだが、今の鎌足にとって本当に欲しいのは、この国の安定である。  帝が、広い視野と偏りのない心で、この国の将来を見据えることだ。それさえしっかりしてくれるなら、鎌足は何もいらないのである。  死に行く身に、冠も姓も無用のものだ。 「——陛下、わたくしはこの際、言上したき儀がございます。遺言と思し召され、お聞き頂けますでしょうか」 「——かまわぬぞ、申してみよ」 「この国の将来が案じられてなりませぬ」  鎌足は、残った体力のすべてをふりしぼって、言葉を出していた。 「唐のことか」  帝は、あらためてそれを言われるのは、不快だった。だが、鎌足が遺言だと言うので、それ以上文句はつけなかった。 「はい」 「何をせよ、と申すのだ」 「おわかりと存じます」 「新羅と仲よくせい、と申すか」 「左様でございます」 「しておるではないか」  帝は言った。 「それは違う」  鎌足は言った。  新羅が頭を下げてきた。それを受け入れたことを、帝は友好関係と思っている。だが、新羅は日本の出方を探るために、様子を見ているに過ぎない。  それを友好ととらえているのは、帝の目が曇っているのである。 「この国の行く末のためには、新羅と真の友好を結ぶしかありませぬ」 「今のままではいかぬ、と申すのか」 「はい、恐れながら」 「では、どうせよと申す」 「どうか、皇太弟様を新羅へ派遣なされませ」 「——」 「この儀、何卒、お聞き届け下さいませ。さもなくば、わたくしは死んでも死に切れないのでございます」  帝は黙って、病床の鎌足を見つめていた。  不快げな表情が、その顔に浮かんでいる。 「この儀、いかがでございましょうや」 「——ならぬ」  帝は言った。  鎌足は絶望的な目で、帝を見た。  そして目を閉じた。  そのまま、鎌足は一言も発することなく、三日後に五十六年の生涯を終えた。  さすがに帝もこれを悲しみ、廃朝九日間に及んだ。 [#改ページ]   第十七章 回 天      一  鎌足の死で、帝と大海人《おおあま》の対立は決定的になった。  もはや、帝は皇太弟たる大海人の立場を無視することにした。  太政大臣に、息子である大友《おおとも》皇子を任じ、側近の蘇我|赤兄《あかえ》を左大臣、中臣金《なかとみのかね》を右大臣にした。  特に、太政大臣はこれまでにない新設の官であった。  帝が後継者として、大友の地位を確固としたものにするため、新たに設けたのである。  大海人の政治的立場はまったく失われた。  あるのは、大友の正妃である十市《とおちの》皇女《ひめみこ》の父としての立場だけだ。 「いっそのこと、退隠するか」  大海人は、妻の|※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野《うの》に言った。  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は、眉をひそめて、 「それは本心でございますか」 「本心だと言ったら?」  大海人は※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野を見た。  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は、露骨に蔑《さげす》みの色を見せて、 「逃げるのは嫌でございます」 「逃げるのではない、退くのだ。退くのも兵法のうちだぞ」 「そうでしょうか」 「そうだ。そなたのように、進むを知って退くのを知らぬのは、猪と同じだ。いずれ大けがをするか、敵に捕まる」 「敵とはどなたのことでしょう?」 「——」  大海人は絶句した。  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は帝の娘なのである。 「もし、わたしが——」  それだけ言って、大海人は言葉を濁した。  だが、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は敏感に察した。 「もし、帝と対立することがあれば、どちらに味方するか、ということでございますか」 「——」  そうだ、とは大海人には言えなかった。  そんな日が来ないことをのみ念じていたからである。 「わたくしは、あなたに味方します」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野はきっぱりと言った。 「よいのか」  大海人は、むしろ呆れたように、妻の顔を見返した。 「よいのです」 「わかった。もう言うな」  それは大海人にとって、最も心強い知らせだった。  大海人と※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は顔を見合わせた。 「いい妻を持ってよかったと思っている」  大海人が言ったその時だった。  帝からの使者が、大海人のもとへやって来た。  至急の召喚である。 「一体、何事だ」  大海人はとりあえず仕度をした。 「あなた、お気をつけになって、何か嫌な予感が致します」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野が言った。  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は勘の鋭い女である。  悪い予感は、はずれたことがない。 「わかった」  大海人邸から宮殿までは、わずかな距離である。  使者の蘇我臣安麻呂《そがのおみのやすまろ》が、門の外で待っていた。大海人を宮殿に導くためである。 「御苦労」  大海人は声をかけて、馬に乗ろうとした。  その時、安麻呂はすうっと近付き、小声で言った。 「帝の御前では、言葉にお気をつけ下され」  大海人は少し動きを止めたが、何も言葉を返さずに、馬に乗った。 (言葉に気をつけろ、とは——)  おおよその見当はついた。  宮殿に近付くと、今度はどこからともなく虫麻呂《むしまろ》が現われた。 「——なにやら、ただならぬ気配が致します」 「宮殿の中にか」 「はい」  馬の歩みに沿って、虫麻呂は、小走りについて来た。 「行かれぬ方がよいと存じます」 「いや、そうもなるまい」  大海人は真っ直ぐに前を見据えて言った。 「しかし、むざむざ火中に飛び込むこともございますまい」 「だが、行かねばまた新しい罠がかけられるまでのことよ」 「しかし——」 「いいから、このあたりに潜んでおれ」  大海人は唯一人で参内した。  帯びていた剣は、舎人《とねり》に取り上げられた。  帝の前に帯剣して出ることは出来ない。  帝は、いつもの場所ではなく、奥の間に一人で椅子に座っていた。  その顔には焦悴の色が濃い。 「どうなされました?」  大海人は驚いて言った。 「どうも体の具合がよくなくてな」 「それは、よくありませぬな」  そう言いながらも、大海人はあたりの気配をうかがっていた。  人数が伏せられているかもしれないのだ。  気配が感じられた。 「この際、そなたに位を譲り、朕《ちん》は身を退こうと思うが、そなたの存念はどうか」 「いえ、とんでもない」  大海人は跪《ひざまず》いて、頭を下げた。 「わたくしにそのような資格はありませぬ。御辞退申し上げます」 「なぜだ、こんなよい話はないではないか」  帝は驚いて言った。 (語るに落ちたな)  と、大海人は内心は思った。  餌をぶらさげれば、すぐに飛びつくと思い込んでいる。 「もし、どうしても位をお譲りになりたければ、大友皇子にお譲りになればよろしいのではございませぬか」 「いや、かの者はまだ若い」 「ならば、皇后《おおきさき》様にお譲りなさればよろしいではございませぬか」  大海人は間髪を入れずに言った。 「——」 「わたくしは、きょう限りに出家致します」 「出家——」  帝は目を見はった。 「はい。仏道修行に励みたく存じます。家の舎人、兵器はすべて朝廷に献上致します」  大海人は頭を下げ、そのまま逃げるようにして退出した。  帝は声をかけたが、大海人は無視した。  部屋の外へ出ると、大海人は舎人から自分の剣を受け取るやいなや、冠をはずして投げ捨てた。  そして、そのまま剣を抜いた。  舎人は顔を蒼白にして、後ずさりした。 「あわてるな」  大海人は笑い、もとどりを切った。 「わしはきょうより坊主になる。もはやこれは要らぬ」  と、大海人は剣を鞘におさめると、舎人に渡した。 「帝にお渡ししてくれ」  大海人はくるりと背を向けて、力強い足取りで宮殿を出た。 (矢が来るか)  それだけが気がかりであった。  帝が断固たる意志を示して、衛士《えじ》をして自分を狙わせれば、避けることはできないかもしれない。  だが、それは杞憂であった。  大海人は無事に宮殿を出ることが出来た。  邸に帰った大海人を見て、※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は絶句した。 「ふふ、驚いたか」 「どうなさったのです」 「——帝が、わしを殺そうとした」 「それは——」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は二の句が継げない。 「それゆえ、先手を取って坊主になってやったのだ」 「これから、どうなさいます」 「一切の身代を朝廷に献上する」 「まさか」 「いや、そうせぬと、こちらの身が危ない。——頭を剃るから手伝ってくれ」  大海人は奥に入ると、ただちに頭を剃り上げてしまった。  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は夫の素早い決断に、ただ呆れていた。  ただ、頭を剃ったついでに髭《ひげ》も落としてしまったため、夫が幾歳《いくつ》か若返ったように見えたのが、せめてもの救いだった。  大海人一家は、その日の暮れぬうちに、邸を明け渡して吉野へ向かった。      二  男は、その頃、都から少し離れたところにある廃屋で、新羅《しらぎ》からの新しい知らせを受け取っていた。  使者は口上で述べた。  下手に書状に書いたりすれば、途中で奪われる恐れもある。 「沙《さ》|※[#「冫+食」、unicode98e1]《さん》様、それで御返答は?」  使者は新羅語でたずねた。  沙※[#「冫+食」、unicode98e1]様と呼ばれた男は、悲痛な顔をして、 「ただちに返答は出来ぬ」 「は?」 「だが、必ず、我が国にとってよきようにはからうとお伝えしてくれ」 「かしこまりました」 「それで、いつ来るかな?」 「遅くとも来年の冬までには参りましょう」 「あと一年か」  男は嘆息した。 「——苦労であった。下がってよい」 「ははっ」  使者が下がると、男は沙摩《さま》を呼んだ。  沙摩は道行《どうぎよう》亡き今、配下の中で最も手練《てだれ》である。 「何か、悪いお知らせでも?」  沙摩には予感があった。 「うむ」  男はうなずいて、 「長安に忍び入りし間者の報告によれば、大唐はついに、日本と和を結び、わが新羅を討つという方針を決めたそうだ」  沙摩は息を呑んだ。  それこそ、新羅人にとって、最も恐れていた事態である。  北の唐と南の日本が手を組めば、新羅を挟み撃ちできる。  まさに亡国の危機だ。 「どうなさいます」 「それを今、考えておるところだ」  男は腕を組んで、じっと考え込んでいた。  肝心なことは、日本が唐の申し入れに乗るか乗らぬか、ということである。  もし乗れば、本当に亡国の危機だ。  日本の兵は強い。  しかも、唐の侵攻に備えて、帝は軍備の拡張を続けている。  臨戦態勢だ。  すなわち、いつでも出兵出来るということでもある。  しかも、今の帝は、新羅に対して憎しみを抱き続けている。  唐が対新羅同盟を申し入れた場合、それに乗る公算が非常に大きい。 (どうすべきか)  男は考え続けた。  一つの手段として、今のうちに帝を暗殺してしまうことが考えられた。  だが、これは危険の大きい賭けだ。  もし、これが新羅の仕業だとわかったら、逆に日本の国論は打倒新羅で統一されてしまう。  帝の後継者は、必ず唐との同盟に踏み切るだろう。 「そちはどう思う」  男は沙摩にたずねた。  沙摩は迷わずに、 「——かの御方を暗殺すべしと考えます」 「いや、それはまだ早い」  男はあわてて言った。 「なぜでございましょう」 「かの帝が、唐との同盟に踏み切るかは、まだわからぬ」 「されど、唐よりの使者が来てからでは遅うございますぞ。手遅れになったら何と致します」 「——」  男は痛いところを突かれたと思った。  確かに、それが一番不安だ。  この国の出方を見ているうちに、唐の使者がやって来たら、帝はさっさと態度を決めてしまうかもしれぬ。  そうなってから暗殺しても、今度は絶対に新羅が疑われる。  だから、今のうちにやれ、というのが、沙摩の考えなのである。 (それはわかる。充分にわかる、が)  男は迷っていた。  他に手はないのか。  唐の使者を殺しても、その代りはいくらでもいる。  唐を今以上に刺激することもまずい。  とどのつまりは、沙摩の手段しかないのか。 (だが、今しばらくは様子が見たい)  と、男は思った。  先手を打つのもいいが、じっくり構えて待つことも戦略のうちである。  ふと脳裏に、息子の大海人のことが浮かんだ。 (今頃、何をしておるやら)  その大海人が、都を捨てて吉野に逃れたことは、まだ男の耳に入っていなかった。      三  帝は、大海人皇子が抜けた後の、この国の体制を整えるために、矢継ぎ早に手を打った。冠位を定め、全国に戸籍を作ったのである。  これは、本邦始まって以来のことであった。  戦争をするには、自分の国がどれくらいの人口を持ち、どれくらいの人間が兵隊として使えるか、どれくらいの農業生産力があるかということを確認することが大切だ。  しかし、これまでそれをやった者はいなかった。この帝にいたって、初めてそれが全国的に、しかも完全な形で行なわれたのである。  しかし、そのことは民衆の不満を招いた。  民衆にとってみれば、すべてを把握されるということは、それだけで不気味なことである。これまで隠し田として持っていた財産や、隠し子のようなものまで、すべて国家に調べ上げられ、そのことが、よけい苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》を招くという結果になった。  しかし、帝は意に解さなかった。なぜなら、帝はそれがこの国のためであり、ひいては民衆のためであると信じていたからである。 (唐に国が滅ぼされては、元も子もあるまい。これは必要なことなのだ。文句を言うやつは許さん)  と思っていたのである。  このような情勢を、大海人は吉野の山で見ていた。  春、吉野は花の盛りであった。桜である。  桜は大陸の文化全盛のこの国にあっては、あまり持て囃される花ではなかった。  しかし、大海人は好きだった。ぱっと咲いて、ぱっと散る。花の盛りは短く、その見事な盛りを過ぎれば、あっと言う間の没落が待っている。それが何となく人の運命を象徴しているような気がして、むしろそこが好きなのである。  大海人はその日も、咲き競う桜のよく見える丘の上で、はるか都のほうを見ていた。 「皇子《みこ》様」 「虫麻呂か」  大海人は振り返った。果たしてそこに虫麻呂がいた。  膝をついたまま虫麻呂は、 「都に行ってまいりました」 「何か変わったことがあったか?」 「いえ、特に。相変らずでございます」 「相変らず?」 「はい。帝に対する怨嗟《えんさ》の声が満ち満ちております」 「そうか」  大海人は表情を暗くした。今の帝は大海人にとっては敵である。  しかし、大海人とてこの国を愛していることには変りない。  朝廷と民衆との間が離反すれば、それは外国に乗ぜられる隙《すき》となる。そうなるのは、決して好ましいことではない。  それから、虫麻呂はふと思い出したように言った。 「帝が漏刻《ろうこく》をお作りになりました」 「漏刻?」  聞き慣れぬ言葉に、大海人は首を傾げた。 「漏る刻《とき》と書きまする」  虫麻呂は言った。 「そうか、話に聞く水時計のことか」 「はい、そのとおりでございます。水が少しずつ漏れることによって、時を刻むという、あの漏刻が都の中央に置かれてございます」 「民に時を知らせおるのか?」 「はい。その都度《つど》、太鼓を打っておられるようで」 「ふん」  大海人は鼻で笑って、 「虫麻呂、時を支配するのは天を支配することだ」 「——」 「帝もいよいよ、自分こそが天地の支配者であるという信念を固められたのであろう」 「たいそうな御自信でございますな」 「うむ、自信ならよいが、過信は身の破滅を招く」  大海人は独語《ひとりごと》をするように言った。      四  その頃、海の向うの半島では、新羅討伐を命ぜられた唐の将軍たちが会議を開いていた。  唐と新羅は、手を組んで百済《くだら》を倒した時は、盟友であった。この盟友関係こそ、新羅による朝鮮半島の統一をもたらし、日本の勢力を駆逐した最大の原動力であった。  しかし、いざ朝鮮半島の三国のうち、高句麗《こうくり》と百済が滅びてみると、唐は今度は新羅による半島統一を嫌った。  唐にとっては、もともと領土を広げることが目的なので、新羅が朝鮮半島を統一し、ひとり強くなることは、唐の将来にとっても決して望ましいことではない。 「皆のもの、何か意見があれば述べよ」  首座にある、劉徳高《りゆうとくこう》が言った。劉徳高は文官である。  唐の朝廷は、文官が軍団を支配することになっている。将軍は直属の軍団を指揮はするが、最終的な判断は文官が下すのである。  劉は、今や唐から派遣された朝鮮半島総督という立場にあった。  ただし、このところ新羅の反抗が激しく、高句麗の遺将の反乱に大量の兵を送って力を貸したり、百済の独立運動を助けたりして、唐に刃向かってきている。 「この際、日本と同盟を結んではいかがでしょうか」  真先《まつさき》に、近くにいた郭務《かくむ》|※[#「りっしんべん+宗」、unicode60b0]《そう》という男が言った。  郭は、この度、将軍に抜擢されたばかりの最も若い軍人の一人であった。  その男が勢い込んで、そのことを提案したのである。  劉はうなずいた。 「そのことは考えていなかったわけではない。だが、日本が承知するか?」  劉の心配はもっともであった。そもそも遠交近攻《えんこうきんこう》という策がある。  遠交近攻策とは、遠くの国と交わって、隣の国を討つという、中国の伝統的な戦略であり、かつて秦《しん》の始皇帝が、この方法で中国全土を統一したことでも有名である。  だいたい隣国同士というのは仲が悪いものだ。そこで、中国にとって邪魔なすぐ隣の国を討つために、さらにその隣の国と国を挟んで同盟を結ぶのである。  そのようにして、邪魔な国を討った後は、その国が自分の領土になる。  今度は、かつての盟友であった国と隣同士になる。そして、領土を広げるために、そのかつて盟友であった国を討つために、さらにその一つ隣の国と同盟を結び、その国を挟み討ちにするのである。  現に唐が朝鮮半島を収めようとした時、この手を使っているのである。  唐の南下政策に対して頑強に抵抗したのは、朝鮮半島の最も北方に位置した高句麗であった。  そこで唐は、この高句麗を討つために、その南にある新羅と手を結んだ。そして、新羅と唐の連合軍は、首尾よく高句麗を滅ぼし、さらに百済も滅ぼし、ここに新羅による朝鮮半島統一が成ったのである。  しかし、そうなってくると、もう新羅は唐にとっては邪魔者なのであった。  そこで今度は、新羅のさらに隣の国である日本と同盟を結んで、新羅を挟み討ちにしようというのが、郭の提案であった。  この方法は、中国の伝統的戦略であるから、劉も他の将軍たちもみんな知っていた。しかし、それでもあえて提案しなかったのは、日本が果たしてその手に乗ってくるかどうかということが、危惧としてすべての人間の心にあったからである。  劉も、その点を質問した。 「しかし、日本の王はわが国を嫌っているというぞ。果たして、その手に乗るか」  郭は頭を下げ、 「わたくしにお任せください。必ず日本の王を説得してみせましょう」 「ほう、どうやってやる?」 「まず、先年、白村江《はくすきのえ》の戦いの折、われらの捕虜となった日本人を送り返してはいかがでしょう」 「うむ、なるほどな」 「あとは、日本の王をさんざんおだて上げるのでございまする。先年からの使者の報告によっても、日本の王はおだてに乗りやすい性格だとの報告がまいっております」  劉は黙って聞いていた。他の将軍たちも、郭の熱弁に次第に引き込まれていった。 「日本の王はわれらを恐れ各地にさまざまな城を築き、兵を養っておると聞きまする。しかし、そのために民衆の怨嗟の声も高く、戸惑いもあるようでございます。これはひとえに、われらの力を恐れてのこと。そのわれらがわざわざ出掛けて行き、捕虜を返してやり、辞を低くして同盟を頼めば、いかがなものでございましょう。かの王は、必ず乗ってくるのではございませぬか」 「だが、それは亡国の道だぞ」  と、別の将軍が言った。  郭はうなずいて、 「いかにも。それは、日本にとっての亡国の道でございまする。しかし、それほどのことが、かの王に判断できるでございましょうか。何といっても、蛮族の王でございまする」 「それはそうだな」  と、劉が口を開けて笑った。将軍たちもドッと笑った。  郭も笑顔でうなずいて、 「たかが蛮族の王一匹、わたくしの言葉でどのようにも、その気にならせてみせましょう」 「よかろう、やってみせい」  劉はうなずいた。 「日本と新羅を噛ませるのだ。そして、日本が新羅を滅ぼし、日本もへとへとになってわれらの国に滅ぼされるがよい。はははは。皇帝陛下もさぞお喜びになるだろう」  劉は再び笑って、その日の会議を終えた。  郭には百済の捕虜、沙宅孫登《さたくそんとう》に命じて、百済人の捕虜を糾合させた。孫登は、かつて日本にいたことがあるので、日本語もうまい。  郭はこの男を通訳にし、日本に捕虜を送っていくことを考えた。とりあえずそのために、孫登を獄から出してやり、自分の屋敷の庭に引き連れた。 「わしの命令を聞けば、生かしてやる。それどころか、わが朝廷に仕え、身の立つようにしてもやろう。どうだ、その気はないか?」  孫登は長い獄中生活で気力が衰え、体力も衰え、髪はぼうぼうになり、垢だらけの体であった。  だが、その言葉を聞くと、信じられないように大きく目を見開き、郭を見た。 「将軍、それはまことのことでございますか」  郭はうなずいて、 「まことだ。そなたの言葉の才を買いたい」 「言葉の?」  孫登は首をひねった。 「そなたは、わが国の言葉も日本の言葉も話せる。もちろん、百済の言葉にも通じておる。つまり三国の言葉が自由に話せる男だ。わしは、そなたのような存在が貴重だと思う。それ故に獄から出したのだ。わが部下となり、手足のように働くならば、将来を約束してやってもよいぞ」  孫登は庭の土に額を擦《す》りつけて、 「かたじけのうございます。おっしゃってくだされば、わたくしはどんなことでもいたします」 「よし、ならば許してやる。そなたに考えてほしいことは、まず一つだ」 「なんでございましょう」  孫登はけげんな表情をして、顔を上げた。 「日本という国の王をたらし込む、このことだ」      五  九州|大宰府《だざいふ》。この地を守る軍団の司令官として、栗隈王《くりくまおう》は赴任してきていた。もう三年になる。都も三年離れてしまうと恋しくなくなるものかと、栗隈王は時々考えていた。  ここは日本の国を守り、そして外国との付き合いを保つための最も重要な要の地である。  外国の軍隊が来る時も、使節が来る時も、必ずこの大宰府を経由して都に向かう。  ここは、日本という国の第一防衛線であり、外交の最前線でもある。その重要な任務を、栗隈王は任されていたのである。  ただ、栗隈王は今の帝に対しては、あまりいい感情を持っていなかった。いや、もっと正確に言えば、反感すら持っていた。  労役に次ぐ労役、重税、戸籍の設定による徹底的な搾取。これだけのことでも民の怨嗟を招くのに十分であるのに、帝はなおかつ、新都の造成や役所の組織替えのために無駄な費用を使っていた。  さらに、栗隈王を絶望的な気分に追い込んだのは、中央政界から大海人皇子が追放されたということを聞き及んだ時である。 「まったく世も末じゃな」  と、栗隈王は部下でもっとも信頼している武智麻呂《たけちのまろ》に言った。  武智麻呂は、けげんな顔をして主人を見た。 「いやさ、大海人皇子のことよ」  栗隈王は、大宰府の政庁にほど近い屋敷にいた。この屋敷の高殿からは、周辺の山並みがよく見える。  大宰府政庁といえば、もともとは海辺に建っていた。高殿に登れば、いつでも海を見ることができた。ところが、唐との対立が深まった結果、海辺では攻撃されやすいということになり、大宰府はこんな内陸の地にまで引っ込んでしまったのである。  それも栗隈王には不満であった。  いざという時、艦隊の動きを見たり、自らも艦隊を引き連れ出撃する時も、やはり大宰府は海辺にあったほうが便利である。  しかし、今の帝はこの国の首都ですら、海辺にあるのは危険だからと言って、難波《なにわ》から大津にまで引き籠もらせてしまった。一事が万事、この調子なのである。 (唐の強大な力を考えれば、止むを得ぬことかもしれぬ。だが、もう少し他に手はないものか)  その時、栗隈王の部屋に血相を変えて飛び込んできた者があった。 「何事じゃ。御前で無礼であるぞ」  武智麻呂が咎めた。  入ってきた男は、真っ青になり平伏し、 「申し訳ございません。火急なお知らせでまいりました」 「何だ、火急の知らせとは」  栗隈王が振り返った。 「はっ。ただいま、壱岐《いき》に唐のものと思われる軍船《いくさぶね》が姿を現わしたという知らせでございます」 「何?」  栗隈王は蒼白となった。 (いよいよ唐が攻めて来たか) 「それで、敵の船の数は?」 「それが、おびただしく……」  と、男は頭を下げ、 「大小取り混ぜて、数え切れぬほどだということでございます」 「数え切れぬ?」  その言葉を繰り返して、栗隈王は体の血の気が一気に引いていく感じすらした。 (間違いない。唐がとうとう攻めて来たか) 「いかが致しましょう」  武智麻呂が栗隈王に決断を促した。  栗隈王は混乱する考えを急いでまとめて、 「よいか。まず唐に本気で戦をする気があるのか、しかと確かめるのだ。よいな。必ず先に手を出してはならぬぞ」 「ははっ」  男は頭を下げた。 「そのこと、一刻も早く壱岐に伝えよ」 「ははっ」  男は再び平伏すると、今度は脱兎《だつと》のごとく部屋を飛び出して行った。  武智麻呂は栗隈王を見て、言葉を口に上らせようとするが、なかなか出てこなかった。  武智麻呂の喉もカラカラに乾いていた。それは栗隈王も同じだ。 「いよいよ、この国の滅亡の秋《とき》が来てしまったのだろうか」      六  吉野にいる大海人皇子の元に、唐の軍船が近づいたという知らせが届けられたのは、夏も終わりの頃だった。  使者として来たのは、武智麻呂である。  大海人はこの男とは、九州にいた頃、よく栗隈王の館で会っていた。 「武智麻呂か、久しいな」  大海人はまず、武智麻呂にそう声をかけた。  武智麻呂は膝をついて拝礼し、 「皇子様もお変りなく、何よりです」 「何を申すか」  大海人は笑って、頭を撫でた。その頭は剃髪した後、伸びほうだいに伸びていて、冠も被らず、いわば蓬髪《ほうはつ》といった趣《おもむき》であった。 「このわたしの頭を見よ」  大海人は笑って、 「息災どころではない。一度は死にかけたのだぞ」 「うかがっております」  武智麻呂も笑って、 「御無事で何より、と申し上げておきましょう」 「うん。そなたも堅固そうで何よりじゃ。ところで、急ぎの使者ということであったが?」  大海人は不審の目を向けた。 「はい。お人払いを願わしゅう存じます」  武智麻呂は言った。  大海人はうなずいて、 「では、外へ出よう」  と、自ら先に立って庭に出た。  仮住まいであるため、庭といっても外へ出れば、そのままそれが吉野山の一画なのであった。  桜の盛りはとうに過ぎており、今はむしろ秋の気配が漂っている。  その森の中に、大海人は武智麻呂を誘った。 「よい。そのまま話せ」  と、大海人は言った。  歩きながらである。  武智麻呂はうなずいて、 「実は、唐の軍船が数十隻、大宰府沖合に現われてございます」 「何と」  大海人は驚いて振り返った。 「そのような話、聞いておらぬぞ」 「はい。これはまだ大宰府の者のみが知ることにて、帝にもお知らせしておりません」  武智麻呂は意外なことを言った。 「帝にも?」  大海人は首を振って、 「なぜだ? この国の大事ではないか。なぜ、まず帝に知らせぬ」 「それが、わが主人のお考えなのでございます」 「栗隈王殿が、いったい何をお考えになったというのだ」  武智麻呂は近付いて、人目を憚《はばか》るように辺りを見た後、小声で、 「皇子様、このままではこの国は滅びます」  と、言った。  大海人も眉をひそめて、 「どういうことだ」 「はい」  武智麻呂はさらに大海人に近付いて、耳打ちするような形で言った。 「唐の使いは郭務※[#「りっしんべん+宗」、unicode60b0]と申す将軍にて、わが国に対して同盟を申し入れております」 「同盟とは、唐との同盟か」 「はい」 「ともに新羅を討とうというのだな」 「はい」  武智麻呂はうなずいた。  大海人は腕組みして立ち止まり、 「そのことを、なぜ帝にお知らせせぬ」 「わが主人が申しますには、もしこのことをお知らせすれば、帝はおそらく諸手を上げて、これに同意なさるのではないかと」 「——」 「おわかりでございましょう、皇子様。さすれば、この国はいずれ滅びます」 「遠交近攻というわけか」 「はい、そのとおりで」 「だが、帝がその話を受けると決まったわけでもあるまいに」 「はい。実は私はこれより、大宰府よりの正式の使者として、都を訪ねるつもりでございます」 「帝にお知らせするのか」 「はい。お知らせし、どのように処置いたすべきか、御返事をうかがってこいというのが、わが主人の命令でございます」 「帝より先にわしに知らせたのは、いったいどういうわけだ?」 「さて、そこでございます」  武智麻呂は、じっと大海人を見た。  しばらく、沈黙が二人の間を支配した。 「もし、帝が唐との同盟に応ぜられるならば、そなたはそのことをわたしに知らせてくれるな?」 「はい、お知らせいたします。それがわが主人の命にもございます」 「もし、帝が唐との同盟を受け入れると仰せられたら、どうするというのだ」  大海人は、鋭い目で武智麻呂をにらんだ。  武智麻呂はその場に平伏し、頭を大地に擦りつけ、 「何とぞ、お察しくださいますようにというのが、わが主人の口上にございます」  その真意は、もう大海人にはわかりすぎるほどわかっていた。  唐との同盟は、この国にとって亡国の道である。だとすれば、それを防ぐ手段をとる他はない。それがこの国に生まれた者としての務めだ。  しかし、それはとどのつまり、帝を討つということにもなるのである。 (それしかないのか)  大海人は血走った目で、辺りを見回した。      七  武智麻呂は大津の都に入り、帝に拝謁を願い出た。大宰府の栗隈王から命ぜられた、唐との同盟についての判断を仰ぐためである。 「同盟じゃと?」  帝は、初め驚きの表情を浮かべ、ついで何とも理解しかねるという顔をしてみせた。 「いったい、どういうわけだ」 「ははっ」  武智麻呂は、畏《かしこ》まって説明を始めた。  壱岐に唐の軍船が現われ、その大将である郭務※[#「りっしんべん+宗」、unicode60b0]が、日本に対して同盟の申し出に来たという経過を述べたのである。 「そもそも唐は、新羅が邪魔になったのでございます」  武智麻呂は言上した。 「新羅が?」 「さようでございます。唐にとって、新羅は走狗《そうく》にすぎません。韓《から》の地をすべて唐の領土に収めるための、走狗にすぎませなんだ。ところが、百済、高句麗を滅ぼし、首尾よく韓の地を治めようとしたところに、その走狗である新羅が牙をむいて襲いかかってきたのでございます」 「なるほど。その小癪な新羅を、わが国と共同して討とうというのか」 「さようでございます」 「その郭務※[#「りっしんべん+宗」、unicode60b0]という男は、同盟のために都に入りたいと申しておるのだな」 「はい、そのとおりにございます」  帝はしばらく考えていた。武智麻呂は、臣下の分際を越えたことではあったが、一歩進んで思い切って言った。 「このことについて、僭越ながらわが主《あるじ》栗隈王の意見を言上してもよろしゅうございましょうか」 「うむ、よかろう。この際だ、申してみよ」  帝はそれを許した。 「そもそも、唐がわが国と同盟を結びたいと申しているのは、邪魔な新羅を滅ぼすのが目的でございます。そしてその新羅を滅ぼしてしまえば、つぎにその牙がわが国に向けられることは必定。なろうことなら、このお話、辞退されるのがよろしかろうというのが、わが主栗隈王の意見でございます」  帝はそれを聞いて、少し不快な顔をした。 (いったいどうなされるつもりだ、帝は)  武智麻呂は、心の底からひやりとする思いを感じていた。 「いかが思う」  帝は、かたわらに侍していた息子の太政大臣大友皇子に聞いた。大友は頭を下げて、 「わたくしはこの際、唐と同盟を結ばれるのがよいと存じます」 「ほう、どうしてじゃ」 「とにかく、あの憎《に》っくき新羅めを叩きつぶすことこそ、もっとも肝要な優先すべき課題であると信じるからでございます。かの国は、もとはわが国に対して朝貢した国でありながら、今は無礼の限りを尽くした上に、韓の地に我らが持っていた領土をも奪い去った、不倶戴天《ふぐたいてん》の敵でございまする。この敵に天誅を加えますことこそ、まず第一のことかと……」 「うむ。よくぞ申した」  帝は言った。そして、他の大臣の意見はもう聞こうともしなかった。直ちに帝は、武智麻呂に向かって言った。 「直ちに大宰府に戻り、唐の使者を歓迎せよ、と伝えよ。わが国は、貴国と同盟を結ぶ意志がある、とな」 「では、わが主栗隈王の意見は、お採り上げにはなさらぬということでございますか」 「無礼者っ」  帝は叫んだ。 「そなたは使者の分際で、何を口を出す。栗隈王の進言であるというから、聞いてつかわしたのだ。それを、一介の使者たるそちが、改めて念をおすとは何事か」 「はっ、申し訳ござりませぬ」  武智麻呂は、床に額を擦りつけて謝罪した。 (もう終わりか)  武智麻呂の心には、絶望のみがあった。      八 「まことか、それは」  大海人の体全体から、力が抜けた。武智麻呂は、床に跪《ひざまず》いてうなだれていた。決断は下った。日本は、亡国への道を一歩歩みだそうとしている。  大海人は、長い間沈黙していた。その沈黙を破ったのは、武智麻呂であった。 「皇子《みこ》様、どうか御決断を」 「決断と申しても」  大海人は血相を変えて、武智麻呂を見た。 「そなたは、それが何を意味するかわかっているのか」 「十分にわかっておりまする」 「だが、仮にも兄だ。今すぐというわけにはいかん」 「しかし時が移りますと、何の意味もなくなることになりまする。わたくしは、これより大宰府に戻らねばなりませんが、帝の方針をお伝えするのにあと二十日というところでございましょうか」 「二十日……」 「さようでございます。あと二十日の間に手を打たねば、何もかも無駄となりまする」  大海人は沈黙した。武智麻呂は続けた。 「わが主栗隈王の申すところによりますと、この間、おそらく帝は一度や二度は狩りに出かけるものと思われまする。帝のお気に入りの狩り場は、御存じのとおり山科から宇治へかけての野。あの辺りには、わが主の元の領地、栗隈郷もございますゆえ、里人も皇子様の一挙に合力いたすと申しております」 「段取りは、すべてついているというわけか。あとは、わたしの決断を待つというのだな」 「さようにござりまする。なにとぞ、わが国と人民のために、お立ち上がりくださりますよう、伏してお願い申し上げます」  大海人は、空を見ていた。  雲一つない快晴であった。このような明るい光の中で、なぜ人は、人の命を闇に葬るということを決めなくてはいけないのだろうか。  昔から、決して好きではない兄であった。しかし、それを自分の手で殺すなどということになろうとは、夢にも思わなかったし、いくらいじめられたからといって、やはり殺すとなるとどうしても、心が怯《ひる》むのである。 (だが、やらねばなるまい)  もう猶予はできないのだ。帝の意志が唐の使いに伝わってしまえば、すべては終わってしまう。 「武智麻呂」 「はい」 「安んじて大宰府に戻れ。栗隈王殿に、わたしはそなたの意向に従おうと伝えてくれ」  武智麻呂は立ち上がった。 「あ、待て」  大海人は声をかけた。 「よいか。日ならずして、わが国に大乱が起こるかもしれぬ。その時は、なにとぞ大宰府の力をこの大海人めにお貸しくだされと、栗隈王殿に伝えてくれ」 「承知いたしました。申し遅れましたが、皇子様」 「なんだ」 「栗隈郷との連絡は、栗隈の里長《さとおさ》へ、酒麻呂《さかまろ》という者にお伝えください。委細、この者にお命じになれば、あとは準備万端整えられております」 「わかった」  大海人は、溜息とともに答えた。      九  決断をしたというものの、大海人の足取りは重かった。虫麻呂がいつの間にか、目の前にいた。 「皇子様、お察し申し上げます」  大海人は、黙って虫麻呂を見た。 「今さら、何を言っても始まらんのだ。ここまでくる間に、何とかできなかったものか」  つぶやくように、その言葉を漏らした。 「もともと、こうなる運命であったように、わたくしは思います」  虫麻呂はそう言った。 「運命か。運命といえば、母を同じくしながら、父は日本と新羅に分かれるということから、すでにこの運命は始まっていたのかもしれない」 「皇子様、栗隈郷の長、酒麻呂との連絡にはわたくしがまいりましょう」 「そうしてくれるか」 「皇子様も、お心を強くお持ちになりませんと」 「わかっている」 「では、まいります」  いつもは、いちいち断らない虫麻呂が、わざわざそう言って去ったのは、大海人の心のうちを思いやってのことである。そのことは、大海人にも十二分にわかった。  大海人はそのまま家に帰ったが、一言も口をきかなかった。  その様子に、妻の|※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野《うの》が気がついた。 「あなた、いったいどうなさったのです」  大海人は答えなかった。これが答えられるはずもない。 「何か、心に期すことがおありならば、わたくしに話してください。それが夫婦というものではありませんか」 「それはわかっている」  大海人は、その日帰って初めて言葉を口に出した。 「このことは、知らぬ方がいいかもしれぬ」 「何が起こったというのですか」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は問い詰めた。 「この国の危機が迫っている。その危機を防ぐためには、あることを為さねばならぬのだ」 「帝を討つと仰せられますか」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野が突然そう言ったので、大海人は驚いて妻の顔を見た。 「わかりますとも」  ※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は言った。 「あなたの妻です。あなたがどのような立場におかれ、何をお考えになっているのか、察しがつかなくてどうします」 「だが、わたしはそれが正しいことかどうか、本当は今も決めかねているのだ」  と、大海人は言った。※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は励ますように、 「もし、あなたがそれを正しいとお考えになるならば、たとえ誰が反対してもおやりになるべきです。人がいかなることを言っても、それは気にしなければよいではありませんか」 「だが……」  大海人は、あえて言った。 「わかっているのか。帝は、そなたの父なのだぞ。その父を、わたしは討とうとしているのだ」 「わかっています」  そう言って※[#「盧+鳥」、unicode9e15]野は、燃えるような目で大海人を見た。      十  虫麻呂は、日が暮れぬうちに栗隈郷に入った。  栗隈郷は巨椋《おぐら》池という湖ほどもある大きな池のほとりにあり、池から掘削した水路が田畑に注ぐ、極めて豊かな地だった。  その巨椋池の水面に、まさに夕陽が没しようとしている時、虫麻呂は郷の入口にたどりついたのである。  里長の家は四方を柵で囲まれており、門には見張りがいた。 「里長に会いたい。取り次いでくれ」  見張りの若者に、虫麻呂は言った。  若者は、じろりと虫麻呂を見た。 「何者だ」 「大海人皇子様の使いだと言ってくれ。そう言えばわかるはずだ」 「ここで待て」  そう言って若者は中に入り、しばらくして戻ってきて虫麻呂を入れた。  家の中では、白|髭《ひげ》を垂らした老人が待っていた。 「皇子様のお使いと伺いましたが」  老人は顔を合わせるなり言った。 「そうだ、武智麻呂殿に聞いて来た」  武智麻呂の名を出した途端、老人の目から警戒の色が消えた。 「これは御無礼申し上げました」  と、老人は虫麻呂を上座に据えた。 「わたくしは、この里の主《あるじ》酒麻呂でございまする」 「——虫麻呂と申す」 「これは、わが孫の早足《はやたり》でございます」  と、老人は先程の若い男を紹介した。  早足の目からは、警戒の色が消えていなかった。 (わしが本当に皇子様の使いかどうか疑っている)  虫麻呂は察した。 「これこれ、この御方は、皇子様のお使いに相違ないぞ」  老人——酒麻呂がたしなめるように言った。  早足は答えなかった。  そうでしょうか、とでも言いたげな目をしている。  酒麻呂は呆れたように、 「取り越し苦労もいい加減にせい。もし、この御方が、朝廷《みかど》の回し者ならば、今頃この里は官軍に取り巻かれているところだ」 「その通りだな、早足」  虫麻呂は笑って、 「わしは武智麻呂殿の名を出した。すなわち武智麻呂とこの里のつながりを知っておるということだ。間者ならば、とうの昔に知らせておるよ」  その言葉に、早足もようやく警戒を解いた。 「それでよい。では、本題に入ろうか」  虫麻呂は膝を進めた。 「その前に、今度の一挙を成し遂げるため、信ずべき者どもを三人ほど加えたいのでございますが」  酒麻呂が許しを乞うた。 「よかろう」  虫麻呂は認めた。  早足がすぐに行き、三人の男を呼んできた。  男はいずれも、三十そこそこの屈強な青年で、 「風見《かざみ》」 「魚手《うおて》」 「湯石《ゆいし》」  と、それぞれ名乗った。 「この者共は、栗隈王様のために一命を捧げると誓っております」  酒麻呂が言った。 「ほう、これほどの若者共が」  虫麻呂は感心した。 「この里は、もとはろくに作物も取れぬ貧しいところでござった。それをあの御方が、大溝を掘ってくだされて豊かな村に変ったのでござる。われわれ里人は、あの御方こそ真の主《あるじ》と思うておりまする」 「なるほどな」 「あの御方の御命令とあらば、水火もいといませぬ」 「わかり申した」 「そこで、段取りでござるが——」  酒麻呂が早足に目くばせをした。  早足は早速、その場に図面を広げた。  それは巨椋池を中心にした、この辺りの地図だった。 「帝がよく狩りに来られるのは、この辺りでござる」  酒麻呂は池の北東側を指さした。  栗隈郷は池の南西側、つまり池を挟んで対称的な位置にある。 「こちらから事を起こし、一件が済み次第、その亡骸《なきがら》は舟で運び込むというのはいかがでしょう」 「それで、この辺りに埋めてしまうというのか」  虫麻呂は言った。 「仰せの如く——」  酒麻呂が答えた。 「それでよかろう。ただし——」  虫麻呂は気になっていたことがある。 「そもそも、帝をどのようにして討つかということだ」  狩りに出かけたところを討つといっても、帝は一人ではないのだ。 「そのことも、お任せあれ」  今度は早足が言った。 「どうする?」 「われらが勢子《せこ》となりまする」  早足の言葉に、他の三人もうなずいた。  狩りの獲物を追い立てるのが、勢子の役目である。  狩りに来た帝を、そのまま獲物にしてしまおうということになる。 (これは面白い)  虫麻呂は不敵にも笑った。  だが、これは一歩間違えば全員の死につながる。  もし発覚すれば一挙に、参画した者ばかりでなく、一族皆殺しにあうだろう。  だが、そんな心配をしている者は一人もいない。  少なくとも虫麻呂はそう感じた。 (これなら、うまくいく)  そうでなければならなかった。  失敗すれば、大海人皇子だけでなく、この国そのものが滅びるのである。      十一  帝は心が弾んでいた。  これまでは、唐の侵攻への恐怖が頭を離れず、夜も寝られぬし、胃のあたりも痛むことが多かった。  もしも唐が侵攻して来れば、国土は焦土となり、この身は虜囚《りよしゆう》となるのだ。  有り得ぬことではない。  現に百済はそうなったではないか。  王都は無残にも唐の馬蹄に蹂躙《じゆうりん》され、数百の官女は断崖から身をおどらせて入水した。  そして王家の一族は、遠く長安まで連行されたのである。  しかし、その不安も今は一掃された。  唐と同盟した以上、その心配はない、なにしろ同盟国なのだから。  帝は有頂天だった。  その心が、帝の行動を浮き立たせていた。 「狩りに行くぞ」  政務を放り出して、帝は叫んだ。  唐との戦争を前提として、苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》の挙句に集めた税で、城を造り兵を養ってきた。  百済人を重臣に起用して、国内の体制を固めもした。  そのことが、また重圧となって、帝の心を苦しめていた。  その重圧からすべて解放された今、帝は何も恐れるものが無くなっていたのである。  帝は、大勢の臣下を引き連れて、自ら馬に乗って出かけた。  狩りは、山科から宇治にかけての狩り場が、帝は一番気に入っていた。  勢子を使って、獲物を追い出し、自らの弓矢で射止める。  特に、馬に乗ったまま弓を射るのは極めて難しい。  だが、帝はその名手だった。  もっとも、それには勢子の腕もある。  帝が最も弓を射やすいところに、獲物を追い出さねば、いかに名手といえども如何《いかん》ともしがたい。  鬨《とき》の声があがり、猪や鹿が次々と追い出されたが、どうしたわけか、きょうの獲物はどれも逃げ足が早かった。 「どうしたことだ」  帝は歯噛みして口惜しがった。  なまじ心の晴れやかな状態であっただけに、獲物が得られないことへの不満がつのった。 「なんとかせい」  帝は舎人《とねり》を怒鳴りつけた。  皇太子で太政大臣の大友皇子も、左大臣の蘇我赤兄《そがのあかえ》、右大臣の中臣金《なかとみのかね》も近くにいたが、帝がひとたび怒りだすと、誰も止められない。 「父上」  大友が、たまりかねて口を出した。 「何だ?」  帝は、きっとなって、振り返った。 「本日は、日がよろしくないようです。これで引き上げてはいかがでしょうか」 「たわけ者!」  帝は一喝した。  大友は首をすくめた。 「これは、朕《ちん》の狩りじゃ。獲物なしに引き上げたとあっては、しめしがつかぬではないか」 「申し訳もございません」  大友は蒼白になって謝った。  その時、森の奥の方で声がした。 「奇瑞《きずい》じゃ。白い鹿がおるぞ」  勢子が叫んでいるらしい。  帝の眼の色が変った。 「白い鹿じゃと」  白い鹿は滅多にいるものではない。  そういう珍獣が出現することは、王者の徳を示すことになる。つまり、王者に徳があるから、その御世《みよ》を讃えるために、天が下し賜うのである。  そうした珍獣を捕えてこそ、天の祝福を証明できることになる。  帝の眼の色が変ったのは、それが原因だった。 (早く追い出せ)  帝は心の中で叫んだ。  しかし、勢子の動きはにぶい。 (ええい、朕自ら捕えてくれるわ)  帝は馬に鞭を入れた。  馬は森の中に向かって走り始めた。 「どこだ」  白鹿の行方を求めて帝は叫んだ。 「こちらでございます」  間髪を入れずに、返事があった。  森の奥に向かって、かろうじて馬が進めるほどの細い道がつながっている。  その奥から声は聞こえた。  帝はためらわずに進んだ。  あせりもあった。  ぐずぐずしていると、肝心の獲物を逃してしまう。まるで供を振り切るようにして、帝は中へ入ったのである。  森の中は人の気配もなく、陽光は遮断され、昼なのに暗かった。  一瞬とまどいを覚えた帝は、辺りを見回した。  すると、それを待っていたかのように、二人の男が木陰から出てきた。  栗隈郷の早足と風見だった。  二人は一礼すると、早足が言った。 「御先導致します」  早足は素早く馬の手綱を掴んだ。  風見は馬の横にぴたりとついた。 「そちは何と申す」  帝は、一応は名を尋ねた。 「勢子の竹麻呂と申します」  早足は偽名を名乗った。 「そうか。——では、頼む」  知らない顔だったが、勢子の顔を一々知っているわけではない。それよりも今は一刻も早く、白鹿を捕えたい。その思いが勝《まさ》っていた。 (しめた)  早足は、内心|小躍《こおど》りしていた。  ここが計画の要《かなめ》だったのだ。  これさえうまくいけば、計画は八分通り成功したも同然である。  早足は手綱を引いて、急いで駆け出した。  風見は辺りに気を配った。  脇道にそれて、帝の姿をまず隠してしまうことが必要だった。  早足に引っ張られるようにして、馬は森陰に消えた。  それとほぼ同時に、後を追ってきた大友や中臣金らが、そこに現われた。  まさに、間一髪の差であった。 「帝はいずこに行かれたのであろう」  金は首をひねった。  しかし、それほどの重大事とは考えていなかった。狩りの途中で、その姿を見失うことも、それほど珍しいことではないからだ。 「父君もせっかちな御方だからな」  大友も苦笑して言った。      十二  帝はしばらく気付かなかった。  しかし、いくら何でもおかしいと思ったのは、勢子の「竹麻呂」が先程から走り詰めに走っていることだ。  随分と森の中を駆けているのに、獲物の白鹿はおろか他の勢子の姿も見えない。 「待て、とまれ」  帝は叫んだ。そして、自ら手綱を引きしぼって、馬をとめようとした。  驚いた馬は棹立ちになった。  帝は悲鳴を上げて、馬にしがみついた。  手綱をもぎ取られた形の早足は、急いで馬をなだめた。 「この無礼者めが」  帝が鞭でぴしりと早足の顔を打った。  早足の顔から血が流れた。 「お静まり下さい」  低いが、よく通る、毅然とした声がした。 「何者だ」  帝は、動揺さめやらぬ馬にしがみつくようにして、言った。 「わたくしです」  大海人が前に出た。  右手に槍を持ち、静かに帝を見つめていた。  その表情には、深い悲しみの色があった。  帝は、愕然として大海人を見た。 「何、何をしに参った」  大海人の頭に、ちらと別の考えが浮かんだ。 (もし、ここで日唐同盟のことを翻意させることが出来れば——)  だが、それは所詮意味のないことだと、大海人は気が付いた。  そう要求すれば帝はうなずくだろう。だが、それはこの場だけのことだ。  宮殿に戻れば、たちまち前言をひるがえし、大海人たちの追討を命じるだろう。  そうなっては、もはやこの国を救うことは出来ない。今を逃せば、二度と好機はないのだ。 「——この国の安泰のために、死んで頂く」  大海人はとうとうその言葉を吐いた。 「なんだと」  帝は怒りを露《あらわ》にして、 「気でも狂ったか、朕はこの国の王であるぞ」 「わかっている。だからこそ死んで頂くのだ」  その言葉と同時に、飛電のように鋭く早い槍が、帝の腹に突き刺さった。 「お、おのれ、逆徒め——」  帝は槍の柄を掴んで、苦痛のうめきをあげた。  大海人は、勇を振りしぼって、槍を左にねじり込んだ。帝はたまらず馬から落ちた。  どすんという大きな音がした。  帝は大地に叩きつけられていた。槍はその衝撃で腹から抜けていた。  気の遠くなるような激痛にもかかわらず、帝は傷口を押さえ、這うようにしてその場を逃れようとした。  その周りを、早足ら栗隈郷の若者四人、そして虫麻呂が囲んだ。 「助けてくれ、頼む」  行く手をさえぎる虫麻呂に、帝は取りすがった。  だが、虫麻呂は巌《いわお》の顔を変えない。  大海人は、その背後で槍をかまえた。  こうなったら、出来るだけ苦しませずにあの世に送ることが、慈悲というものである。 (成仏されよ)  大海人は、帝の項《うなじ》を一突きした。  ここは急所である。  帝は獣じみた叫び声を上げて硬直し、大海人が槍を引き抜くと、ゆっくりと仰向けに倒れた。  大海人は大地に静かに槍を置くと、前に進んで帝の死に顔を見た。  その目は、かっと見開かれ、その顔には激しい恐怖が刻まれていた。大海人は悲しげにその場に跪《ひざまず》くと、手をのばして帝の目を閉じさせた。 「——終わったな」  深い溜息と共に、大海人は目を閉じて、自ら手にかけた兄、いや本当は弟の冥福を祈った。      十三 「——この馬はいかが致しましょう」  しばらく間を置いて虫麻呂がたずねた。  なまじ慰めの言葉を言うよりも、その方がいいと思ったのだ。 「殺すまでのことはあるまい、放してやれ」 「かしこまりました」 「それより、こちらの方をな」  と、大海人は無惨な帝の死体に目をやった。  早足らが進み出て、素早く帝の体を筵で包んだ。そして、前と後ろを二人で掴んで運び去った。 「皇子《みこ》様、参りましょう。長居は無用というもの」  虫麻呂がうながした。 「——これで終わったな」  大海人は同じことを言った。  虫麻呂はふと不安になって、 「皇子様、これからどうなさるおつもりで?」 「さて——。吉野に戻って四季の移り変りでも楽しむとするか」 「それはなりませぬ」  虫麻呂は気色ばんで言った。 「なぜだ、わたしは止むを得ざるとはいえ、大逆の罪を犯したのだぞ。謹慎するのが当然ではないか」 「ならぬ」  突然、あらぬ方角から声がした。  大海人も虫麻呂も驚いて身構えた。  この一挙を見た者がいるのか。  総髪の男が、いつの間にかそこに立っていた。 「父上!」  大海人は驚いて叫んだ。  虫麻呂は大地にひれ伏した。 「沙《さ》|※[#「冫+食」、unicode98e1]《さん》様」  虫麻呂の口から、つぶやくような声が漏れた。  大海人の父はつかつかと二人に歩み寄って、 「それはならぬぞ」  と、念を押した。 「なぜです、父上」 「今、この国は極めて難しい舵取りをせまられておる。逃げてはならぬ。それを為すのがこの国の王家に生まれた者の責務だ」  父は大海人を見据えて言った。 「しかし、大津京には、新しい政《まつりごと》の担い手がいます」  大海人は抗議するように言った。 「何を言う。かの者共に、この国が任せられるか」  父は一喝した。  大海人は沈黙した。  確かにその通りだ。  おそらく大友皇子は、父帝の遺志を継いで、唐との同盟を目指すだろう。そうなったら、せっかく帝を暗殺した意味がなくなる。  ここまで来た以上、徹底的にやるしかない。  そのことは、実はわかっていた。  だが、帝の命を奪った時、突然襲ってきた空《むな》しさが、そのことへの意欲を失わせたのである。 「どうした、わが息子よ。やるのか」  大海人は驚いて顔を上げた。 「父上、今何と仰せられました」 「——わが息子、と申した」  父の目には、うっすらと涙がにじんでいるのが見えた。 「父上」  大海人は思わず駆け寄って、その両手を強く握った。 「やります。この国に平和と安寧をもたらしてみせます」  大海人の目にも涙があった。  父と息子は、そこで初めて抱擁しあった。  短くて、長い時が過ぎた。  別れ際、父はふと気が付いて、草むらの中から沓《くつ》を拾い上げた。  片方だけの沓、それは帝のものであった。 「亡骸《なきがら》を運ぶ時に落ちたのであろう。——手抜かりじゃな」  父は言った。  だが、息子はそれを受け取ると言った。 「このあたりに放り出しておきましょう」 「よいのか?」  父は驚いて言った。 「かまいませぬ。——京《みやこ》の者たちも、何の形見も無いでは困りましょう」  大海人は沓をその場に捨てた。 [#4字下げ]*   *  ふと、気が付くと、大海人皇子は美濃国|不破《ふわ》関の仮屋にいた。  大友皇子の、いや近江朝の帝の首が運ばれてくるという知らせを聞いたのは、つい先刻のことである。  夢のような三十年だった。  先の帝を亡き者にするまでの雌伏の時期、そして帝を倒してからは、国中に檄を飛ばし、近江朝に反対する勢力を結集して戦に勝った。  勝ったのは、大海人の路線こそこの国にとっての正しい道筋だと、多くの人が信じたからである。  もはや、逃げも隠れもしない。この国の王者として、新しい秩序を築き上げる。それが自分に課せられた使命なのである。 「終わったのではない。これから始まるのだ」  大海人は外に出た。  山と山に囲まれた盆地に、東の方から顔を出した日輪が、黎明の光を注いでいた。  夜明けが始まったのである。  この後、この時代の歴史を編んだ人々は大海人のことを「天武帝」と呼び、先帝を「天智帝」と呼んだ。  その天智の死について「正史」の『日本書紀』は病死と記している。しかし、数百年後、大津三井寺の阿闍梨《あじやり》にして浄土宗の開祖法然の師でもあった皇円《こうえん》は、自ら著した歴史書『扶桑略記《ふそうりやつき》』の中で、天智の最期について次のように記している。 「馬を駕《ぎよ》して山科《やましな》の里に御幸《みゆき》して還御《かんぎよ》なし。永く山林に交りて崩ずる所を知らず。ただ、その履《は》ける沓の落ちたる所をもって山陵となす」  その天智帝の墓は今も京都市山科区にある。 本書は平成六年一〇月、秋田書店より「黎明の叛逆者」として刊行された作品を改題したものです。 角川文庫『日本史の叛逆者 私説・壬申の乱』平成9年12月25日初版発行                      平成14年4月10日8版発行